文字サイズを変える  
リストボタン(160)
善は一つも失われない
かつて存在したものは、存在し続ける
悪は空であり、無である
善は善として存在し続ける
地にてはきれぎれの弧であっても
天にては完全な円  (ブラウニングの詩より)

○これは、キリスト教における基本的な確信です。神はいっさいの善いことの源であり、神ご自身は永遠の存在です。それゆえに、善そのもの、善きことそのものは、人の目には一時的に消えたように見えても決して消えてはいないのです。善いことはごく断片的にしかない、いくら善いことがあっても、じきに消えていくように見えます。それがここでいう、「きれぎれの円弧」のように見えるということです。しかし神の国においては、つねに完全な円として、すなわちいかなるものも害することもできない完全なものとして存在し続けているのです。
 神の愛や、美そのもの、清いもの自体は、地上でどんなに小さなものに見えようとも、また時に消滅していくように見えても、完全なかたちで存在しつづけているわけです。
リストボタン春の朝
ロバート・ブラウニング(*)

年は春
時は朝
朝は七時
丘の斜面には真珠の露がおり
ひばりは空に舞い
かたつむりはサンザシに這う(**)
 神は天に在り
 この世はすべてよし!(***)

The year's at the spring,
The day's at the morn;
Morning's at seven;
The hillside's dew pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in His heaven,
All's right with the world!

(*)イギリスの詩人。一八一二年〜一八八九年。
(**)サンザシとは、中国原産のバラ科の植物。日本のカマツカという植物の近縁種で花も、実もよくにている。原文は、単にthorn であって、トゲ、またはとげを持つ植物を意味する。hawthorn は、サンザシ。ここでブラウニングは、単にとげのある植物、茨を指して言っているだけかも知れないし、hawthorn の略として使っている可能性もある。上田敏は、トゲという意味を無視して単に「枝」と訳している。
(***)(劇詩『ピパ、過ぎゆく』221行以下 (一八四一年)この劇詩は、イタリア北部の町で、製糸工場の女工として働く少女ピパの物語でここに引用されたのは、その中に出てくる詩。ここに引用したのは、松本侑子訳。
なお、 year's、day's などは、 year is、day is の短縮形。

○ なお、参考のため上田敏の訳と、岩波文庫のイギリス名詩選の訳をあげておく。

時は春、
日は朝、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、(*)
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。(上田敏訳・「海潮音」より)

(*)揚げ雲雀とは、空高く上がった雲雀。
・この訳は有名であるが、肝心の最後の二行の意味が不明瞭で原文の意味を十分に伝えているとは言い難い。
---------------
歳はめぐり、春きたり、
日はめぐり、朝きたる。
今、朝の七時、
山辺に真珠の露煌く。
雲雀、青空を翔け、
蝸牛、棘の上を這う。
神、天にいまし給い、
地にはただ平和!
(「イギリス名詩選」平井正穂編 岩波文庫)

この詩は、春になるとよく思い出される詩の一つであろう。
冷たい冬の季節、それはすべてが沈黙し、命を失ったようになっている。ようやく冬が終わり春になり、新たな生命が随所で感じられるようになってきた。春の朝、それも皆が目覚めて活動をはじめる七時ころ、周囲の自然を見ると、そこには静かに広がる丘にある野草たちには露が真珠のように日の光を受けて輝く。ふとみれば、雲雀はそのつばさをもって舞い上がりつつ歌っている。さらに近くのとげのある木にはそうしたとげも何の気にも留めないかのようにカタツムリが静かに這っている。ここには、静まった春の朝、清い大気から結ばれた露に清澄なる天来のしずくを思い、広がる丘陵をそうしたいのちの水によってうるおされるさまが感じられる。
また、その静けさを破るように雲雀がその大いなる自然を賛美しつつまったき自由をもって飛翔する。それは自由と賛美の象徴なのである。
命なきもののように見える大気や、露、丘の広がりにも背後の御手の働きがあり、小さな虫にも秘められた神のわざがある。
日常的に見られる光景のなかに、輝くものがあり、メッセージが聞こえてくる。それは、そうした一切の背後に神がおられるから、神の御手によってそれらがなされているからなのである。
その神に信頼するならば、すべて良し! と言える。
不正と闇に満ちた現実の世界にあって、私たちは、愛と真実の神、万能の神を信じるときには、こうした気持を持つことができる。主イエスは幼な子のような心によらなければ、天の国を見ることはできないと言われた。
この歌は、悪に入り込んだ人たちの心に清流を流す少女の歌として劇詩に現れる。
また、モンゴメリの「赤毛のアン」では、その最後にこの詩の最後の部分が引用されている。

「『神は天に在り、この世は総てよし』」と、アンは小さくつぶやいた。
“God's in his heaven, all's right with the world,' whispered Anne softly. (第38章)

いかにこの世が問題に満ちていて、複雑きわまりない様相を呈していても、すべてを御手におさめておられる神がおられる、しかもその神は完全な真実と愛をもっておられることを幼な子のように信じるときには、私たちには確かに平安が与えられる。主イエスが、「私は世に勝利している。私の平安(平和)をあなた方に与える」という約束をのこしてこの世を去っていかれたが、確かに信じる者には、この主の平安が与えられ、すべては善い、あるいはさらに良くされるという実感を得ることができる。
それはすでに聖書の最初の部分に、言われたことであり、その後永遠に世界に響き続けていく預言のように記されている。
「神は創造されたすべてのものを見た。それは極めて良かった。」(創世記一・31)