(351)…わが主イエスよ、あなた様を思うのは、私の霊感でございます。…あなた様のみ言葉の一つ一つを、胸の中で味わっていますと、何とも言えないすがすがしい気持ちになってまいります。あなた様のみ言葉は、みんな平易ですから、私どものようものにもよくわかります。…

「幸いなるかな、悲しむもの、その人は慰められん」と仰せになりましたが、本当にそうだと思います。

  悩みのときに、じっと心を澄ませて、あなた様のみ言葉を思い続けていますと、次から次に、お優しい言葉の数々が浮んできて、それが命あるもののように、一つ一つ私の心の傷を包んでくれます。まことに活ける泉です。(「清流」内田正規遺稿集 26頁 1956年)

・内田正規は、1934年24歳のとき、結核にて苦しむ人たち相互の祈りの会として、「午後三時相互祈祷療友会」を結成し、同時に連絡雑誌として「祈の友」を創刊。ここに引用した文は、黒崎幸吉が出版した本に掲載。なお、黒崎も「祈の友」に加わっていた。

 この内田の文に表れているように、神の言葉(主イエスのみ言葉)こそは命であり、心に深い傷を持った者に癒しを与えてくださる。人はパンだけでは生きられない。み言葉によって命を与えられるということがこうした文からもはっきりと示されている。 



(352)「私たちが、自分の力の中ではなく、神の力の中にいることを知って下さい。」(「殉教者行伝」教文館発行 82頁)

・ここで引用した「殉教者行伝」は、17世紀以来、「殉教者伝」あるいは、「聖者伝」として集められていたものからの訳であり、これらは、2世紀中頃から4世紀に至る古代のキリスト者たちの、逮捕、拷問、処刑などの迫害に関する、不可欠の基本的資料だとされている。

 この言葉は、ローマ皇帝を神としてあがめ、犠牲を捧げることを拒み、キリストと神のみを礼拝するということのために、群衆の前で野獣と戦うことを宣告された若き女の言葉。

 彼女の父親は、自分の娘が殺されること、その女の乳児がどうなるかと不安と恐れに取りつかれていたが、ここに引用したのは、その父親に語りかけた言葉。


 父親は、自分と子供や兄弟のためにどうか神々やローマ皇帝を拝んでくれ、と必死に頼んだが、女は、いかなる困難のなかにあっても、またこの世を悪が支配しているようにみえてもなお、自分たちは神の力の内にあるのだという確信をもって父親を説得したのであった。

 拷問や野獣の餌食になることを宣告されてもなお、神の愛とその御支配を確信し続けていられた、古代の殉教者たちの勇気に満ちた言動は、驚くべきものがある。これは日本の秀吉の時代から江戸時代の迫害の記録を見ても同様なものがある。肉親からの哀願をも越えて、神への従順を堅く守り、残された家族は神が守るとの啓示を受けてみずから命をささげていった人たち…。極限的状況にあって、神が何を与えるかを示している。


リストボタン(89)幼な子のように

神の国は
幼児のごと、己を低くして
信頼一途
受くる者ならでは入ること能わない

人はこれ所詮幼児にすぎず
思いわずらい嘆くは止めて
信じ委ねてただ受けん哉
神は必ず善きものを賜う(内田 正規著「帰りなむ、いざ」17Pより キリスト教図書出版社)
○内田 正規(一九一〇〜一九四四)は「祈の友」を起こした人。三三歳で召されたが教派を超えた「祈の友」という集まりは今も続いている。「帰りなむ、いざ」とは、今から一六〇〇年ほど昔の中国の詩人の、陶淵明の言葉であるが、内田はそれをキリスト者として、天の国、魂のふるさとに帰ろうという意味で用いている。結核の重い患者として、日毎の病気の苦しみ、家族への負担、将来の不安などさまざまの悩み悲しみに包まれているただなかで、まっすぐまなざしを神に向け、神の万能に信頼していこうという著者の心がここにある。
(203)
老いゆく母を楽します
言葉知らぬにあらねど
明日知らぬ露の命
ただ、天の国の喜びのみを語るを
母は喜ぶか、喜ばぬか。…

さわれ主イエスよ、
君のみ言葉つゆ違わねば
まことの仕合わせ つきぬ喜びをこそ
母に賜うは君なるを知る
たとえわが家絶え果つるとも
君が御国は永遠に栄えん
(「祈の友」信仰詩集 48Pより 三一書店 一九五四年刊)
○この詩をつくった、内田 正規は、夫のいない二五年の生活を続ける母の一人子であった。母は唯一の望みとして内田が元気で働くことを望んでいたが、それもかなわず、息子は結核に伏せる身となった。母は病院の板の間に座って夜遅くまで、息子の入院治療のための金の工面する手紙を書きつつ、「お前が元気になったら自分はころりと逝くだろう」というのであった。
いかに苦しみが大きく、またこの世の安楽や楽しみは得られなくとも、主イエスがともにあるとき、この作者は、不思議な力を与えられ、その苦しみに耐えて希望を持ち続けることができたのがうかがえる。
右の引用は詩の一部である。この詩全体として悲しみが流れているが、その悲しみに打ち倒されない力をも与えられているのが感じ取れる。
内田は結核であった上に、耳も難聴であったため、当時の性能の著しくわるい補聴器を使っていたことが彼の書いたものにみえる。若くして病に倒れたが、二二歳のころから全国の結核患者の魂とからだの救いのために祈り始め、午後三時に祈り合う「祈の友」を形成した。通信誌を発行し、十年あまり主幹として祈りを深めたのち三三歳で召された。当時最も恐れられていた結核の病という闇のなかにキリストの光を見出した「祈の友」の祈りは七〇年を経て今日も続けられている。