リストボタン208)愛というのは、力であって、使えば使うほどあふれてくる。泉のように汲めば汲むほど湧き出てくるし、使えば使うほど育ってくるものなのです。(「人間としてどう生きるか」渡辺和子著)


○ここで言う愛とは、自然のままの人間が持っている親子や友人、男女に生じる人間の愛でなく、神からの無差別的な愛を指している。人間的な愛は、この言葉に言われているような本質がなく、特定の人にだけ自分の感情を結びつけるために相手の態度で大きく左右されるし、裏切られたりすると憎しみになる。さらにこうした愛はそれを持てない人からのねたみを引き起こすことも多い。
神からの愛は、特定の人でなく、だれにでも及ぶ本質を持っていて、それゆえ主イエスは、隣人を愛せよと言われた。神の愛を受けるならそれが可能になるということである。
自分の近くに置かれた人、それがどのような人であっても、また自分の好き嫌いの感情で対処するのでなく、その人が最善になるようにとの願いの心が、神からきた愛だといえる。そのような愛については使えば使うほど、増えてくる。愛に限らず、神が持っておられる真実や正しさ、あるいは清さなども同様で用いるほど、自分の内にもまた相手や周囲にも増えるという本質がある。
キリストの愛はたしかに、無数の人によって用いられ、泉のように世界にあふれてきた。それが世界にキリストのことが伝わっていく原動力になっている。


210)愛によってのみ「見える」ものが世の中にある。だから私たちは聖書のなかに出てくる盲人と同じく、「主よ、見えるようにして下さい。」と祈らなければならないのだ。日常生活の随所にいらっしゃる主のお姿に気づくように。(「愛をつかむ」渡辺和子著)


○この世では逆に「愛は盲目」であるという。それはこの世の人間的な愛、自分中心の愛はまさにそうである。ふつうの男女の愛というのはたしかにほかのことが分からなくなるようになってしまうことが多いし、親子の愛なども同様にほかの子供は見向きもしないで、ただ自分の子供だけが成績がよかったらいいなどと願う、狭いものである。
しかし、神からの愛を受けるとき、それはすべてを見通す神に由来する愛であるから、そのような愛を受けるほど、燃えるような心であると共に理性的となり、また相手の心を理解し、あるいは見抜き、本当に大切なことが見えてくる。また周囲から無視されているような人や敵対するような人間の中にすら、そこに大切なものが神のお心を通して見えてくる。
たしかに学問などを通しても、また経験を通しても見えてくるものがあるであろうし、それは数々の自然現象を科学的に説明できるようになったことでも分かる。
しかし、病気や障害のために弱い人、老齢のため死が間近にせまっている人や、苦しみや悲しみにうちひしがれている人、あるいは敵対する人、さらには自分自身にふりかかってくるさまざまの苦難のなかに大切なものが見えてくるというようなことは、学問をいくらしても、経験がいくら豊かであってもそれだけでは決してできないことである。
それはただ神の愛によってのみ可能となってくる。