リストボタン(350)被造物のただ一つでも、敬虔で、感謝する心の豊かな人にとっては、摂理を感じさせるのに十分なのである。
そして私は大きなことでなく、次のようなこと、草から牛乳が生じ、さらにチーズが、そして羊の皮膚から羊毛が生じる―こういうことを考えだした者は誰なのだろうか。「誰でもない」と人は言う。おお、何という無感覚、何という恥知らずなのだろう。…
我々は、人と一緒の場合にも、一人の場合にも、神を賛美したり、その恵みを数えあげるべきではないだろうか。
掘っているときも、働いているときも、食べているときも、神の讃美歌を歌うべきではないだろうか。
(エピクテトスの談話集より (*)岩波文庫版「人生談義」上69〜71頁より)

(*)エピクテトス(紀元55〜135年)は、古代ギリシアのストア派の哲学者。キリストの使徒たちが福音を伝えていた時代と重なるほぼ同時代の人である。奴隷であったが後に解放され、貧しい生活のなかから人間のあり方、本当の幸いとは何かに関して深い思索を残し、それがここに引用した談話集などとして現代も読むことができる。
スイスのキリスト教思想家、カール・ヒルティは、その著書「幸福論」第一部にエピクテトスの語録を引用し、その内容は、キリスト教の倫理的内容に最も近い古代の著書であると書いている。

リストボタン(148)他のある者は自分の田畑をより立派にしたときに喜び、また他のある者は、生まれより善くしたときに喜ぶように、私は毎日私自身がより善くなるのがわかる時に喜ぶ。(エピクテートス(*)「語録」第三巻五章より)
○何に喜びを感じるか、それによって私たちは自分の精神の成長を知ることができる。食物に喜び(快楽)を感じるのは、人間も他の動物にも共通している。人間は、財産や物、お金を増やして喜びを感じることもある。また、何かを学んで喜びや楽しみを感じるのは、人間の特質だといえよう。人から誉められたり、認められることも喜びになる。
 しかし、物はなくとも、食物も乏しくとも、また人から誉められたりしなくとも、単独でも喜びを感じることができる驚くべき世界が人には与えられている。それがここでいう、自分自身がより善くなることを喜ぶことである。
 聖書で約束されているように、私たちのうちに主イエス(神)が住んでくださるとき、その内なる主によって、直接に「あなたの罪は赦された!」とか「恐れるな、私が共にいる!」などの静かな語りかけを感じるようになり、そのことで私たちは実際に自分が善くされたことを感じて喜ぶのである。罪赦されることは、罪が清められることであり、確実に私たちは善くされたからである。また、恐れるなとの励ましで力を受けるとき、やはり私たちはこの世の悪に負けないで歩みを続けられるということで、たしかに善くされるからである。このように、主からの語りかけを感じることは私たちを必ず善くする。それはその静かなみ声そのものが、私たちの魂を清め、新しい力をも与えてくれるからである。
 私たちが神ご自身を喜ぶことができれば、自分がより善くなっていることを実感させるものとなる。

(*)ローマのストア哲学者。(AD五五〜一三五年頃)奴隷の子として成長したが,向学心があったため,主人は当時の有名なストア哲学者のもとに弟子入りさせ,後に解放して自由人としてやった。真理への愛(哲学)を教えて生涯を終えた。生涯,著作を書かなかったが弟子が書き残した語録などがあり、それは後のローマ皇帝マルクス・アウレリウスに大きい影響を与えた。
リストボタン(149)より善くなるとき
他のある者は自分の田畑をより立派にしたときに喜び、また他のある者は、生まれより善くしたときに喜ぶように、私は毎日私自身がより善くなるのがわかる時に喜ぶ。(エピクテートス(*)「語録」第三巻五章より)
 何に喜びを感じるか、それによって私たちは自分の精神の成長を知ることができる。食物に喜び(快楽)を感じるのは、人間も他の動物にも共通している。人間は、財産や物、お金を増やして喜びを感じることもある。また、何かを学んで喜びや楽しみを感じるのは、人間の特質だといえよう。人から誉められたり、認められることも喜びになる。
 しかし、物はなくとも、食物も乏しくとも、また人から誉められたりしなくとも、単独でも喜びを感じることができる驚くべき世界が人には与えられている。それがここでいう、自分自身がより善くなることを喜ぶことである。
 聖書で約束されているように、私たちのうちに主イエス(神)が住んでくださるとき、その内なる主によって、直接に
「あなたの罪は赦された」とか
「恐れるな、私が共にいる」
などの静かな語りかけを感じるようになり、そのことで私たちは実際に自分が善くされたことを感じて喜ぶのである。 
 罪赦されることは、罪が清められることであり、確実に私たちは善くされたからである。
 また、恐れるなとの励ましで力を受けるとき、やはり私たちはこの世の悪に負けないで歩みを続けられるということで、たしかに善くされるからである。 このように、主からの語りかけを感じることは私たちを必ず善くする。それはその静かなみ声そのものが、私たちの魂を清め、新しい力をも与えてくれるからである。

(*)ローマのストア哲学者。(AD五五〜一三五年頃)奴隷の子として成長したが,向学心があったため,主人は当時の有名なストア哲学者のもとに弟子入りさせ,後に解放して自由人としてやった。真理への愛(哲学)を教えて生涯を終えた。生涯,著作を書かなかったが弟子が書き残した語録などがあり、それは後のローマ皇帝マルクス・アウレリウスに大きい影響を与えた。
リストボタン(165)我々は、人と一緒のばあいにも、一人の場合にも、神を讃美したり、ほめたたえたり、その愛を数え上げるべきではないだろうか。畑を掘っているときも、働いているときも、神への讃美歌を歌うべきではないだろうか。
「偉大な神、神はわれらに道具を与えて下さった。偉大な神、彼は私たちに手を与え、喉をあたえ、胃をあたえ、知らぬ間に成長させ、眠りながら呼吸できるようにして下さった。」と。
…多くの人々は盲目になっているのだから、誰かがその埋め合わせをして、みんなのために神への讃美歌を歌うべきではないのか。
老人になり、足も不自由になった私は、神を讃美するのでなければ、他の何ができるだろうか。…私は理性的存在である。私は神をたたえねばならない。これが私の仕事である。私はそれを行っていく。私はこの仕事を離れないだろうし、また、あなた方をも同じこの歌をうたうようにと勧める。「エピクテートス 語録」上岩波文庫(「人生談義」) 70〜71頁より)
○たえず神への讃美ができること、それは私たちの最終目標である。私たちが罪赦され、聖霊を受け、神の愛を受け、その愛を分かつといった道を歩むことができるほどに、その心からは自然な神への讃美が生まれるであろうから。私たちの現実はいかにそうした状況に遠くとも、そうしたところへと道は続いている。
旧約聖書の詩編にも、その150編にわたる最後には、神への讃美詩篇が集められていること、新約聖書においても、神に感謝せよ、と繰り返し教えられていることもこのことを指し示すものとなっている。
リストボタン(199)もしあなたが、誠実であろうとするならば、だれがあなたにそれを許さないだろうか。…人間は誠実(*)のために生れてきたのであって、それを覆す者は、人間固有のものを覆すのである。(エピクテートス「語録」第二巻二、四章より)
(*)(*)「誠実のために」 原文のギリシャ語では、 pros pistin(プロス ピスティン) 。 pistin とは、pistis の変化形(対格)で、「誠実」と訳された pistis は…「誠実のために」pros pistin 。誠実と訳された pistis は真実、信仰とも訳される語。地位を高めるということ、財産家になるとか有名になることは、無数の妨げがある。何かの事故や病気となっても直ちにそれはかなえられなくなる。しかし、私たちが真実なものになろうとすることは、たしかにどのようなものも妨げることはできないはずのものである。不正を受けても相手のために良きことがあるようにと祈る心は真実な心であるが、そうした心の方向は私たち自身が決めることができるし、力足らなければ神に求めていくことができるようになっている。人間とは単に享楽や飲食などのために造られたのでなく、「真実」というものに向けて創造されたというのは動物との根本的な違いの一つといえる。 私たちが本当に真実であり得るのは、不信実な本質たる罪赦され、完全に真実なお方である神にたえず導かれるときである。
リストボタン(328)神への賛美
(われわれに)理性があれば、どうだろう。われわれは人と一緒の場合にも、一人の場合にも、神を賛美したり、ほめたたえたり、その恵みを数え上げるべきではないだろうか。畑を耕しているときも、鋤を使っているときも、食事しているときも、神の讃美歌をうたうべきではないだろうか。
「偉大なる神! 神はわれらに土地を耕すこれらの道具を与えて下さった。偉大な神! 神は手を与え、喉を与え、胃を与え、知らない間に成長させ、眠りながら呼吸をさせて下さる。」と。
また、神はわれわれにそれらを理解する能力や、使う能力をも与えて下さった。それゆえに、最も大切で最も神的な讃美歌を歌うべきである。
…多くの人々は、盲目になっているのだから、だれかがその埋め合わせをして、みんなのために、神への讃美歌をうたうべきではないだろうか。足の不自由な老人である私は、神を賛美するのでなければ、ほかの何ができるだろうか。
…私は理性的存在である。それゆえに、私は神を賛美するべきなのである。これが、私のなすべき働きである。私はそれをする。そして私に与えられているかぎり、この地位を捨てないだろうし、またあなた方にも、この歌をうたうようにすすめるのである。
(エピクテートスの談話集「人生談義」上巻 七〇〜七一頁 岩波文庫 )(*)
(*)エピクテートス(紀元五五〜一三五年頃)は、ギリシアにおける足の不自由な奴隷。解放された後、哲学を教え、ストア哲学者として著名。その談話集(語録)は、今日まで多くの人によって愛読されてきた。ヒルティも幸福論(全三巻)の第一巻の冒頭で、エピクテートスの思想のエッセンスが含まれている内容を取り入れている。

・ここで言われていることは、哲学といっても、何も難しい議論、難解な思索を要求するものではない。それは本来は、だれでもができることであり、キリスト教的主張であることに驚かされる。使徒パウロが、常に喜べ、祈れ、感謝せよ と教えているのと似たものを感じる。
また体にハンディがあったり、年老いても、神を賛美することにおいては、何ら妨げとはならない。そして、自分だけが賛美するのでなく、神から受けたものが分からない人たちに代わって賛美するのだ、そして、ほかの人たちにも神への賛美の重要性を勧めるのだと言っている。
これは、本当によいことは、自分だけで納めておかないという姿勢がある。これも、互いに分かち合うことを重視するキリスト者の考え方にとても近いものがある。