リストボタン(348)神のために生きる

…魂のために、真理に従い、神の言葉に従って生きていると言った百姓の言葉を耳にすると同時に、おぼろげではあるが、意味深い考えが群れをなして、今まで閉じ込められていたところから、急に飛び出して来たかのようであった。
そしてそれらの考えは、みな一様に、一つの目的に向かって突進しながら、その輝きで彼の目をくらませつつ、彼の頭の中で渦巻きはじめた。…
百姓の言った言葉は、彼の心に、電気の火花のような作用を起こして、これまで一時も彼をはなれたことのない、断片的な地のない、ちりぢりばらばらのおびただしい考えを、突如として変形させ、ひとつのものに結合した。(「アンナ・カレーニナ」トルストイ著588頁 河出書房)

・これは、この著作の終末部に近いところで、主人公が次第に神への信仰に目覚めていくところである。長いあいだ、この主人公(レーヴィン)は、自分とは一体何であるのか、何のために生きているのか、ということがわからずに生きてきた。それが分からなかったら生きていくのは不可能である。ところが自分はそれを知らない、だから生きていくことはできないのだ…と考えていた。
そのような精神の暗闇でさまよっていたとき、ようやく光が射し込んだのである。生きていくとは、真理そのもの、神の言葉に従って生きていくことだ、そのために自分はこの世に存在しているのだ、ということがはっきりとわかってきたのである。
細かい字で三段組みで600頁を越すこの長編の目的は、この最後のところにある。この生きる目的を知らずに、あるいはそれに意図的に背を向け、自分の欲望や自分の意志によって生きていこうとしたとき、いかに深刻なさばきを受けていくか、それがアンナの生涯―最後は列車に飛び込む―で象徴的に示されていく。
この長編の最初の扉に書かれている言葉は、「復讐は我にあり、我これを報いん」(ローマの信徒への手紙12の19)である。神のために生きようとしないときには、必ず神によって裁きを受けるということなのである。
そういう裁きを受けることなく、ただ信じるだけで与えられる救いを皆が受けられるようにと、キリストは来られ、十字架にかかられたのであった。


リストボタン(175)彼は、自分の魂を知っていた。それは彼にとって尊い者であった。彼はそれを、ちょうど瞼(まぶた)が、眼を保護するように、護っていた。
そして愛という鍵なしには、何人も自分の魂のなかへは入れなかった。(「アンナ・カレーニナ」河出書房版 トルストイ著 392頁)

○人はだれでも自分の心、あるいは魂といったものにたいてい鍵をしめて他人が入らないようにしていると言えよう。トルストイが書いているように、心のなかに入るためには、愛をもってしなければできないというのは多くの人が感じているだろう。
人間を創造された神ご自身にもいわば鍵がかかっていて、自然のままの人間にはそれを開く鍵を持っていない。
人の心だけでなく、神の心にもそして神が書かせた私たちへの言葉といえる聖書も、また神のこの世に関する大いなる御計画もまた、同様である。さらに私たちの周りにある自然の世界も同様で、それらにははある種の眼にはみえない鍵がかかっていると言えよう。
黙示録では「封印された巻物」(黙示録五・1)と記されている。
私たちはまず信仰によって、さらに神への愛によってのみ、こうしたさまざまの世界へのとびらを開くことができる。
「 門をたたけ、さらば開かれる。」

トルストイは、一八八四年に書いた「わが信仰はどこにあるか」という著書のなかで、次のように述べている。

… 私は五十五年間、この世に生きてきた。そして幼年期を除いては、…一切の信仰を失ったという意味での、
ニヒリスト(*)として生きてきた。
五年前、私はキリストの教えを信じるようになり、私の生活は突如として一変した。…
十字架にかけられた盗人がキリストを信じて救われた。…私もちょうどこの十字架上の盗人のように、キリストの教えを信じて、救われたのだ。…
私にとって一切の鍵であったのは、マタイ福音書五章39節の「目には目、歯には歯をと言われている。しかし、私はあなた方に言う。悪しき者に手向かうな」という箇所であった。
私はいきなり、しかも一度でこの一節をじかに、素直に理解できた。…この言葉は、突如として私には、まるで今までついぞ読んだこともなかったような、全く新しいものに思われてきた。…
キリストは決して頬を差し出せ、苦しみを受けよ、と言っているのではなく、「悪もしくは悪しき者に逆らうな」、と言っているのである。この言葉こそ、私にとっては、一切を啓示してくれた真の鍵であった。これらの言葉を素直に理解しただけで、キリストのすべての教えの中で、もやもやしていたことがことごとく理解しやすくなったのである。…
幼少のときから私は教えられたーキリストは神であり、その教えは聖なるものであると。しかし、同時にまた、悪しき者には抵抗すべしと教えられ、悪しき者に対して忍耐するのは恥ずべきことと吹き込まれた。戦うことも、すなわち、殺人によって悪しき者に反抗することも教えられた。…
しかし、悪への無抵抗ということこそは、人間の共同生活の基礎たるべきものであり…
キリストは、言う、「あなた方は、法律が悪を矯正するものと思っているがーそれはただ、悪を増大させるだけである。悪を根絶する道は、ただ一つ、一切の差別なしに、万人に対し、悪に報いるに善をもってすることである…。」と。
…悪に対する無抵抗というキリストの教えは、私がそれまで全く知らなかったもの、全く新たなものとして私の前に立ち現れたのである。(「わが信仰はどこにあるか」トルストイ全集第十五巻6〜34Pより)

(*)真理・価値・権威、制度、超越的なものの実在などをすべて否定する考え方。

この文章は、いかにトルストイが福音書の主イエスの言葉のうち、とくに「悪人に手向かうな、敵を愛し、迫害するもののために祈れ」という言葉から、革命的な変化を受けたかを情熱的に表している。
彼は、十字架による罪の赦しということは十分な啓示を受けなかったとみられるが、この悪への無抵抗ということについては、当時の多くのキリスト教の指導者以上に、特別な啓示の光を受けたのがこうした著作ではっきりと示されている。
神は、とくにご自分のご意志をはっきりと人間に示すときに、特別にその目的に合った人を選び取る。トルストイはこの悪への無抵抗ということに対する、神の特別な選びの器であったと言えよう。
その著作から、七年ほど経って書き始められたのが、「神の国はあなた方の内にあり」という著作である。この書の冒頭に、次のようにある。

…私の著書に対する最初の反響の一つは、アメリカのクェーカー派からの手紙であった。クェーカーは、これらの手紙の中で、キリスト教徒においては、あらゆる暴力や戦争をしてはならないという、私の主張に対して共感を表しつつ、二百年以上も事実上、暴力をもって悪に抵抗するな、というキリストの教えを信じ、過去においても、現在においても、自分を守るために武器を用いたことがないという自分たちの派の方針の詳細を私に知らせてきた。…(「トルストイ全集第十五巻158頁より」)

このように、トルストイの前述の著作にいち早く反応し、その共感を示したのがクェーカーであった。
そして、さらにトルストイは、ロシアにおいて生れたキリスト教の一つの教派で、徹底して非暴力を主張した人たちが、迫害され、千人あまりも処刑され、さらに彼らは、国外追放されることになったことに強い関心を示した。彼が、最後に書いた大作、「復活」は、このドゥホボール教徒二万人以上をロシアからカナダに移住させる費用を生み出すために書かれたほどであった。トルストイは、五十七歳のときに、著作物に対する印税を受けとらないという決断をしたが、それをあえて破って印税を受け取り、それを彼らの移住資金にあてたのである。
このような、全く芸術とは無関係の、社会的な援助という動機で書かれた世界的な名著というのは、古今を通じてこのトルストイの「復活」しかないであろう。そうした目的での著作であったにもかかわらず、
この作品は、高い評価を受けることになった。(*)