(405)ルターの祈り

 私たちは自分の罪を認めます。どうか恵み深き父であってください。私たちを裁かないでください。

 私たちが生きていくとき、あなたの尊い御名が聖とされますように。

 あなたの栄光と、賛美とならないものは、一切思わず、語らず、行なわず、持たず、また始めることがありませんように。そして自分がほめられることでなく、あなたの栄光と御名を求めさせて下さい。

 私たちがあなたを愛し、畏れ、御名を聖とすることができますように。(「改革者の祈り」新教出版社24頁)

 

・ルター(14831546) ドイツの宗教改革者。1517年、ローマ教皇による免罪符販売に反対して、九十五箇条の論題を発表し、宗教改革運動の発端をつくった。そこからプロテスタントというキリスト教の新しい流れがはじまり、世界の歴史にも多大の影響をもたらした。

 

(348)神の家は、すばらしい大きな建物を指すのではない。

 み言葉のあるところにこそ、神は確実にお住まいになる。(「マルティン・ルターによる一日一章」より)

・ルターはこの説明の言葉を、「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。天の門だ。」(創世記2817)に付けている。

 これは、主イエスが言われた言葉「二人、三人が私の名によって集まるところに私はいる」を思いだす。イエスの名によって集まる、それは言い換えると、イエスあるいは神ご自身のお心からでた神の言葉を中心に集まるときにはイエスご自身もそこにおられる。それゆえにこそ、畏れ多い場所となる。


347)若葉の一つ一つに
神は
復活の約束を
聖書のうちばかりでなく
春の若葉の一枚一枚に書き記しておられる。(マルチン・ルター)

・次のように言うこともできるだろう。
神は、夜空の星の一つ一つに永遠の光の存在と、罪清められたのちの姿をも書き記し、野草の花の一つ一つに救われた魂の姿を書き込んでいる…と。
自然の事物は、神のさまざまの思い、ご意志、その約束を書き込んだものであり、一種のバイブルなのである。



217)この信仰のなかでは、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、そうしたわざの区別はいっさいなくなってしまう。
 わざが神に喜ばれるのは、わざそのもののためではなく、信仰のためであり、そしてその信仰はわざがどんなに数多く、またどんなに異なっていようとも、すべてのわざの一つ一つの中に、唯一のものとして存在し、生きて働くからである。(「善きわざについて」ルター著 聖文舎刊 ルター著作集第一集第二巻15頁)