リストボタン 340)喜びには、特別の原因や理由など、何もいりません。
どんなつまらないものからでも、高貴なものからと全く劣らない喜びが得られます。
(「心の美術館」シスター・ベケット著新教出版社)

・このことばは、ベケットが、画家ルドンの貝の絵について語ったなかにある。この言葉を補足すると、「ルドンは一つの貝を見て、そこに宇宙の性質を見出した。それは彼の想像力で見ているだけかも知れない。しかし、これは正しい見方であって、それによって見えてくるのは、「事実」ではなくて「真実」である。身近にある自然の美を描くことによって、喜びは世界の至るところに存在するのを示している。」
私たちの心の世界が神からの賜物でうるおされてくるほど、小さなものから喜びをくみ取ることができる。
それは万物は神による創造であり、神は愛ゆえに、万物は愛によって創造されているのがわかってくると、小さなものからも神の愛が伝わってくるからである。自然だけでなく、日常の生活の小さな一つ一つにも一歩一歩を歩くということや起きて回りのものを見たり、手にとったり、あるいは毎日の飲食ができるというようことからでも、喜びをくみ取ることができるのだと教えられる。
また、そのようにして実感するものは、「事実」でなく、「真実」だ、と言っていることも重要である。
事実と真実との違いは大きい。 事実とは、例えば、目の前の石ころは何グラムで、長さはいくら、含まれている主成分の二酸化ケイ素は何グラムとか、また一枚の葉をとってもそれの長さ、幅、鋸歯の数、重さ、色、そこに含まれる水分、有機化合物の種類、ミネラルなど、化学物質等々、「事実」はいくらでもある。
しかし、それは魂に力を与えたり、喜びを与える霊的「真実」ではない。そうした事実をひとつも知らなくとも、その一枚の葉から神の創造の力や、こめられた愛、私たちに向けられたメッセージ等々の「真実」をくみ取って魂の力となすことができる。
聖書にあるように、聖霊こそが喜びを生み出すのであって、ごくささやかなものでも聖霊が私たちのうちに働くときには、喜びをくみ取ることができる。
なお、この言葉の載っている本を書いたシスター・ベケットは、オックスフォード大学を卒業後、南アフリカで教職についたあと、修道会にはいり、美術に関しての洞察がイギリスやヨーロッパでは高く評価されているとのことである。