内村鑑三のことばから「聖書之研究」の巻頭言より
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編集者のコメント

○は編者のコメント。 現代の若い世代の人にもわかりやすい表現になおしてあります。


内容・目次

image002.gif悪に勝つ道

image002.gif感謝の念

image002.gif最新追加分

 

セントウソウ

セントウソウ

image002.gif戦争と平和について  内村鑑三(*)の言葉から

image002.gif静けさのあるところ

image002.gif戦闘の止むとき

image002.gif戦時の事業

image002.gif騒乱にいかに対するか

image002.gif喜びの由来

image002.gif我々の非戦論

image002.gifイエス・キリストの御父

image002.gif愛の十字軍

image002.gif絶え間なき祈り

151

image002.gif内村鑑三のことばから
   「聖書之研究」の巻頭言より

 

フユイチゴjpg写真

フユイチゴ

image002.gif 1,永生

1900/11

image002.gif 2,われの祈願

1900/11

image002.gif 3,神の愛と人の愛

1900/12

image002.gif 4,新しい願い

1901/01

image002.gif 5,悪口、他人への批判の危険

1901/01

image002.gif 6,悪に勝つの方法

1901

image002.gif 7,真理の実力

1901

image002.gif 8,喜びの生涯

1901

image002.gif 9,福音の宣伝

1901

image002.gif 10.神を信じるのみ

1901

image002.gif 11.わが神

1901

image002.gif 12.日本国とキリスト

1901

image002.gif 13.伝遺の精神

1901

image002.gif 14.世に僧まるる

1901

image002.gif 15.善きこと三つ

1901

image002.gif 16.所有

1901

image002.gif 17.偉業

1901

image002.gif 18.忍耐

1901

image002.gif 19.聖なる望み

1901

image002.gif 20.世の要求

1901

image002.gif 21.伝道唯一の方法

1901

image002.gif 22.神と悪魔

1903

image002.gif 23.信仰における三つの支え

1903

image002.gif内村鑑三のことばから
   「聖書之研究」の巻頭言より


エビネ(黄)

エビネ(黄)

image002.gif 24.キリスト者の新年(一月)

1913.01

image002.gif 25.神の恩恵の福音

1913

image002.gif 26.カルビンの肖像に題す

1913

image002.gif 27.信者と不信者

1913

image002.gif 28.人を愛するの

1913

image002.gif 29.死者の活動

1913

image002.gif 30.イエスは神なり

1913

image002.gif 31.自由なる私

1913

image002.gif 32.伝道と十字架

1913

image002.gif 33.事業と信仰

1913

image002.gif 34.信者の生涯

1913

image002.gif 35.イエスの事業

1913

image002.gif 36.人の価値

1913

image002.gif 37.少数者

1913

image002.gif 38.真実の教会

1913

image002.gif 40.聖書本位

1913

image002.gif 41.唯一の書

1913

image002.gif 42.山と聖書

1913

image002.gif 43.信仰

1914

image002.gif 44.平和とは何か

1914

image002.gif 45.クリスチャンは誰か

1914

image002.gif 46.変わらざるキリスト教

1915

image002.gif 47.大恩恵

1916

image002.gif 48.欲しきもの

1916

image002.gif 49.不断の努力

1917

image002.gif 50.最善の最後

1917

 



image002.gif悪に勝つ道

聖書は教える。「悪に勝たれてはならない。善によって悪に打ち勝つべきなのである」と。(ローマ信徒への手紙1221節)

しかし、悪は強く、善は弱い。それゆえ、ひとつの善は一つの悪に勝つことはできない。
もし、善によって悪に勝とうと願うなら、我々は百の善によって一つの悪を征服せざるをえない。 もし、悪が我々に対して憎しみの小銃を発するときには、我々はこれに対するには、好意の大砲をもってしなければならない。 もし、悪しき人が我々に恨みの毒水一杯を与えるなら、それに対して我々は愛の心の洪水をもってしなければならない。 (一九〇一年 「「聖書之研究」」)


image002.gif 感謝の念

 神がすでに下さっている恵みに感謝せよ。そうすれば、神はさらなる恵みを与えて下さる。すでに与えられている恵みに感謝しないで、新たな恵みを受けることは困難である。不平家が、生涯満足を感じることができないのは、感謝することにおいて欠けているからである。 (同右)


○戦争と平和について
image002.gif   内村鑑三の言葉から(T.YOSHIMURA)

 現在のような世界の各地で動乱が発生している状況のもとで、私たちキリスト者はいっそうこの世が与えることのできない平和、主の平和(平安)を保っていることが必要であるし、またその平安をもってさまざまのことを見つめていくことが求められている。
 今からおよそ百年ほど前、日露戦争の始まったとき、日本中が戦争をあおる雰囲気で満ちていた。しかし、そのただ中にあって、内村鑑三という一人の真理の証人がいかにそのような状況を受け止めていたか、その一端を学びたいと思う。
 なお、内村の文は百年ほど前の力強い文語であるが、現在では使われない表現や言葉もあって、意味がよくわからないという声をたびたび聞いてきたので、現代のわかりやすい言葉にして記し、そのあとの○印は筆者の補足説明、感想などを記した。内村の原著を持っていて、原文がよくわかるという人は原文のままがよいのは当然であるが、これからの世代の人に対しては、もはや一種の翻訳が必要となっている。ここでは文語表現のよくわかる人だけでなく、だれでもがわかる表現で紹介したいと思う。

*)内村鑑三(一八六一〜一九三〇)は日本の代表的なキリスト者。無教会といわれる、聖書の原点に立ち帰ることを強調する信仰のあり方は彼によって始まった。高崎藩士の長男として江戸に生まれ、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学。ここで「少年よ、大志を抱け」という言葉で有名なクラーク博士によってキリスト者となった。卒業後は水産研究に従事したが、結婚に破れて深刻な悩みと苦しみを抱えて渡米し、アマースト大学に学んだ。そこで総長のシーリー博士と出会い、十字架の信仰による救いを得て深い平安を与えられた。そのことが以後のかれの生涯を決定付けたほどに重要な出来事となった。帰国後、旧制一高の教員のとき、教育勅語に敬礼を拒んだことが不敬事件として大きな問題となり、大きな苦しみとなった。これは内村鑑三不敬事件として知られている。しかしその間に「基督信徒の慰め」「求安録」「代表的日本人」などの名著が生まれた。さらに「万朝報」(よろずちょうほう)「東京独立雑誌」によって社会評論に健筆をふるい、足尾銅山鉱毒事件にかかわり,あるいは日露開戦に際しては非戦論を貫くなど、広い分野で神の言葉に立った言動を続けた。一九〇〇年創刊の「聖書之研究」誌によって、内村の信仰と、彼の聖書の深い読み方が全国的に知られるようになり、キリストの福音伝道に大いに貢献し、今日まで永続的な影響を与えてきた。


image002.gif静けさのあるところ

 静けさは天然にある。神の造った天然にある。静けさは聖書のなかにある。神が伝えた聖書にある。
一輪のオダマキが露に浸されてその首(こうべ)を垂れているところにある。
 一節の聖句がわが心中の苦悶をなだむるところにもある。怒涛四辺に荒れるときに、私は草花に慰めを求め、聖書にこの世が与えることのできない平安を求める。

○聖書の言葉は、過去数千年を通じて、変わることなき真理を保っている。過去の歴史のなかには、戦争、飢饉、自然災害、病気、あらゆる事態が生じてきた。しかしそのようないかなる動揺と混乱においても、聖書の言葉は永遠に不動の神の言葉であるがゆえに、揺るぐことはなかった。現代の私たちもその歴史のなかを生き抜いてきた神の言に頼ることによって、この世の新聞や雑誌、テレビなどの与えることのできない平安を与えられる。
 また、身近な自然のすがたも同様で、それもこの世の人間社会が持っていない清さと平和を宿している。数千年といわず、何万年も変わることのないような静けさが小さな野草の花にはある。空のしずかな広がりや夜空の星の輝きもまた変わることなき平安を目で見えるかたちで私たちに示してくれている。そうしたところにつねに私たちの魂はとどまって平安を与えられる。


image002.gif戦闘の止むとき

 勝つことが必ずしも勝つことでない。負けることが必ずしも負けることではない。
 愛すること、これこそ勝つことである。憎むこと、これ負けることである。愛をもって勝つことだけが永久の勝利なのである。愛はねたまず、誇らず、おごらず、どこまでも神への希望をもって忍耐をする。そして永久の勝利を得て永久の平和を与えられる。世に戦闘の止む時とは、愛が勝利を得たときだけなのである。

image002.gif戦時の事業

 今や世に「燃える木」を投げ込む者は多く、静けさを世に提供する者は少ない。戦争を勧める者が多く、平和をうながす者は少ない。この時にあたってわれらは主の静けさの内にとどまり、この主の平和のうちにあって戦争に向けて熱している同胞に主の清涼を分かちたく思う。敵対心のゆえに心が渇いてしまっている者たちに、平和と友好の清水を提供したいと思う。戦争に関わる騒がしさを静めるために福音の清い音楽を提供しよう。
 平和はこの世から出ることなく、天より来る。天の神を世に知らせて、地は初めて平和に回復するのである。

image002.gif騒乱にいかに対するか

 戦争などの騒乱はこの世では常に生じている。波は海にはつねに見られるのと同様である。この世にあって騒乱を避けようとするのは、海上に浮んでいながら揺られまいとするのと同様である。
 もし私たちが、この世とともにありつつも、騒乱に巻き込まれないようにしようとするなら、岩に頼らねばならない。「幾千年を経てきた岩」に頼るのである。
 この世はこの世にとどまっていたままでは救うことはできない、世を離れ、自分の身を「永遠の静けさ」(神のもと)に置いて、上と外からこれを救おうとするのである。それゆえに聖書は言う、「あなた方は、かれらの中より出で来なさい」と(コリント後書六章十七節)。

image002.gif喜びの由来

 喜びは勝って来るのではない。また負けて来るのでもない。
 喜びは神がつかわされたそのひとり子を信じて来る。キリストの福音は戦時となっても必要である。また平常のときにも必要である。
 世に死と涙とのある間はその必要がなくなるという時はない。ゆえに「私たちは道を宣べ伝えなければならない、時を得ても時を得なくても励んで福音を伝えようと努め、さまざまの忍耐と教えをもって人をさとし戒め勧めなければならない」(テモテ後書四章二節)。


image002.gif我々の非戦論

 非戦を論理的に説くことはむつかしい。しかしイエスキリストを信じることによって、あらゆる争闘は私たちが忌み嫌うものとなったのである。私たちの理性が納得させられる前に私たちの心が感化されたのである。どうしてそのような変化が生じたのか、その理由は説明できない。しかし私たちが、ひとたび心にイエスキリストを宿してからは、怒りや憎しみの角(つの)はことごとく折れて、柔和を愛する人と変えられたのである。私たちの非戦論はこの心の大いなる変化の結果にほかならない。

○非戦論は、現在の日本の平和憲法というかたちで、具体化されている。しかしこの憲法にも反対論があとを断たないことでもわかるように、だれもが納得するような論理的説明というのはなかなか難しい。
 それはこの非戦論というのが、愛と真実の神が正義の神でもあり、万能でもあるゆえに必ず神が最善になされるということ、また悪は時が来れば裁かれるという信仰から来ているからである。そしてキリストを信じてそれまで経験できなかった魂の平安を与えられた者は、そのような比類のない価値あるものを与えたお方が、決して武器をとらず、みずから十字架にかかって死なれたことを知るとき、他者への怒り憎しみといった感情はおのずと鎮められる。
 さらにキリストの霊である聖霊を少しでもうけるとき、武器をもって相手を殺害するなどという戦争行為には自ずから加わらなくなる。キリストによって私たちの心情の根本的変化が生じ、おのずから戦争への反対の心を生み出すのである。

image002.gifイエス・キリストの御父

 神万軍の主として現れた。しかし今は十字架上のキリストとして世を悔い改めに導かれる。昔は正義の剣をもって背信を重ねる民を罰せられた。しかし今は愛の心をもってかたくなな心を砕かれる。さきには外より責められた神内より説き勧められる。さきには厳格なる主であった神柔和なる夫として現れてくださった。
 わが神は剣を抜いて異教徒を滅ぼした旧約聖書のヨシュアやギデオンたちの神ではない、世の罪を担って十字架に釘づけられたイエスキリストの父なる御神なのである。

○旧約聖書に現れる神と新約聖書にキリストによって現された神の性質とを比べると、重要な違いを見せることの一つが、戦争にかかわることである。旧約聖書においては神ご自身が偶像を拝む民と戦い、滅ぼすことを命じておられる。
 しかし、新約聖書にあらわれるキリストは武器による戦争とか戦いを全面的に退け、神の愛の力によって神が働かれることを待ち望むのである。それはまた、祈りの力でもある。キリストの精神を最もふかく受けついでいる使徒パウロも同様である。

 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。」悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙十二・1821

image002.gif愛の十字軍

 私は何によってこの世界を救おうか。武力によらず、天国の喜びを世に提供して救いたいのである。すなわち新しい愛の心の力をもって、世のすべての低く卑しい心を排除し、これに代えて天の高き心を用いようと思う。異端を撲滅するための十字軍を起こすのでなく、痛める者をいやすためのよき香りともいうべきものを提供したい。私は愛と喜びと希望とをもって世を征服したいと願うのである。

○この世で真に力あるものは、武力とか憎しみや敵対心ではない。最もこの世で強力なものは神であり、その神が送って下さったキリストである。そのキリストの心に信頼し、すがる心は神の力を呼び覚ますゆえに最も強いものとなる。そしてキリストの心とは、神の国にある愛や喜び、希望であり、それらこそが真に力あるものなのである。御国を来たらせたまえ!という、主の祈りにある言葉は、この願いにほかならない。

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image002.gif151絶え間なき祈り

‥‥キリスト者は絶え間なく祈るべきである。まさにキリスト者の命は祈りである。もし私たちが不完全であるならば、祈るべきである。もし信仰が足りないというなら祈るべきである。よく祈ることができないからこそ祈るべきなのである。恵まれても祈るべきであり、呪われても祈るべきである。天の高きに上げられるような時にも、陰府(よみ)の低きに下げられる時であっても私たちは祈る。私は力なき者、それゆえに私ができることは祈ることのみ。(「内村鑑三全集」第二巻249頁)

・日本において、内村鑑三は明治になってから以降、最近百数十年において最も力あるキリスト者であったと言えるだろう。その内村の力はどこから来ていたか、それはこの文章でみられるように、深い祈りにあったのがわかります。真に力ある人とは、このように自らの弱さを自覚し、そこから神に向かって心こを尽くし、精神を尽くし、理性的なものもすべてをあげて神に祈るとき、人間が持っていない力を与えられるのである。

内容目次へ戻る.永生

image002.gif


永生とは他でもない、神とともにあることである。
天国とは他でもない、神のおられるところである。
神の霊わが心に宿り、私はわが神の造られたこの宇宙に生きて
私は今すでに永生を受け、神の天国にある者なのである。

○永生とは、永遠に生きることである。それは永遠の存在である神とともにあること だと言っている。また、天国とは、死んで初めて到達するものでなく、生きているとき から、神が自分とともにいて下さるとき、それがすでに本質的には天国と同じなので ある。

       
                                            (1900/11
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image002.gifわれの祈願
私に金や財産を与えてもらわなくともよい。
私は名誉や地位を求めない。
私にインスピレーションを降せよ。
私はわが神を宇宙と万物の中に認めて、
今の世にあって、すでに来ようとする永久不滅の栄光を感じるようでありたい。

                                                  (1900/11
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image002.gif神の愛と人の愛
人に憎まれるときは神に愛せられ、
神に愛せらるるときは人に憎まれる。
神と人とは日と月のごとし。
人望の光輝が私たちの身を照らす時は、私たちが神を背にして立つときなのであ る。

 
                                               (1900/11
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image002.gif新しい願い
何人に対しても悪意をいだくことなく、万人に対して好意を表し、 すべての機会を利用して善をなし、わたしの残りの生涯が、祝福の連続となるように と願う。
神よ、わたしのこの願いを助けて下さい。

                                                 (1901/01
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image002.gif悪口、他人への批判の危険
私たちは人の善を語って心に富を感じ、悪を述べて貧を覚える。
悪口を継続していくとき、私たちはついに思想的に貧しくなり、死んでしまうことであろ う。
悪口もときには義務であるような時もある。
しかし、悪口を言っているときには、私たちは大なる危険に臨んでいるということを忘 れてはいけない。
                                   
                              (1901/01

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image002.gif悪に勝つの方法(1901/02)

聖書は私たちに教えて言う、あなた方は悪に負けてはいけない。 善をもって悪に勝てと(ロマ書十二章二十一節) しかし、悪は強く、善は弱い。ゆえに一つの善は一つの悪に勝つことはできない。 もし善をもって悪に勝とうと願うならば、私たちは百の善をもって 一つの悪を征服しようとすべきなのである。 もし悪が私たちに対して憎しみの小銃を発するときは、私たちはこれに好意の大砲を もってすべきなのである。 もし人が、私たちに怨みの毒水一杯を飲まそうとするなら、私たちはそれに愛の洪水 をもってすべきなのである。 私たちが多数をもって少数を圧迫しようとするのは私たちが善をもって悪を征服せん とするときにかぎる。

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image002.gif真理の実カ(1901)

あなたのバンを水の上に投げよ、多くの日ののちにあなたはふたたびこれを得ること になる。(伝道の書十一章一節) あなたの確信する真理を社会の中に投ぜよ、年を経てあなたはその偉大な結果を見る ことができよう。 これを蒔いた者が弱いからといって、真理の種子はその本来の力を失うことはない。 天より雨降り、雪落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出だせて播く者 に種を与え食べる者に糧を与えるように、私から出る言は空しくは私に帰ることは い。私の喜ぶことをなし、私が命じたたことを果たそうと主は言われる。(イザヤ書 五十五章十、十一節)。

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image002.gif喜びの生涯(1901)

得る喜びがある。失う喜びがある。生まれる喜びあり、死する喜びがある。 愛される喜びあり、憎まれる喜びがある。 そしてもし喜びの性質から言うなら、失う喜びは、得る喜びより高く、 死する喜びは生れる喜びより清く、憎まれる喜びは愛される喜びより深い。 神を信じるならば、いかなる境遇に処するも私たちには喜びが必ず伴う。 ただ悲痛のときに感じる(ある種の)喜びは楽しいときの喜びよりも、はるかに勝 ている。

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image002.gif福音の宣伝(1901)

私は人に悪人と呼ばれるも福音の宣伝に従事すべきである。 善人と呼ばるるもこれに従事すぺきである。 世がわが福音に耳を傾くるも伝道に従事すぺきである。 傾けようとしなくともこれに従事すぺきである。 私が生まれた国にいかなる政変が起こっても私はこれに従事すぺきなのである。 たとい世界は消滅しようとも私はこれに従事したいと願っている。 福音はわが生命である。私はわが生涯の中で、私が福昔の宜伝に従事しない時がある というのを考えることができない。

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image002.gif神を信じるのみ(1901)

いかなる境遇に遭遇しても神を信じるのみ、 富むも貧するも、成功するも失敗するも、徳を建てるも罪に陥るも、 世に迎えらるるも友に捨てられも、生きるも死するも、天に昇るも陰府に降るも、 私は神を信じるのみ。 このとき私には未来なく、過去なく、悲哀なく、失望なく、時はすぺて現在となり、 事はすぺて歓喜となり、 わが生涯は信、望、愛がそれぞれ結びあって、決して切れることはなくなるであろ う。なんと喜ばしいことであろうか。


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image002.gifわが神
悲しい時は貧しい時でない。人々に捨てられ時でもない。 孤独なるとき時でもない。無学のゆえに人に笑私時でもない。 悲しい時は、私の心の眼に神が見えない時である。 私の魂が慕うお方の顔が、疑いの雲で覆私時である。 そのとき、私が財産をあふれるばかり持っていても、私には歓喜はない。 私の名が国の人々によって、讃えられても私には満足はない。 私の頭上に太陽が照っても、私は独り暗夜に辿るような気持ちがする。 私は、わが神を見失うなら、私は死んだ同然の者となってしまう。 私が愛する者、私が恋い慕う者、私の生命よりも貴い者は、わが神である。

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image002.gif日本国とキスト
日本国はキリストを必要とする。キリストによらなければ、その家庭を潔むることはできない。 日本国はキリストを必要とする。キリストによらなければ、その愛国心は高いものとなることができない。 キリストによってのみ真正の自由と独立とがある。 なぜなら、かれは魂に自由を与える者であるからだ。 キリストによらずして大美術と大文学とは有り得ない。、 なぜなら、かれは人類の理想であるからだ。 キリスト降世二千年後の今日、私たちはキリストに基づかない、真正の文明というものを考えることはできない。

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image002.gif伝遺の精神
私は必ずしもわが国の人に聴かれるために、神の正義を唱えるのではない、 また必ずしもかれらを救うという目的のためにその宣伝に従事するのではない。 私は神の正義であるがゆえに福音を唱えるのである。 神が、その福音の宣伝を私に命じられるがゆえにこれに従事するのである。

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image002.gif世に僧まるる
最も深く世を愛しているにも関わらず、最も深く世に憎まれることが多いのは、キリスト者である。最も多く世を益しているにもかかわらず、世に全く無益な存在だとみなされることが多い者はキリスト者である。 かれは世を愛することあまりに深いために、この世が嫌悪するようになり、 世を益することが、あまりに大きいために、世から退けられるようになる。 嫌われることはキリスト者の本性なのであって、世に愛せられるならば、かれはキリスト信徒たることができないのである。

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image002.gif善きこと三つ
○ 健康のみが善きことではない、病気もまた善きことである、○ 同情と苦しむ者への配慮とはより多く病気のときに起こるものであって、 多年のうらみ、憎しみも一朝の病気のために解けることがある。○ 得することのみが善きことではない、損することもまた善きことである、 財貨の損失によって利慾の岶子が取り去られ、 かつて見えざりし神と天国とがそれがために心の眼に映ずるにいたることがある。○ 愛せられることだけが善いことではない、憎まれることもまた善いことである、 人々から、期待されたり、愛せられたりすることから、離れて初めて、我々は、死と未来に望みを託して、神と聖徒とを友とするようになることがある。


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image002.gif所有
自分で物事をするのであい。するようにとし向けられるのである。私は神の奴隷である、機械である。私は私の欲する事をすることはできず、欲しないことをさせられるのである。神は私を用いて私以上の思想を語らせ、私以上の事をなされるのである。神に頼る私は小なりといえどもきわめて大きい者なのである。

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image002.gif偉業
自分の考えや心を事業に注いで事業は成らず、眼を神に注いで事業はおのずから成る、 神は事業の神であるゆえに、我々は神を信じて、何もしない生涯を送ろうとしても送ることはできないのである。

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image002.gif忍耐
神は永遠に存在するお方である。 神は天地とその中にある万物を造り、これを支えて今日に至っているが、 いまだかつて疲労倦怠を感じられたことはない。 かれはかれの宏遠なる理想を実行してこられて、いまだかつてそのお心がゆるんだことはない。 忍耐は神の特性の一つである。 我らは神を信じるならば、走っても疲れず、歩いても弱くなることはないという状態へと導かれるであろう。。

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image002.gif聖なる望み
私は神によって、私と同時に消えてしまわない事業をしよう。 私は現代の人に聴かれなくとも後世の人に聴かれるの言を述ぺよう。 私はわが事業を永遠の上に築いて、 短い私のこの一生をして万世を益するものとしよう。 キリスト信者たる栄誉の一は、弱くて取るに足らないこの身によって、 なお大望を抱いてその一部分をなしていくことができる点にある。

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image002.gif世の要求(応すべからず)(九月)
世の要求に応じてはならない。なぜなら世は快楽を要求するものであるからだ。 我々はこの世に与えるときには、苦味あるものを与えるべきであり、苦闘をもって与えるべきなのだ。 そうすれば、世は私らを嫌悪すると同時についに自分自身を改めるようになろう。。

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image002.gif伝道唯一の方法
伝道の方法を説く者が多くある。しかし、私はその浅い考え方に驚かずにはいられない。 伝道唯一の方法は福音ありのままを確信して、その福音をこの飢えたる社会に提供するところにある。 この確信が乏しいのに伝道しようとすることは、これ弾薬がわずかしかないのに、戦いの計画を立てようとするのと同じである。]]

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image002.gif神と悪魔
 神は助け、悪魔は挫折させようとする。神は善を見るに早く、悪魔は悪を探ることに巧みである。善を残して悪に覆いをかけようとするのが、神である。悪をさらして善を追いだそうとするのが悪魔である。
 神の前に出るならば、小さな善であっても植物の芽が日光を受けたように成長する。しかし、悪魔の息に触れるなら、小さな悪も大きい悪となって現れてくる。神は奨励する者であって、悪魔は望みを失わせる者である。

(内村鑑三「聖書の研究」一九〇三年)


・これもまた、内村自身の経験に裏付けられた確信だと言える。自らが神の前には、小さき者、罪深き者であることを知っていた内村は、そのような小さき者を人間が攻撃するようには決して攻撃せず、自らの内にある小さき善、神を仰ぐ心を取り上げて下さって、大きく育てて下さったのを実感していたのである。
 神はたしかに私たちが望みを失い、自分の罪に倒れそうになっても、なお、そのような者を憐れんで下さり、「立ちなさい!」と励まし、力を与えて下さる。神はまことに、小さき善を認め、奨励して下さる方である。

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image002.gif信仰における三つの支え
 私は聖書と天然と歴史を極め、それら三つの上に私の信仰の基礎を定めたい。神の奥義と天然の事実と人類の経験・中ヲ私の信仰をこれら三つの上に築くならば、誤りがなくなるであろう。科学をもって、聖書にまつわろうとする迷信を退け、聖書をもって、科学の傲慢さを退け、歴史が与える知識によって二者の平衡を保つ。これら三つは知識の柱である。そのうちの一つが欠けるなら、我らの知識は欠点あるものとなるし、我らの信仰は健全とはならない。

(内村鑑三「聖書の研究」一九〇三年)

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image002.gifキリスト者の新年(一月)

 キリスト者の新年は年が改まって来るのではない。かれの新年はかれがキリストを信じたときにすでに来たのである。それ以前はすべて旧年なのだ。それ以後はすべて新年なり。「このゆえに人、キリストにあるときは、新たに造られた者である。ふるきは去って、みな新しくなった」(コリント後書五章十七節)。「あなた方はすでに古い人とその行為を脱ぎ新しい人を着たのである。……この新しい人はいよいよ新たになり、人間を創造した者(神)の像にしたがって(真の)知識に至るのである。」(コロサイ書三:9-10)。われらはこの世の人にならい年が改まったからといって、あえてことさらに新たになったと思わない。常にキリストの新しい命をうけて日々元旦を祝しているのである。


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image002.gif神の恩恵の福音


「われはわが主イエスより受けた職務、すなわち神の恩恵の福音を証することを遂げるためにはわが生命をも重んじない」(使徒行二十章二十四節)。
 神の恩恵の福音なり、荘厳なる儀式にあらず、厳格たる道徳にあらず、厳正なる哲学にあらず、神の恩恵の福音である。神われらの罪除き、神、われらを義とし、神われらを聖、神われらに栄光を下さると説く神の恩恵の福音である。
 罪人にかかわる神の善き聖意を伝うる福音なり。私は時を得ても時を得なくとも、今年もまた励んで、この喜ばしき神の恩恵の福音を宣べ伝えようと願う。

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image002.gifカルビンの肖像に題す

 この人が歴史に現れたゆえに世界は一変した。この人が現れたがゆえに弱きオランダは起り強いスペインをくじき、平民(民主)政治の模範を世界に提供した。この人が現れたがゆえに征服されたスコットランドは信仰をもってその征服者であるイングランドを征服した。この人が現れたがゆえに英国にピューリタンが起こって、アメリカにも伝わり平民(民主)国が広く見られるようになった。この人ありしがゆえに聖書は世界的大勢力となった。この人が、現れたがゆえに美術は平民を描くようになり、政治は平民によって平民のためになされるようになった。偉大なるかカルビン、私はかれの容貌に対して畏敬の念を感じずにはいられない。

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image002.gif信者と不信者

 神は存在すると言う者が、必ずしも信者ではない。神はなしと言う者が必ずしも不信者ではない。常に事物の光明的半面に着眼する者、これが信者である。
 それに対して事物の暗黒的半面に注目する者、これが不信者である。常に病を語る者、常に失敗を嘆く者、常に罪悪を憤る者、これが不信者である。
 常に健康を祝する者、常に成功をたたえる者、常に聖徳を悦ぶ者、これが信者である。
 パウロは、言う「すべて神の約束はかれの中に是となり、またかれの中にアーメンとなる」と。神は是であり、またアーメンである。神は万事において積極的である。
 そして人は神を信じれば、必然的に希望の人、歓喜の人、満足の人、すなわち全く積極的な人物となる。コリント後書一章二十節。

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image002.gif人を愛するの

 私は人を愛すきである。しかし、私には真実の愛がない。それをどうしたらよいのか。私は人を愛すべきであるのに、私は人を愛することができない。
 私はこのことを考えると、悩み苦しむ。
 しかしキリストに人を愛する真実な愛がある。そして、キリストが私の内にあって、私を用いて、真実に人を愛するのである。私はわが全身をキリストにゆだねて、キリストの聖(きよ)愛をもって人を愛することができる。私は人を愛そうとして愛することはできない。しかし、キリストが、わが内にあって、人を愛するようにするならば、私は容易に人を愛することがきる。ああ、私は何と幸いなことか。


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image002.gif死者の活動

 私死んだ者である。それゆえ、キリストを離れてはなにごともすることができない者である。私はキリストに(古い自分を)殺されたことを神に感謝する。私死んだ者である、その代りにキリストが私の内にあって働かれるときには、私本来、人のできないことをすることができる。そのとき私は、特別な力を与えられた人となる、私によって奇蹟は行われる。しかしもちろん死んだ私がなすのではない、われに宿っておられる活きたキリストがなされるのである。ゆえに私がもし大いなる事をしようと願うときには、ますます自己に死すべきである。そしてキリストがますます私の内にあって働くようにするべきである。

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image002.gifイエスは神なリ

 イエスは神である。かれが奇蹟を行ったからではない。かれが奇蹟的に生まれたからでもない。かれが肉体をもって復活しまた昇天されたからでもない。かれが神のごとくに権威をもって教えられたこと、かれが神のごとくに聖(きよ)行ったゆえに、かれが神のごとくにうるわしく死なれたゆえに。私はイエスを見て、かれが人間でなく、神であるのを知る。そして、イエスが神であることを知って、かれが行われたと言われる奇蹟が信じがたいことでないことを知る。

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image002.gif自由なる

は万人を敵として持ってもよい。キリスト一人を味方として持つならば。
貴族を敵として持ってもよい。平民を敵として持ってもよい。金持ちを敵として持ってもよい、貧しい者を敵として持ってもよい。
キリスト一人をわが主として崇(あが)めたい。私はキリストの僕であり、何人にも左右せらるべき者ではない。去れよ、人よ、私は自由の主なるキリストの自由の僕なのである。人はなんらの束縛をも、私の上に加えることはできないのだ。

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image002.gif伝道と十字架

 伝道は救済である、救済は犠牲である、犠牲がなくして救済はない、救済でない伝道は伝道でない。伝道は説教ではない、また著述ではない。伝道はひとのために、あるいはひとに代って苦しむことである。十字架を負ってキリストのあとに従うというのは、単に自分にふりかかってきた苦しみに耐えることではない。それは人に代わってその罪を担うことである。伝道は十字架である。犠牲をもって人を救うことである。

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image002.gif事業と信仰

 事業ではない、信仰である。事業をなすための信仰ではない、信仰の自然の結果として成る事業である。しかり、信者の事業は信仰である。「人々はイエスに言った。私たちは神の事業をするために、何をなすべきかと。イエス答えてかれらに言われた。神の遣わされた者を信じること、これが神の事業である」と(ヨハネ伝六章二十八、二十九節)。イエスを信ずること、そのことが信者の唯一の事業である。 そしてもしかれにより大事業が成る場合には、成そうとして成るのではなく、信仰が自ずからそのような結果を実として生じさせるのである。
 信仰の生涯はイエスを目的に生きるのであって、事業はこれを眼中におかないのでおる。

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image002.gif信者の生涯

 
信者を作らずともよい、教会を建てずともよい、著述をなさずともよい、ただイエスを信ずればそれでよい。そうすれ私によって救われるべき魂は救われ、起こるべき教会は起こり、成るべき著述は成り、行わるべき慈善は行わる。事業はこれを念頭におかず、イエスをのみこれ仰ぎみるべきである。誠に人の義とせらるるは信仰による、行為によらない。

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image002.gifイエスの事業

 わが事業はイエスのそれである、人の魂を救うことである、人の肉体を養う慈善事業でない、かれの境遇をよくする社会事業でない、財政の整理でい、政界を清めることでない。
 人と神との関係を義(ただ)しくして、かれを永生に導くことである。そしてこの事業とは、人をすべての点において救うことにつながる事業である。人は神によってその魂を救われて、その肉体も社会も境遇も完全にかつ根本的に教われるのである。イエスの事業は人の魂を救う事業であって、誠に人を全体に救うの事業である。

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image002.gif人の価値

 人の価値はかれの今の価値である、かれの過去の価値でない。かれが過去において善人であったとしても、かれがもし今悪人であるならかれは悪人である。それと同じく、かれが過去において悪人であったとしても、かれがもし今善人であるならかれは善人である。永久の現在たる神を信ずるわれらは人の過去を尋ねてかれの現在の価値を定めない。かれの価値はかれの今の価値である。われらはかれの過去によってかれの価値を定めない。.

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image002.gif少数者

 キリストは少数である、福音は少数の意見である。この世が続くかぎりキリストが多数となり福音が多数の世論となる時は来ない。「今はあなた方の時、暗黒の勢力である」とイエスは自分を捕えようとして来た者どもにいわれた。(ルカ伝二十二章五十三節)。そして二十世紀の今日もなおキリストの敵の時代である、かれらが勢力をふるう時代である。ゆえにキリストの福音の証明者として立つわれらは単独と寂しさを嘆いてはならない。われらもまたキリストにならい、キリストの受けた非難を負ってかれとともに苦しみを受くべきである。ヘブル書士二章十二、十三節。

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image002.gif真実の教会

 教会はある、確かにある。しかし天主教会ではない、聖公会ではない、ルーテル教会ではたい、メソヂスト教会ではない、長老教会ではない、組合教会ではない、主イエス・キリスト彼である。イエスは首(かしら)であってわれらは手足である、かれは幹であってわれらは枝である。かれは主であってわれらは僕である。しかもわれらはかれに在り一体であり、また一本の葡萄樹なのである。

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image002.gif聖書本位

 私はキリスト教をわかろうとしない、聖書をわかろうとする、そのマタイ伝をわかろうとする、そのルカ伝をわかろうんとする、そのヨハネ伝をわかろうんとする、そのロマ書をわかろうんとする、そのコリント前書と後書とをわかろうんとする、ガラテヤ書をわかろうんとする、ヘブル書をわかろうとする、黙示録をわかろうとする。
 まずキリスト教がわかって聖書がわかるのではない、聖書がわかってキリスト教がわかるのである。私のキリスト教研究は聖書本位である。その始めが聖書であって、その中が聖書である、そしてまたその終りが聖書であるのである。聖書である、聖書である、私は聖書以外にキリスト教を求めないのである。

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image002.gif惟一の書

 聖書の一書を解するは一大哲学を解するよりも益がある、聖書の一章を解するは一大著述を解するよりも益がある。聖書の一節を解するは一大論文を解するよりも益がある。私たちの精力と時間とをことごとく聖書を分かろうとするために費やして私たちは益するところあっても、損するところはない。汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)もただならざる人の哲学と人の著書と人の議論とはこれを葬り終生これに眼を触れないままであっても、私たちが失うところは多くない。学ぶべく、究むべきは、ひとり神の聖書である。

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image002.gif山と聖書

 (箱根山中に遊び感あり)山に入らずして山を知ることはできない。これをはるかに遠方より眺めてその風景を讃えることができるといっても、山そのものを知ることはできない。それと同様に、聖書に入らずして聖書を知ることはできない。、これを批評の立場より望み見てその荘美を賞することもできる。しかし聖書そのものを知ることはできない。聖書に入り聖書を見るならば、金銀は到るところに存し、岩は宝玉をもってちりばめられ、丘は美しい刺繍によって彩られる。生命の河あり、その中を流れ、希望の海あり、その岸を洗う、正義の町あり、その道は直し、真理の園あり、その花は香しい。まさにこれ神が創造された宇宙の大公園というべきである。その中に歩めば百年の生命も長くはない。単独の生涯も淋しからず。.聖書に入り、これと親しむ得て、現世にいながらすでに天の国に歩むの感がある。

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image002.gif信仰

 信仰は信念ではない。実際に見ることである、実際に見たものを実際に得ることである。神は理想ではない、実在である。キリストは理想でない、活ける救い主である。霊的実在者を霊的に感得すること、これが信仰である。 
信仰は、思索でない、もとより、知性のことでもない。霊性のことである。信仰は自己の中心の実験であって最も確実なことである。

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image002.gif平和とは何か

平和とは何か?永遠変らざる事業に従事することである、陰府の門をもってするも壊すことのできない事業にわが一生をゆだねることである。この世の勢力にて破壊される事業に従事して、私に真の平和は無い。平和の反対は恐怖である、そして恐怖は自分が立っているところが強固でないところから生じる。草は枯れその花はしぼむことがあろうとも、わが一生の事業を永遠に変らざる神の言に築いて、私に真の平和があるのである。平和は政治にない、実業にない、ただ永遠の岩なるキリストの福音においてのみある。わが事業をこの岩の上に築いてわれに世の知らざる深き平和があるのである。求むべく慕うきはこの平和である。

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image002.gifクリスチャンは誰か

 クリスチャンは思想の人ではない、さらぱとてまた実行の人でない、クリスチャンは聖霊の人である。聖霊によって神の智恵と全能とを実際に獲得することを得た人である。詩人や哲学者のように、純思想の人でない、されぱとて商人実業家のごとくに実行専一の人ではない、聖霊により神の深きことを探り、聖霊によって神の大なる力をもって動く者である。クリスチャンは神の人である、キリストにあり自己に死して神に活くる者である。

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image002.gif変らざるキリスト教

 キリスト教はキリストである、キリスト教神学ではたい、キリスト教会ではない、英国、米国露国、ドイツ国等をもって代表せらるるキリスト教国ではない、全世界にあるという幾億のいわゆるキリスト教信者ではない、監督でない、長老でない、牧師、伝道師らでない、これらはどうなるともキリストなるキリスト教はあるのである。キリストは国家や教会と浮沈盛衰をともにする者ではない。「キリストは死からよみがえったのであって、再び死ぬことはない。死はふたたびキリストを支配することはできないのである。」(ロマ書六章九節)。キリスト教はキリストにありすでに完成されたるものである。いわゆるキリスト教国の盛衰を見てキリスト教の盛衰を語る者は、キリスト教が何であるかを知らない者である。

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image002.gif大恩恵

 キリストを信ずることができた、少しく聖名のために苦しむことができた、軽き十字架たりといえどもこれをキリストとともに担うことができた、また少しく聖書がわかるようになった、これをわが書となすことができた。これすでに大恩恵である。これあり他の恩恵はなくとも、私は感謝と歓喜と讃美とをもって旧年を送り新年を迎うることができる。

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image002.gif欲しきもの

 欲しきものは富貴ではない、名誉ではない、学識ではない、善き心である、常に感謝する心で、常に満足する心である、私に対して罪を犯す者を自由に赦すことができる心である、むさぼることない心である、寛大なる心である、わが右の手のなす善を左の手が知らせないような心である。神が人に賜うものの中に善き心のごとくに貴さものはない、これを与えられて人は最大の恩恵に浴したのである。そして神はこれを祈り求めむる者にゆたかにこれを賜うのである。われに善き心を与え給という祈祷は即座に聴かれるのである。

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image002.gif不断の努力

 必ずしも大著述をなすに及ばない、小著述にて足る。われはわが見し真理を明瞭簡単なる文字に綴りこれを世に示すべきである。必ずしも大事をなすに及ばない、小事にて充分である。われは神によって世に来りし以上はかれの造り給いしこの世界を少しなりとも美しくなして天父のもとへと帰り行くべきである。必ずしも完全なるを要せず、不完全なるもまた可なりである。私は毎日毎時わがなし得る最善をなして苦しみ多きこの世に少しなりとも慰めと歓喜とを供すべきである。「なんじ已のために大事を求むるなかれ」と預言者エレミヤその弟子バルクを教えて言った。(エレミヤ記四十五章五節)。大事のみをなさんと欲する者はついになにごとをもなさず、完全のみを求む者は何の得るところなくしておわる。なにごとをもなさざる悪事をなすのである。実に偉大なることの一面は小事にいそしむことである。完全なるの半面は不完全に堪うることである、大きいことであれ、小さきことであれ、わが手でなしうることは力を尽くしてこれをなすべきである(伝道の書九章十節)。

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image002.gif最善の最後

 信者の生涯始め悪くして終りは善くある、終りに近づくぼどますます善くある。生命の夕暮れになればなるほど、かれは何ものかが、自分の心の奥深いところに結実しつつあるのを感じる。
 誰かが、かれにその生涯の中に最も喜ばしい時はいつか?と聞くならば、かれは常に「今だ」と答えることができるのである。そしてかれの最後が最善である、あたかも年末のクリスマスがかれにとり最も喜ばしきときであるように、かれの生涯の終りがかれにとり最も感謝多き時である。そしてかれが特別に繰り返し感謝することは、かれの生涯の計画がことごとく失敗であって、かれの計画に反した神の御計画がかれの身において成ったことである。「このゆえに、私は弱さとはずかしめと、貧しさ、迫害と艱難に会うことを喜びとした。」。キリスト者にはこのような感謝があるのである。

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以下、随時追加予定.
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