リストボタンことば(2016年9月) 

(396)回心のとき

…午前四時、床にあり。俄然として自得し、自ら30年の非を悟り、この自然の大法に意志あるを感じ、自ら新たなる生涯に入りしことを知る。

 希くは、この清き心をして、永遠に保たしめ給え。愛する神よ、アーメン。起きて田畔を歩す。

 天地その形象を改め、星光赫然として神意を語るが如し。

(井口喜源治(* 1899年)

 

・(これは100年以上昔の文なので、若い世代の人にもわかってもらえるように、説明的にその文意を以下に記す。)

 午前四時に目覚め、床にいて突然にして、過ぎ去った30年のまちがいを悟った。

 自然のなかに存在する大いなる真理に、人間を超えた意志があるのを感じ、霊的に目覚めて新たな生涯に入ったことを知った。

 この清い心が永遠に保たれるように。愛する神よ、アーメン。(そのようになしてください。)

その後、起きて田の畦道を歩いた。それまで何気なく見ていた天地が、その形を変えたように見え、星の光の輝きは、神のご意志を語っているようであった。

 

*)井口喜源治 1870~1930 長野県安曇野出身。内村鑑三に深く影響を受けて、そのキリスト教信仰に基づく独自の教育を志し、私塾を建て、多くの反対、妨害などを受けつつ、その精神を貫いた。

 

 神は、早朝まだ床にある間に、光を送り、彼が回心したのがうかがえる。それは同時に自分の罪を知り、自然の清い姿とその永遠の存在に目覚め、とくに星の光に神の語りかけを感じるようになった。神の清き光は、罪を教え、自然の世界の清さを悟らせる。

(397)神の愛の深さ、広さ

 我々の神は、愛の神だ。お前は海のほとりに立っていくら石を投げ込んだところで、海の深みを満たすことができようか。

 キリストの愛は、海のようなもので、石が深淵に沈むように、人間の罪は、その中に沈むと言いたいのだ。

 また、キリストの愛は、山も陸も海も覆っている大空のようなもので、それは至るところに広がっていて、それには限界もないと言いたいのだ。

(「クォ・ヴァディス」下巻235頁 岩波文庫)

 

・これはポーランドの作家、シェンケビッチの作品。戦前から映画化され、また彼は、ノーベル文学賞を受賞した。

 

・神の愛などどこにも存在しない、と感じている人たちが至るところにいる。しかし、じっさいに神の愛を体験した者は、この作品に記されているような神の愛の無限の深さ、広さを感じてきた。


 

リストボタンことば(2016年3月)

 

(393)1を無限の上に足しても、少しも無限を増加させない。1センチを無限の長さに足しても同様である。有限は無限の前では消え失せ、厳密に無となる。

 われわれの精神も神の前では消え失せ、われわれの正義も神の正義の前では同様である。

(「パンセ」二三二 中央公論社「世界の名著 パスカル」(*)162頁」)

 

*)パスカル (16231662)フランスの数学・物理学者、キリスト教思想家、著作家。物理のパスカルの原理で知られるが、16歳ですでに当時の幾何学の先端を行く学者となっており、微積分学の先駆となる。さらに計算機の発明他でも知られている。パンセ penséeとは、フランス語で、考え、思想を意味する語。

 

・神は無限の愛であり、正義であり、清い。それゆえに、そのような神を前にするとき、人間の正しさとか心の清さ、愛などというものは厳密に無となる。

 聖書において、主イエスが 「ああ、幸いだ。心貧しき者は!」と言われたとき、その心の貧しき状態とは、自分が神の前に無であることを知っている心を意味している。

 あるいはやはり主イエスが、「幼な子のような心」の重要性を強調されたが、それもみずからを神の前に無と実感している心であり、その心をもって主を仰ぐことである。

 

…幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。

よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。(ルカ18の16~17)

 

 そしてそのような人間の精神、思考などは神の前では純粋な無となることを知るとき、たとえいかに私たちが考えても分からないことであっても、その無限の英知をもつ神にゆだねる信仰が生まれる。


 

*        ことば(2015年11月) 

(392)罪人の一人とされること

 どんなに正しい人でも、その生涯のうちいつかは、「罪人のひとりに数えられる」にちがいない(マルコによる福音書15の28)。

 もしこのことが起らなければ、かえってよい徴候とはいえない。このような場合神を慰めとして持つならば、すなわち、あらゆる人間的批判をはるかに越えて力づけ給う神の慰めと、この助けを確信することから生じる清らかな良心(真に滑らかな良心とはこれ以外にはない)とを与えられるならば、世人の批判にも容易に堪えられ、それも想像していたほど悪いものでも危険でもないことを悟るであろう。

 ひとはこのような経験を経ることによってはじめて勇気ある人間となり、神がその戦いに用いることのできる者となる。それまでは、どんな人もみな臆病者であって、いざという時に神の味方に立つことを恐れるのである。(眠られぬ夜のために上 4月5日 ヒルティ著 岩波文庫118頁)

 

・キリストは、ヒルティの言う罪人の一人とされた。その他歴史のなかで無数のキリスト者たちはそのような罪人とされ、苦しめられ、殺されることさえ多かった。

 キリストは弱き人々、苦しむ人々を助け、いやし、また真理そのものの神の言葉を語ったが、弟子の一人に金で売り渡され、当時の律法学者、宗教家からは神を冒涜したという最も重い罪をきせられ、長老、さらには民衆やローマ兵にまであざけられ、弟子たちはみな逃げてしまった―あらゆる苦しみを受けて地を去られた。

 しかし、神はそうした真理の証人たるキリストを復活させ、不滅のものとされ、そのキリストを永遠の存在として世界に告げ知らせるように導かれた。

 私たちもまた、不当な悪口、非難を受けたとしても主からのものとして受けるようにと導かれるし、また私たちの罪ゆえにそのようなことも生じるのだとの思い、さらに主に立ち返るようにとうながされる。 


 リストボタンことば(2015年10月)

 

(391)平和の基たるキリスト

 平和のために戦争をするのだという。それなら何ゆえ潤すために火を放たないのか。もし火によって潤すことができるのなら,戦争によって平和を来らすことができよう。

 しかし、西が東より遠いのと同様、平和は戦争によっては来ることはあり得ない。

 平和は平和より来る。人類の罪を自分が担ってキリストは世界平和の基を据えたのである。

 平和を世に来らそうと願う者は、すべてキリストにならうべきなのである。(内村鑑三「聖書之研究」1904年)

・平和―人間が会議や運動でもたらそうとしても、戦争のない世は数千年の歴史を見ても生まれなかった。

 そのために、キリストは平和の根源を人類にもたらすためにこの世に来られた。キリストこそは真の平和の礎である。 そしてそのことは、一人一人の魂の奥深くにおいて実感することができる。

 真の永続的な平和運動とは、このキリストを世に示し、キリストを一人一人の心に受け入れるように働くことである。


リストボタンことば(2015年7月)

 

(389)「信仰者の祈りが、病人の血液中の免疫力を高め、人間の持つ治癒力を強化する。」(「長さではない 命の豊かさ」(日野原重明著)184頁。朝日新聞社発行2007年

 

・祈りや願い―それは、明日は晴れてほしいというような日常的な願い事から、殺されることになっても甘んじて耐えがたい拷問をも耐えて信仰を証しするほどの力を生み出す祈りまで、広く深いものがある。

 また、主イエスのゲツセマネの祈りのように、やはり釘で打ちつけられるという想像を絶する激痛をともなう十字架の刑をも受ける決断と耐える力を与える祈りもある。

 ステパノというキリスト者は、祈りつつ民の罪を厳しく指摘した。それによって激しい敵意を受けることになった。

 しかもそれでもなお、祈りをもって殺気だった群衆に向っていった。そして天が開けて復活したキリストと神が見えたという。

 祈りの力はこのように、ほとんどなにも変わらないという祈りから、死や耐えがたい拷問をも甘んじて受けるほどに深いものまで実に多様なものである。

 ここで言われているような、免疫力をも高め、治癒力をも強くする―というようなこともだれにでもすぐに生じることではないであろうが、御心にかなったときには、このように驚くべき力をももたらすものだ。

(なおこの言葉は日野原さんが、アメリカの大学ではこの報告がある―との紹介文にある。)

 

(390)キリストは望んでおられます。ほとんど何も持たなくとも、何よりもまず、いのちという神の贈り物を通して、私たちの内に炎(火)と聖霊が感じられるようになることを。(*

 どんなに貧しくとも、炎(火)を消すことのないように。

聖霊を消すことのないように。そこには愛の驚きが燃えているのですから。

 そして信仰という素朴な信頼は、炎のように、人から人へと伝えられていくのです。(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ)

 

*)マタイ3の11 その方(イエス)は、聖霊と火であなた方に洗礼を授ける。

 

・この世でほとんど何も持たなくとも、聖霊の火が魂のうちで燃えつづけることが有りうるのだという。そしてそれさえあれば、ほかのことはわずかしか必要を感じなくなるという。

 心の内に、神の愛への驚きが燃え続けていく。人間の愛でなく、神の愛は、それが与えられるときどのような人であっても、他者へと伝わっていくという。

 


 リストボタンことば (2015年5月)

(386)出かけていく

 私たちは、人々と出会うために、出かけて行くべきなのです。遠くに住む人たちにも、またごく近くに住む人たちにも、また物質的に貧しい人たちや精神的に貧しい人たち(満たされずに苦しむ人たち)のところにも。(マザー・テレサ)

 

We should go out to meet people. Meet the people who live afar and those live very close by.Meet the materealy poor or the spiritualy poor.

Mother Teresa IN MY OWN WORDS3p Random House

 

・ここで言われている「出会うために、出かけていく」、それは自分が気晴らしを得るためといった自分の目的ではない。神から与えられたものを少しでも提供し、ともに分かち合うためである。

 宣教、伝道ということも、自分が受けた福音という何にもかえがたいものを他者に少しでも分かち合いたい、という願いであり、またそのようにその福音は聖霊とともに働きかけるからである。

 実際に出かけていくことができない場合でも、手紙や電話、メールといった手段でその人たちのところに、少しなりとも出て行くことはできる。さらに、祈りによって、霊的に出かけていくという道がそなえられている。

 しかし、このように、私たちをうながし、導くのは、活ける主であり、聖霊であり、単なる決心とかでは一時的にはできても続けることはできない。

 

(387)臨終の際での悔い改め

 …私たちはみな非業の死をとげた。

そして臨終のきわまで罪人であった。

しかし、そのとき、天よりの光に目覚め、

罪を悔い改め、敵を赦しつつ、

神との安らぎのうちにこの世を去った。(「神曲」ダンテ著 煉獄篇5歌より)

 

・たとえ事故や事件、災害、その他の突発的なことで、あるいは病気で死に瀕したとき、なお、神はそのようなときにおいても、光を与えて悔い改めに導くということは、このように古くから言われていた。

 その原型は、キリストが十字架にかけられたとき、左右にともに処刑されようとする重い罪人に関する記述である。

 一人は最後までイエスをののしったが、もう一人は、自分の犯した罪の重さを知り、驚くべきことに、イエスが御国に帰るとき私を思いだしてください、と最後の息をふりしぼる思いで懇願したのである。それに答えてイエスは、あなたは今日パラダイスにいる、と約束された。

 この重罪人がいかにして、処刑されるという最期のときに、弟子たちすらなかなか信じられなかったキリストの復活を信じ、御国に帰るといこことを信じることができたのだろうか。

 それは、この神曲で言われているように、天からの光が射して霊的に目覚めたということである。

 使徒パウロも、キリスト教徒に対して徹底して迫害を続け、殺すことまでしていた人であったが、突然の天よりの光によってみずからの罪に目覚め、キリストの使徒とされた。

 それゆえ、私たちもどのような人にあっても、希望を持つことができる。最後のときまで、とくに身近な人たちのためにも祈りを続けていくことが求められている。

 

388)自然は主を指し示す

 何ものも、当たり前とか汚れているとか思うのでなく、すべての被造物は、その創造主を指し示していると感じるようにしよう。そうすれば、野原はただちに、私たちの前に聖化されるのである。…

 愛する読者よ、もし、仕事にあっても時間が取れるなら、今日夕暮れに一時間をさいて夕暮れの野を歩むがよい。

 もしそれができなくとも、主は町にもおられる。そしてあなたの部屋や混雑する通りにおいてもあなたに会ってくださる。主にお会いするために、あなたの心を前に向けよう。(「朝ごとに」スパージョン著8月15日より )

 

Let us count nothing common or unclean, but feel that all created things point to their Maker, and the field will at once be hallowed.

If the business of this day will permit it, it will be well,dear reader, if you can spare an hour to walk in the field at eventide, but if not, the Lord is in the town too, and will meet with thee in thy chamber or in the crowded street. Let thy heart go forth to meet him.C.H.Spurgeon Morning by Morning 8/15


リストボタン 神の言葉に関する聖句から

 

 以下は、今月号に掲載した、講演「神の言葉―その光、命、力」のときに、参加者に配布された聖書の箇所です。

 

① 創世記 1の1~3

 はじめに神は天と地とを創造された。

地は、混沌としていて(形なく、むなしく)、闇が深淵のおもてにあり、

神の霊が水のおもてをおおっていた。(神からの風が、水の表面を吹いていた)

神は「光あれ!」と言われた。

すると光があった。

 

(6行目「神の霊…」の英訳から)

the Spirit of God was hovering over the waters.                                 (NIV)

a wind from God swept over the face of the waters.                              (NRS)

・ …with a divine wind sweeping over the waters.                                  (NJB)

 

②詩篇27篇の1節~6節より

主は私の光、私の救い  

私は誰を恐れよう。主は私の命の砦  

私は誰の前におののくことがあろう。

 さいなむ者が迫り  

私の肉を食い尽くそうとするが

私を苦しめるその敵こそ、かえって  

よろめき倒れるであろう。

彼らが私に対して陣を敷いても

私の心は恐れない。私に向かって戦いを挑んで来ても  

私には確信がある。

 …私は主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ  

主に向かって賛美の歌をうたう。

 

③詩篇119105112より

あなたの御言葉は、私の道の光

私の歩みを照らす灯。

私は甚だしく卑しめられています。

常に私の手に置かれています。

それでも、あなたの律法を決して忘れません。

主に逆らう者が私に罠を仕掛けています。

それでも、私はあなたの命令からそれません。

あなたの定めはとこしえに私の嗣業です。

 それは私の心の喜びです。

私は永久に従って行きます。

 

④詩篇 1198990

 主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり、

 あなたのまことはよろずよに及びます。あなたが地を定められたので、地は堅く立っています。

⑤エレミヤ書 1516

 私はみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、私に喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、私は、あなたの名をもってとなえられている者です。

⑥イザヤ 408

  草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は永遠に変ることはない」。

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(新約聖書から)

⑦ヨハネ 1章1節~5節

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 この言は、初めに神と共にあった。

 万物は言によって成った。

成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光にうち勝たなかった。

 

*)「うち勝つ」原語のギリシャ語は、カタ-ランバノー 。これはランバノー(取る、つかむ)の強調形で、「勝利する(うち勝つ)、理解する、」 などの意味に用いられる。「勝利する(うち勝つ)」の意味にと訳しているのは、口語訳、新改訳、フランシスコ聖書研究所会訳など。新共同訳、文語訳などは「理解する」と訳出。

 

⑧ヨハネ 8の12

イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。

 

⑨ヨハネ 8の47

神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。 

⑩ 使徒 4の31

祈りが終わると、一同の集

まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

 

⑪黙示録 191113

私は天が開けるのを見た。見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。…また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。

⑫ マルコ 4の14の14

種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

⑬エペソ 5の17

また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい


 ことば(2015年4月)

 

(383)何か善きこと

 あなたは、出会う人ごとに、何か善いことがあるようにと願っているか。

 もしそうならば、あなたは人間らしい人であり、思いやりのある心の持ち主であるが、そうでなければあなたの言葉はただ口先だけのおしゃべりである。(ヒルティ著・「眠られぬ夜のために」第2部6月5日より)

 

・何か善いこと―Something Good を常に誰に対してでも祈り、願うこと、そのようなことは以前には考えたこともなかったが、聖書の世界を知るようになって、遠い昔からじっさいにそのように、生きている人たちがいることを知らされて驚かされた。

 マザー・テレサも「何か美しいもの」Something Beautiful

を―と言っている。そのタイトルの本も出版されている。

 神は私たちに、つねに、Something Good そして Something Beautiful を、自然を通し、またさまざまの人間を通して、私たちに提供し続けておられる。

(384)

 あなた方は、しばしば「与えてもよい。しかし、それに値する者にだけ」と言う。

 しかし、あなた方の果樹園の樹々は、そうは言わない。(「預言者」カリール・ギブラン)

 

・神が創造された自然―山野に咲く野草の花々、樹木のたたずまい、またここに言われている果樹、そして青く澄んだ空や美しい山々や川、海などの景観―それらはすべての人たちに提供されている。

 だれでも自由にそこからその清さや美、あるいは力などをくみ取れるようにされている。

 人間はいつも限界を定めようとするが、神の愛は無差別的である。私たちが心を開けば開くほど、また霊の目が開かれるほど、年齢や学問の有無、職業などにかかわりなく与えられるようになっている。

 

(385)

聖書について批判的であるな。

聖書をしてあなたを批判し、裁かせよ。

 

Don't be critical of the Bible

Let the Bible criticize and judge you.

 

・聖書について批判的である―、キリスト者でなければ、そうなるだろう。しかし、キリスト者となっても、この部分は誰が書いた、本当の著者は〇〇である等々、いろいろと注解書を読んで批判的に読む人たちもいる。そうした知識も時に必要な時もあるが、そのように読むことに力をいれていると、いつのまにか聖書の相当部分が人間的なものだと思うようになり、聖書の一部だけが神の言葉であるように思ってしまう―ということにもなりかねない。そして、神の言葉としての力がそこから受けられなくなっていくことがある。

 聖書を全体として聖霊によって導かれ、そして記された「神の言葉」であると信じて受けとるとき、それは批判すべき本でなく、まず、私たちが限りなく尊重すべき書であることがわかってくる。

 聖書は私たちの数々の間違いを指摘してくれるだけでなく、その間違い(罪)を赦してくださる道を示し、さらにその道を歩んでいく力もこの書には秘められている。

 その中の言葉は、現代に生きてはたらく真理だとわかってくる。

 キリストを人間だ、過去の偉大な人物の一人だと見れば、ほとんど現代の私たちに力を持たない。

 しかし、キリストはいまも生きて働いておられる神だと信じ、実感するとき、日々の私たちに比類のない存在となってくるのと同様である。


 http://pistis.jp/image/a_blt009.gif ことば(2015年3月)

 

非暴力

(381)私は、広島が原爆で全滅したと聞いたとき、みじろぎもしなかった。

 それどころか、一人ごとを言った、「もし世界が今非暴力を受け入れないなら、人類はきっと自滅することになる」と。 (「人間みな兄弟」ガンジー著)

 

I did not move a muscle ,when I first heard that an atomb bomb had wiped out Hiroshima.On the contrary ,  I said to myself,

Unless now the world adopts nonviolence,it will spell certsin suicide for mankind. 

 

spell  意味する, …の結果になる.)「All Men are Brothers」47頁。初版はユネスコとコロンビア大学出版局により1958年 発行。

 

・歴史上で初めての原子爆弾での破壊を知ったときでも、その重大性にもかかわらず、彼はじっとそれを聞くのみだった。それはその先のはるかに重大なことを予感したからであった。それはもし人間がこうした武力による戦いを続けていくその先は、人類の破滅となるはるかに重大な事態を感じとったからだった。

 日本は現在、政府によって新事態といった新たな状況を作り出し、武力を用いての攻撃可能な状況を次々と拡大しようとしている。自衛隊の装備に対してさらなる増額がなされようとしている。中国も巨額の軍事費を投入している。

 このような軍備競争は、かつては考えられなかったテロ、核兵器や大量の原発の存在を考えるとき、その行き着くさきはどうなるのか、誰も洞察できないまま進んでいる。

 こうした状況にあっても、真理は変わらない。岩たる真理は、二千年前と同じように、キリストの言行のなかに示されている。

 ガンジーの非暴力の思想は、トルストイから大きな影響を受け、そのトルストイは、聖書のマタイ福音書のキリストによる山上の教えを命をかけて生きた人であった。

 この現代の闇にあってキリストの教え、そして復活のキリストそのものである聖霊こそますます輝きをもって現れるであろう。

 

試練の中の安全

(382)私は生涯のうちに多くの厳しい試練を経験してきたが、おそらく今回の試練が最も厳しいものとなるだろう。

 私はそれを好む。試練が激しくなればなるほど、私の経験する神との交わりはより密接となる。

 そして神のゆたかな恵みに対する私の信仰は、ますます深められる。その試練が続くかぎり、私は安全なのを知っている。(ガンジーの言葉)

 

I have passed through many an ordeal in my life.But perhaps this is to be the hardest.I like it. The fiercer it becomes, the closer is the communion with God that I experience.and  the deeper grows my faith in His abundant grace.So long as it persists.I know it is well with me.

 

(同右 49頁) (*ordeal 試練、苦しい経験。 

*)ガンジー1869- 1948年)は、インド独立の指導者。激しい暴力を受けても、非暴力を貫き、断食と祈りの深い力を示した。ヒンズー教徒の銃弾に倒れて死す。

 ・ガンジーの最後の居宅にはヨハネ福音書とインドの古い書が置かれていたという。   彼のここにあげた言葉は、新約聖書に記された次の言葉を思い起こさせる。

…主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。         (Ⅱコリント 12の9)

 苦しい試練のとき、どうすることもできない弱さのただなかにあって、そこに神の力が完全に現れるという。

 その力によって耐えていくことができる。またそのような厳しい状況にあって私たちはまっすぐに神のみを見つめて祈るようになる。神を仰いで叫ぶほかはないからである。