2013年5月
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(347)残念なことだが、宗教(キリスト教)を教えるということは、事実上何の効果もない。本来全く知りがたいもの(神)に対する信頼とこの道の先達(キリスト)への愛とに基礎を置くところのもの、これは全く教えることのできないものである。

(ヒルティ著 「幸福論」第一部171頁) 

・パウロも旧約聖書の宗教を特別に教えられてきたが、キリストへの愛やその真理をまったく理解できず、キリスト教徒を迫害する指導者となっていった。また弟子たちも会堂などで学んだからキリストを受けいれたのではなかった。

 パウロは復活のキリストから、弟子たちは直接にキリストからの呼び出しを受けて信じ、受けいれたのであった。私たちにおいてもこのことは変わらない。だれかが活けるキリストからの呼びかけを受けるよう、祈り、さまたげを少しでも除こうとし、だれかと関わるなかでの語りかけや本、み言葉などを用いて、神とキリストの愛を指し示すことしかできない。

 ヒルティは、右の箇所に続いて、さらにキリスト教の真理を受けいれようとしないかたくなさを助長するのは、宗教を一つの教理としたり、講義されたり、学習されたるできる一種の科学(学問)とみなす考え方であると述べているが、こうした考え方は知的に恵まれている人たちが陥りやすい。

 

(348)神の家は、すばらしい大きな建物を指すのではない。

 み言葉のあるところにこそ、神は確実にお住まいになる。(「マルティン・ルターによる一日一章」より)

・ルターはこの説明の言葉を、「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。天の門だ。」(創世記2817)に付けている。

 これは、主イエスが言われた言葉「二人、三人が私の名によって集まるところに私はいる」を思いだす。イエスの名によって集まる、それは言い換えると、イエスあるいは神ご自身のお心からでた神の言葉を中心に集まるときにはイエスご自身もそこにおられる。それゆえにこそ、畏れ多い場所となる。