2014年12月
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(375)屈辱を

    受けること、高められること

 神の恵みによって高められる時には、いつもまちがいなく、人間による屈辱か侮辱がそれに先立つ。

 このことは、全く確かな前兆である。われわれは自分の持っている価値が、人間の善意か悪意かによって与えられるものではなくて、神の摂理によって授けられるものだということを、はっきり悟り、これに従って行動すべきである。

 だから、そのように神によって高められることは、われわれを謙遜にするが、傲慢にはしない。

 また、そのような侮辱はかえってわれわれの心を堅固にし、確信を強めるものである。世の常の成りゆきとは正反対である。

 ミカ書7の8~10、ゼパニヤ書2の3、ハバクク書2の4・20、3の16・18・19、エゼキエル書34の24~27、イザヤ書43の11~13、46の11。(ヒルティ著 眠られぬ夜のために上 1122日)

 

・ペテロも女中にすらさげすまれ、逃げて行った。そのような屈辱ののちに、イエスによって赦しを受け、ペンテコステにおいて豊かな聖霊を受けることにつながった。

 主イエスは、このヒルティの言葉の完全な成就であった。鞭打たれ、つばを吐きかけられ、十字架を背負ってよろめきながら刑場に向って歩かされ、ついには釘で打たれて十字架刑にて殺された。それほどまで低く、屈辱を受けたのちに、最も高くされ、天に帰り、復活された。

 

(376)キリストに倣いて

 御あるじのたまはく。われを慕ふものは闇をゆかず、ただ、命の光を持つべしと。

 心のやみをのがれ、まことの光を得たく思はば、きりしとの御行跡と御かたぎをまなび奉れと。きりしとの御行跡をくはんねんする事を、われらが第一のがくもんとすべし。

…ここにかくれたる天の甘味をおぼゆべし。(ヨハネ8の12

 

(「こんてむつす むん地」吉利支丹文学集上巻 199頁、朝日新聞社刊 1973年)   ・あるじ…主

 ・きりしと…キリスト、・御行跡…生涯、行為。・くはんね→「観念」であるが、ここでは黙想、祈り、・甘味…キリストとの霊的交流による平安、喜び、清め。

 この書は、1610年(慶長15年)に京都で刊行。「こんてむつす むん地」という書名は、ラテン語の De Imitatione Christi et ContemptuOmniumVanitatum Mundi の一部をとって付けたもの。こんてむつす→Contemptu(軽視する)、むん地→Mundi(この世)このラテン語の書名は、「キリストに倣うことと、この世の空しき事を軽視すること」の意。「キリストに倣いて」は、50種以上の近代語に訳されている重要な書であるが、このようにキリシタンの時代に日本でも刊行され、キリストに従う道が日本のキリシタンにも伝えられいったのがうかがえる。

 この四百年前の翻訳は、迫害の困難な時代をも越えていったキリストの深い流れを想起させるものがある。

 

(376) 厳しさと静けさ

 神を求めて生きる過程には、生きる目的にたいする絶望や火や嵐がつねに伴いがちである。

 しかし、正しいものはおだやかな、説きすすめる声をもって訪れて来る。(列王記上19章)

 …かすかな神の声に向って開かれた耳を獲得すくまで、辛抱し抜く者は稀である。けれども、あらかじめ、疾風怒濤の苦悩の状況を経なければ、人の心は十分に開かれることがない。(ヒルティ著、眠られぬ夜のために下5月9日)

 

・私たちをとりまく自然は、激しさ、きびしさとともに、静かに語りかけるという双方の性質を持っている。

 それは、神の人間に対するなさり方を象徴しているものである。