2014年3月
戻るリンクボタン進むリンクボタン
本文
リストボタンことば

(356)神を感じるのは、心であって理性ではない。信仰とはそのようなものである。理性にではなく、心に感じられる神。


 我々が真理を知るのは、ただ理性によってのみでなく、また心によってである。(パンセ (*)第4篇 278282

*)パンセ とは、フランス語の名詞 pensee(パンセ) のことで、動詞は penser で発音は、名詞と同じ。この動詞は、英語の think に相当する語で、「考える、思う」というごく普通に用いられる言葉。  パスカルの著作名となっている 名詞の pensee(パンセ)は、思考、考え、思想 といった意味。

 パスカルは、数学者、物理学者で、幼少から天才ぶりを発揮した。物理ではパスカルの原理としてその名前を残している。

 ここにあげた言葉は、心に感じる神、ということを強調している。

 ヨハネ福音書で、ぶどうの木のたとえを用いて、キリストが私たちの内に留まることが繰り返し強調されている。(ヨハネ15章の1~10

 パウロも、内には、古い自分が死んで、キリストが生きていると言っている。キリストが私たちの心の内に住んでいるなら、当然心の最も深いところで実感していることである。

 主にあって喜び、感謝し、励まされるということは、単に理性的に考えることによってでなく、すべてその魂にて実感されることである。そして心を敏感にし、目覚めていなければ信仰の心も閉じていく。

(原文)C'est le Coeur qui sent Dieu et non la raison.Voila ce que la foi. Dieu sensible au coeur, non a la raison.

Nous connaissons la verite,non seulment pal la raison ,mais encore par le coeur.


(357)我意―自分を押し通そうとする意志は、万事を思うままになしたときでも、決して満足しないであろう。しかし、人はひとたびその我意を捨てたなら、その時から満足する。

 我意がなければ、不満もない。我意があるかぎり、満足することはない。(「パンセ」472

・この言葉を思うと、「自分を捨て、私に従ってきなさい」という主イエスの言葉が浮んでくる。しかし、3年間も自分の職業や家族たち、そして安楽な生活なども捨ててイエスに従ったはずの弟子たちは、その自我を捨てることがきわめて困難だということを思い知らされていく。

 イエスが王となったとき、自分をイエスの右、左に置いてほしいとか、殺されてもイエスに従うなどといっていたのも我意にすぎなかったのを知らされる。そうした我意が打ち砕かれたのは、その我意の強さと自分自身の弱さを深く知らされ、その上にに、聖霊を与えられてはじめて自我を捨てることが可能となった。自我に代わる究極的なものが、聖霊が住んでくださることである。

(358)悪に関しては、主義として公然とこれを憎め。そしてそれを表明するいかなる機会をも逃すな。(ヒルティ 幸福論第三部107頁)

・悪人を憎むのでなく、彼の内に宿る悪そのものを憎むべしと言われている。

 それによって私たちは、いっそう主が私たちの近くに来てくださるのを信じることができる。悪を憎むゆえに、悪と正反対の究極的な善である神の霊を来らせたまえと祈る心へと導かれる。

(359)子のいわく、仁遠からんや。

 我れ、仁を欲すれば、ここに仁至る。

 (口語訳)先生(孔子)が言われた。仁は遠いものだろうか。


 私たちが、仁を求めると、仁はすぐやってくる。

(孔子 「論語」巻第四 述而第七29 岩波文庫版101頁)

・仁は愛を意味する。この孔子の体験からくる言葉であるが、聖書の言葉と比べることができる。

 主イエスは求めよ、そうすれば与えられると、言われた。その与えられるものは、ルカ福音書では、聖霊とある。そして聖霊の実として愛がある。

 他のもの―この世の成功や名声、結婚、健康、友人、お金等々は求めても与えられないことが多いし、与えられても何かの事故その他で突然失われる。どんなに健康を求めても重い病気になってしまうこともある。

 その点で、神の愛は、求めればすぐそこにある。私たちの罪の赦しを受けることは神の愛によるが、それは難しい修業も不要であり、ただ十字架を仰ぐだけで、赦し―神の愛が私たちに与えられる。