2001年8月

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本文

ことば

信者と不信者
 神は存在すると言う者が、必ずしも信者ではない。神はなしと言う者が必ずしも不信者ではない。常に事物の光明的半面に着眼する者、これが信者である。
 それに対して事物の暗黒的半面に注目する者、これが不信者である。常に病を語る者、常に失敗を嘆く者、常に罪悪を憤る者、これが不信者である。
 常に健康を祝する者、常に成功をたたえる者、常に聖徳を悦ぶ者、これが信者である。
 パウロは、言う「すべて神の約束は彼(主イエス)の中に然り(しかり)となり、また彼の中にアーメンとなる」と。神は然りであり、またアーメンである。神は万事において積極的である。
 そして人は神を信じれば、必然的に希望の人、歓喜の人、満足の人、すなわち全く積極的な人物となる。コリント後書一章二十節。(内村鑑三著「聖書之研究一九一三・二月号」)

口先でいくら、神を信じるとか言ってもその心のなかで、いつも暗いこと、希望のないこと不満なことを思っている場合、またそれを口に出しているなら、その人は本当に神を信じているとは言えないというのです。なぜかというと、神とは、光であり、希望であり、万能であり、愛であるので、その神を信じ、魂が結びついているなら、自然と物事の明るい側面に目を向けることができると言っているのです。
 引用されているパウロの言葉の意味は、主イエスにおいて、神の約束はすべて実現したということです。神の約束とは、罪からの救いであり、悪の力に勝利すること、死に打ち勝つこと、神のいのちそのものと言える永遠の命を与えられること、そのような人間にとって最も重要なことがすべてキリストにおいて実現しているのであり、キリストを信じるときにはすべてよきことが実現するという確信を持つことができるようになるという意味です。

人を愛するの愛
 私は人を愛すべきである。しかし、私には真実の愛がない。それをどうしたらよいのか。私は人を愛すべきであるのに、私は人を愛することができない。
 私はこのことを考えると、悩み苦しむ。
 しかしキリストに人を愛する真実な愛がある。そして、キリストが私の内にあって、私を用いて、真実に人を愛するのである。私はわが全身をキリストにゆだねて、キリストの聖(きよ)き愛をもって人を愛することができる。私は人を愛そうとして愛することはできない。しかし、キリストが、わが内にあって、人を愛するようにするならば、私は容易に人を愛することがてきる。ああ、私は何と幸いなことか。(同右書一九一三・三月)

人は自分の感情とか意志によっては反抗しつづける人や、悪意を持っている人に対して怒りや憎しみを抱いてしまい、愛するなど到底できません。しかし、もし私たちの内にキリストが住んで下さるなら、そのキリストがそのような敵対する人に対しても祈りの心を持ってすることができる、愛することができると言っています。ですからキリストを内に持っていないということが最も悲しむべきことであり、逆にキリストが内に住んで下さるということが最も喜ばしいこととなります。

自由なる私
 私は万人を敵として持ってもよい。キリスト一人を味方として持つならば。
貴族を敵として持ってもよい。平民を敵として持ってもよい。金持ちを敵として持ってもよい、貧しい者を敵として持ってもよい。
キリスト一人をわが主として崇(あが)めたい。私はキリストの僕であり、何人にも左右せらるべき者ではない。去れよ、人よ、私は自由の主なるキリストの自由の僕なのである。人はなんらの束縛をも、私の上に加えることはできないのだ。(同一九一三・三月)

神はわが砦、わが岩と旧約聖書の詩編でよく歌われていますが新約聖書の時代になってから、それはそのままキリストに置き換えることができるようになりました。キリストがわが砦となり、わが岩となって下さるのであるから、どんなに敵対する人があり、どのような悪意が注がれようとも、キリストが楯となって守って下さる。どんなに自分を束縛しようとする者がいても、キリストと結びついているとき、魂の自由を実感する。

神の愛
 愛とは、一切の生命がたがいにつながりあっていることを認めることである。だから、私が人を傷つけるなら、私は私自身を傷つけているのである。もし、あなた方が私を傷つけるなら、あなた方は自分自身を傷つけているのだ。(「自由への大いなる歩み」128P マルチン・ルーサー・キング著)

ここで言われている愛とは新約聖書に出てくる、神の愛でありギリシャ語ではアガペーという言葉である。神からの愛を受けるときには、人間がみんな一つにつながりあっていることを実感するようになる。それゆえ、他の人間も霊的に深いところで自分とつながりあっているのであり、他人を愛することも、自分を愛することのように、自然な心の働きとなる。敵対する人間もまた自分とつながっている部分を持っているのを実感するゆえに、そうした人間のためにも祈ることが可能となる。

非暴力
 暴力行為に訴えるのは、キリストの道ではない。キリストの道は十字架の道なのである。私たちはみずから求めたものでない苦痛には、私たち自身を救う力を持っていることを信じなければならない。(同書230P

 非暴力の抵抗の立場を取る者は、宇宙は正義に味方するという確信に基づいている。したがって非暴力を信じるものは、未来を深く信じている。(同書129P

主イエスは「剣を取る者は剣によって滅びる」という有名な言葉を言われた。武力も一種の暴力であるが、そうした方法では滅びへといくだけである。

 

2001年7月

本文


ことば

ライを病む我が身かなしく事ごとに楯つきし日よ母も老いたり
むらさきの花穂したしく手を触るる 垣根の下のヤブランの花         (宿里禮子)

・このことば(短歌)を残した著者は、十一歳の時に発病し、長島愛生園(ハンセン病療養所)に入所した。母もハンセン病者。自分のつらく悲しい運命を同じ療養所にいた母にこんな病気になるくらいなら生まれて来なかった方がよかったと言って何度も母に楯ついてことを深い悲しみをもって思い起こし、歌ったもの。そのような彼女を慰めたのは、夏に咲くヤブランであった。

神と悪魔

 神は助け、悪魔は挫折させようとする。神は善を見るに早く、悪魔は悪を探ることに巧みである。善を残して悪に覆いをかけようとするのが、神である。悪をさらして善を追いだそうとするのが悪魔である。
 神の前に出るならば、小さな善であっても植物の芽が日光を受けたように成長する。しかし、悪魔の息に触れるなら、小さな悪も大きい悪となって現れてくる。神は奨励する者であって、悪魔は望みを失わせる者である。(内村鑑三「聖書の研究」一九〇三年)

これもまた、内村自身の経験に裏付けられた確信だと言える。自らが神の前には、小さき者、罪深き者であることを知っていた内村は、そのような小さき者を人間が攻撃するようには決して攻撃せず、自らの内にある小さき善、神を仰ぐ心をば取り上げて下さって、大きく育てて下さったのを実感していたのである。
 神はたしかに私たちが望みを失い、自分の罪に倒れそうになっても、なお、そのような者を憐れんで下さり、「立ちなさい!」と励まし、力を与えて下さる。神はまことに、小さき善を認め、奨励して下さる方である。

信仰における三つの支え

 私は聖書と天然と歴史を極め、それら三つの上に私の信仰の基礎を定めたい。神の奥義と天然の事実と人類の経験・中ヲ私の信仰をこれら三つの上に築くならば、誤りがなくなるであろう。科学をもって、聖書にまつわろうとする迷信を退け、聖書をもって、科学の傲慢さを退け、歴史が与える知識によって二者の平衡を保つ。これら三つは知識の柱である。そのうちの一つが欠けるなら、我らの知識は欠点あるものとなるし、我らの信仰は健全とはならない。(同右)

聖書(神の言)と自然と歴史、この三つを内村はしばしば取り上げる。そして聖書そのもののなかに、この三つの重要性がつねに表されている。人間が神からいかに愛されているか、罪の赦し、聖霊、生きた導き等など。また何を為すべきでないか、罪の厳しい指摘等が聖書にある。そして、自然はその神が創造したものであるゆえに、神の心や御意志がそこに刻まれている。実験や研究のなかった古代において、素朴に自然を見つめるだけで、神の性質や御意志をそこに実感できる。大空や夜空の星、夕焼けや広大や海、山々、繊細な美に満ちている植物たち、これらはみな神の心と御意志の目に見える現れである。
 そして、そうした自然の研究と実験によって見いだされた科学の法則もまた神のわざを表している。しかしそれはうっかりすると、その法則のあまりにも整然として驚くべきものを生み出すがゆえに、その法則を成立させている神そのものを見失って、科学を偶像化する。そうした傲慢さを聖書はまたつねに警告する。
 また、神の御意志は、長い時間の流れのなかで、表されていく。それが歴史である。それゆえ旧約聖書の相当部分が歴史書となっている。真理でないもの、それは一時的には栄え、もてはやされることがあろうとも、必ず長い時間の流れの中で消えていく。
 神の言と自然と歴史、この三つはたしかに私たちがつねに忘れてはいけないものである。