2002年12月

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ことば

148)他のある者は自分の田畑をより立派にしたときに喜び、また他のある者は、生まれより善くしたときに喜ぶように、私は毎日私自身がより善くなるのがわかる時に喜ぶ。(エピクテートス(*)「語録」第三巻五章より)

何に喜びを感じるか、それによって私たちは自分の精神の成長を知ることができる。食物に喜び(快楽)を感じるのは、人間も他の動物にも共通している。人間は、財産や物、お金を増やして喜びを感じることもある。また、何かを学んで喜びや楽しみを感じるのは、人間の特質だといえよう。人から誉められたり、認められることも喜びになる。
 しかし、物はなくとも、食物も乏しくとも、また人から誉められたりしなくとも、単独でも喜びを感じることができる驚くべき世界が人には与えられている。それがここでいう、自分自身がより善くなることを喜ぶことである。
 聖書で約束されているように、私たちのうちに主イエス(神)が住んでくださるとき、その内なる主によって、直接に「あなたの罪は赦された!」とか「恐れるな、私が共にいる!」などの静かな語りかけを感じるようになり、そのことで私たちは実際に自分が善くされたことを感じて喜ぶのである。罪赦されることは、罪が清められることであり、確実に私たちは善くされたからである。また、恐れるなとの励ましで力を受けるとき、やはり私たちはこの世の悪に負けないで歩みを続けられるということで、たしかに善くされるからである。このように、主からの語りかけを感じることは私たちを必ず善くする。それはその静かなみ声そのものが、私たちの魂を清め、新しい力をも与えてくれるからである。
 私たちが神ご自身を喜ぶことができれば、自分がより善くなっていることを実感させるものとなる。

*)ローマのストア哲学者。(AD五五〜一三五年頃)奴隷の子として成長したが,向学心があったため,主人は当時の有名なストア哲学者のもとに弟子入りさせ,後に解放して自由人としてやった。真理への愛(哲学)を教えて生涯を終えた。生涯,著作を書かなかったが弟子が書き残した語録などがあり、それは後のローマ皇帝マルクス・アウレリウスに大きい影響を与えた。

149)「ありがとう」
…水野源三さんという方は、寝たきりで、小さい時から言葉も出せず、手も動かないで、それで伝道した方ですけど、その方が寝たきりのそういう生活のなかで、やがて亡くなるという前に創った歌を申し上げます。
「幾度もありがとうと声に出して言いたしと思いきょうも日暮れぬ」
私たちは口が利けますが、幾度も幾度も「ありがとう、ありがとう」と言いたい思いで生きているでしょうか。(「なくてならぬもの」三浦 綾子著 光文社)

150)代わってくださった
どうしてこの私でなくてあなたが?
どうしてこの私でなくてあなたが?
あなたは代わってくださったのだ。
あなたは代わってくださったのだ。
(後に長島愛生園の精神科医となった、神谷美恵子が、二十一歳のときに、ハンセン病療養所に行ったときに作った詩)

弱い人、苦しい人、つらい人を見たときに、私たちがこのように、あなたは代わって下さったのだという思いを持つことができますならぱ、それこそが本当の愛だと思います。私があなたに何かしてあげるというのではなくて、私たちのために代わって下さった、その人に対する謙遜な思い。(同右 112頁)


2002年11月

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ことば

146)「キリスト者であるとはどういうことかね、エヴァ?」
「何よりも一番にキリストを愛することよ」と、エヴァが言った。(「アンクル・トムの小屋」第二六章)

"What is being a Christian,Eva
"
"Loving Christ most of all," said Eva.

主イエスは、最も大切な戒めとして、「神を愛すること」、「隣人を愛すること」と言われた。信じるということは愛するためには不可欠であるが、信じるだけでとどまっていては深い主の平安は与えられないだろう。人間関係でも、相手を信じることで留まっているのよりは、相手がどうあろうとも、よりよくなることを祈る心、つまり主にあって愛するということへとすすむのが本来であるから。
 キリストを何者よりも愛するとは、ほかのどんなものよりもキリストに心を注いでいることでもある。そして愛するからこそ、その声につねに耳を傾けようとするし、語りかけてくる静かな細い声に従おうという気持ちが自然に起きる。そしてそのキリストとは神と同様なお方であるから神の国のあらゆるよきものを持っておられる。そのよき天国の賜物へと心を開いていることでもある。

147)あなたの悩みをすべて主にゆだねよ
主はあなたに代り配慮される。
あなたの家族のための心配を
われらの信ずる主にゆだねよ、
主は思い悩むことを好まれない。
しかし、あなたがささげる天に向っての祈りはよろこんで聞き給う。…

あなたを苦しめるために
理由なく苦難が与えられたのではない。
信じなさい、まことの生命は
悲しみの日に植えられることを。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために上 三月十五日より」)

悲しみをわざわざ求めるものはいない。しかし悲しみがなければ、私たちの心は深く耕されないゆえに、神は私たちにさまざまの苦しみや悲しみを与えるのであろう。主イエスも「ああ、幸いだ、悲しむ者! その人たちは神によって慰めされるから」と言われた。