2003年5

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ことば

156)私の秘密はとても簡単です。それは祈ることです。…
実を結ぶ祈り、それは心からのもの、神の心に触れるものでなければなりません。…
私たちは多くのことを複雑にしてしまうのと同様に、祈りも複雑にしてしまいます。しかし、祈りとは、誰に対しても分け隔てなく愛を注がれるキリストを愛することなのです。(「祈り」マザー・テレサ、ブラザー・ロジェ著 サンパウロ刊 5457Pより)

マザー・テレサのあのような、激しい活動と愛に満ちたはたらきの源泉は祈りにあった。そしてそれはキリストへの愛そのものであった。祈りとはキリストへの愛を注ぐことであり、そこからキリストの愛を受けることであったのがうかがえる。私たちも本当の力の秘密である、祈り、単純な祈りへと導かれたいと思う。

157)人間はただより多くの愛によってのみ、しかも、だれでもみな直接にその「隣人」から始めねばならぬあの個人的な、本当に強い愛によってのみ、救われるのである。この愛の精神こそは、また真のキリスト教の精神でもあるが、これが世を救うのであって、その他のすべてはこれと反対に、やたらに声のみ高い無用事にすぎないことが多い。(「眠れぬ夜のために・下」四月二日の項 ヒルティ著)

主イエスはたしかに、この神の愛をもって世に来られ、私たちを救い、私たちもその愛をもって生きるようにと指し示された。私自身も、かつて学生運動にも関わりを持ったこともある。しかし、そうしたことによっては全く救いは与えられなかった。いよいよ悩みは深まるばかりであった。 私は自分自身の活動とか友人たちとの長時間にわたる議論、あるいは大学の学びなどでもなく、ただ一方的な神の愛によってそれまで知らなかった平安を得た。 神の愛、それこそが、私たち自身をもうるおし、周囲をも救う道なのだということは、聖書がはっきりと告げている。私たちはこの単純な道を間違うことがなんと多いことであろう。


2003年4

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ことば

154)ひとは他人からなにも得ようと思わないなら、全く違った目で彼らを見ることができ、およそそのような場合にのみ、人間を正しく判断することができる。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」上 四月二十一日)

 このような態度を他人に対して持つためには、自分が精神的に満たされている必要があります。自分の内にいつも不満や満たされるものを感じていないなら、どうしても他人に求めることになります。
 神によって、キリストによって霊的に満たされているときに初めて私たちは、他人に何かを求めるということがなくなっていきます。私たちは、たいてい特定の人からの好意、愛、評価を求めてしまいます。そうなると、どうしてもその人に気持ちが引き寄せられ、正しい判断や理性的に考えられなくなっていきます。私たちが間違った判断や行動をしてしまうのは、人間関係において、いつも他人から何かを得ようと、無意識的にすら考えてしまうからと思います。そんなことは思っていないという人でも、他人から批判の言葉や、見下されたら腹を立てます。それは、その人が他人からのよい評価を求めているからです。

155)愛からなされることは、いかにそれが小さく、また取るに足らないものであっても、全く実り多いものである。神は人がいかに多くのことを成し遂げるかというよりも、いかに大きな愛をもって働くかを見られるからである。
 多く愛する者は、多くのことをなす。(「キリストにならいて」第一編十五・12より)

ここで言われている愛とは、もちろん人間の自然に持っている愛でなく、神からの愛を指している。人間が持っていると思われている愛は、必ず自分への見返りを期待するものであり、それは愛でなく自己愛の一種といえるからである。
 この言葉は、主イエスが言われた、「人が、私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書十五・5)を思い起こさせる。主イエスにつながっているとは、主イエスの内にとどまっているといしことであり、それは右の言葉のすぐあとで、「わが愛のうちにとどまれ」(同9節)と言われているように、主イエスの愛、神の愛のうちにとどまることである。主イエスの愛のうちにとどまって、何かをなすときには、主が働かれる。
 「多く愛する者は、多くのことをなす」これは、神の愛をもってなす者は、外見ではいかに小さいわざのように見えても、神の目から見れば多くのことをなしているとみなされるし、逆にいくら社会的に目だったことをしても、自分の利得とか名誉のためになしているときには、愛からなされておらず、神の目からはそれはとるにたらないことと見なされる。