20044

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ことば

180)(キリスト者の)最悪の罪は祈らないことである。キリスト者のなかにも、だれの目にも明らかな罪、言動が一致していない状態を見ることはまことに意外なことであるが、これは祈らない結果であって、祈らないことへの罰である。…
祈りは食物と同様に、新鮮な力と健康の感覚をもたらす。人は飢え渇きを覚えて祈りへと駆り立てられ、祈りによって、戦いのために新たにされ、力が与えられる。精神もからだも常に活ける神を求め叫び続けている。(フォーサイス著(*)「祈りの精神」1315頁より)

キリスト者は神を知った者、そしてその神はいっさいのよいことを持っておられるお方。とすればその神に祈り、求めることはごく自然で当然のことになる。
自分のうちなる汚れや罪を清める力もまた神が持っておられるし、神もそのことを願っておられるのだとしたら、その神に求めようともせず、自然のままの悪に心をゆだねていることはたしかに、キリスト者がなおも犯していく罪、悪の源だと言えよう。そこから不和や愛の欠如、正しい感覚がなくなること、この世の快楽や娯楽に負けることにもつながっていくといえよう。
祈りによって私たちはたしかに心が清められ、それによってからだも力づけられることをしばしば経験する。祈りがなければ心もよどんだままであり、人間的なものに惹かれやすくなる。
人間とは心身ともにその深いところで神に向かい、神からの力を受けようとしている存在と言える。
*)一八四八年イギリス生まれ。牧師、神学者。ここに引用した書は、一九一六年にイギリスで発行され、一九三三年に日本でも翻訳が出版されている。彼の記念碑には、彼の十字架信仰を記念して、「十字架によって光へ」(Per Crucem Ad Lucem)と記されているという。
181)この世界におけるただ一切の善き事だけを報道して、悪だの、くだらぬ事柄には見むきもしないというような新聞なり、評論誌なりを、われわれは持つべきである。それを読めば、この世には一体どれほど多くの善事がなされており、特に最初は邪悪だったものが善に転じたり、善に仕えるようになるものがどれほど多いかも、はじめて分るであろう。
「神は、神を愛する者たちとともに働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙八の二八)。これこそ、正しく、しかも永続的な楽観主義である。このようなことを、われわれは生涯において、それが単なる「偶然」とは思われないほど、たびたび経験するものである。(ヒルティ著・眠れぬ夜のために下 四月二十日の項より )
・このような新聞とかはごく小さな規模のものでしか存在できないであろうが、キリスト教関係のさまざまの印刷物は本来はそのようなものを目指して作られ、発行されていると言えるだろう。このことは、また私たち一人一人が、たえず「善きこと、美しいこと」に目を留め、悪しきことに直面してもそこに神の御手が触れて、それが転じて善きになると信じること、そしてそのようにする神の御手を見つめていることの重要さを示している。
悪を見つめてばかりいたら私たち自身もいつのまにか悪に呑み込まれてしまい、染まっていくであろう。
すべてを転じて善きに変える神の御手を思っているなら、実際にそのように悪いことやよくないことが転じて善きに変えられていくのを見ることができる。またはそのようになることを信じて待つようになる。
聖書はそうした意味で、最善の書であり、聖書に書かれている人間の罪や悪も最終的には滅ぼされ、善きことに変えられていくことを克明に記してある書である。
そうした本当の楽観的な見方へと指し示すように、そしてつねに清いこと、良いこと、美しいことを発信する情報源として、青く澄んだ空、夜空の星の輝き、野草などはその単純な美しさを人間に向けている。

182)われらはこの世の旅路の途上で
  ただ休むように生まれてはいない。…
(この世的な)安らぎに心をだまされてはならない、
  この世での真の安らぎはただ一つ、
大いなる目標への確信にある。

願うのは、ただ勇者の力が与えられることだけです。
  地上では敵のさなかにあって
  困難な働きにおいて戦いをさせてください。
  天上の救われた人びとの家に行ってから、
  私は平和のナツメヤシの枝をかざしたい。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために上 三月二十五日の項より。)

人間はたえず娯楽などの安楽を求める。しかし、この地上ではそうした安楽に身をゆだねていたら滅びへと向かっていくであろう。私たちの安らぎは、信仰のうちにある。神の国に導かれているということ、神の国のためのはたらきに召されているという確信のうちに憩いがある。
私たちの願いは、それゆえに困難から逃れて安らぎを得ようとすることでなく、そうした困難に向かう力であり、この世の力と闘うことが私たちの地上のつとめなのである。
そしてそのような歩みのなかにこそ、主イエスが約束された、「主の平安」が与えられるし、さらに神を信じる者には必ず究極的な平和がある。それは地上の生活を終えて天の国に帰ったとき。そのときこそ「主の平和」を心かぎり喜ぼう。


20043

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ことば

177)人間の生きる正しい目的は、絶えず神の慈愛を受け、それを他に分かち与えるということでなければならない。…多くの苦難を経験して、最後にようやく本当の生きる目的を悟る人たちもいる。しかし、生涯の終わりになってもそのような自覚に至らない人は、一生を半ば、あるいは全く踏み誤ったことを嘆かねばならない。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために・上 八月二八日の項より」

Die Menschliche Leben,muss ein bestandiges Empfangen und wieder Ausgeben der Freundlichkeit Gottes. …(初めの部分の原文)
人間の生き方といったことについては実にさまざまの生き方がある。しかしだれもが可能で、しかも最善の生き方はここにヒルティが述べているような生き方であって、それこそ聖書が一貫して述べていることである。神は万能であるとともに愛であるゆえ、私たちがその弱さのなかから真剣に求めさえすれば神はその愛を下さる。そしてそれを生活のなかで分かつことが日々の目標となるという。このような生き方は才能とか地位、財産の有無、または健康か病弱かに関係なくだれにでも開かれている。

178)十字架
それから彼はしばらくの間じっと立って十字架を見つめ、そして驚いた。十字架を見たために、このように重荷から楽になろうとは実に驚くべきことであったからである。それで彼は何度も見ているうちに、ついに頭の中の泉から涙が湧き出て頬を伝わった。
彼が涙を流しながら十字架を見つめていると、見よ、三人の輝ける者が彼のところにやってきて、「平安あれ」と挨拶した。第一の者は彼に言った。「あなたの罪は赦された」。第二の者は彼のぼろの服を脱がせて着替えの衣を着せた。(「天路歴程」86頁 新教出版社刊 参考のために、英語の原文を添えておきます)

He stood still awhile to Iook and wonder,for it was very surprising to him that the sight of the cross should thus ease him of his burden. He looked therefore, and looked again, even till the springs that were in his head sent the waters down his cheeks.
Now as he stood looking and weeping, behold three Shining Ones came to him and saluted him, with "Peace be to thee." So the first said to him,"Thy sins be forgiven."
Mark 2:5 The second stripped him of his rags. and clothed him with change of raiment.

人間にとって最も重荷となるのは何か、それは本人が気付いているかどうかに関わらず、赦されない罪こそその重荷のもとになっている。人間はふつうの動物とちがって何が正しいか、真実かを直感的に感じ取る能力を与えられている。それゆえ、自分や他人が正しくないと感じること、すなわち罪の意識ははっきりと分からなくとも奥深くに眠っているように存在し続けている。その罪の意識は隠れたまま、人間を苦しめ、重荷と感じさせ、心に晴々とした軽い心を与えないようになっていく。それが人間の根本問題だと感じるときに、それを逃れさせてくれるものこそ、最大のもので、それこそ罪の赦しなのであった。この天路歴程においても、その罪の赦しこそが中心に置かれているのがわかる。ただ、十字架を仰ぐだけで、赦しを受けて心は軽くなるという実に不思議な体験をこの著者も与えられて、それこそが人生の転機となった。

179)平和
二人または三人の間での平和からのみ、私たちが希望するような大きな平和が、将来成長することが可能なのである。
(ボンヘッファー「信じつつ祈りつつ」83頁 新教出版社)

主イエスは、「二人三人が私の名によって集まるところには私はいる」と約束された。ここでボンヘッファーが言っていることは、主イエスこそ真の平和の源であり、主イエスがなされることによって本当の平和がもたらされるということを思い起こさせる。罪赦され、神との平和を与えられて初めてそこに永続的な平和の基礎が作られたことになる。