2007年11月

戻るリンクボタン進むリンクボタン

本文

273)あやまちを犯さぬように守ってやるのが、人間の教育者の本務ではなくて、あやまてる者を導いてやるのが、いや、そのあやまちをなみなみとついだ杯から飲みほさせるのが、師たる者の英知です。
(「ウィルヘルム・マイステルの修業時代 第七巻九章 筑摩書房 世界文学体系」二〇・二六七頁)

・たしかに最大の師であるキリストは、放蕩息子のたとえで神の愛を示された。父は、息子が誘惑にさらされないように家で守っておくということをせず、あえて自由に行かせた。そして息子が正しい道からはずれて苦しみ抜いたとき―つまり、過ちを飲みほしてそこから神に立ち返るのを待っておられた。
私たちは人生の歩みで数々のあやまちを犯しその苦い結果を飲み干さねばならなくなることがしばしばある。しかしそれで終りでなく、そこから初めて神の愛を知る道が続いている。