2009年10月
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(317) 信仰と境遇

私において、境遇は信仰を作らず、信仰が境遇を作ってきた。神はすべての良きものを信仰の報賞として私に下された。「あなたの信じるとおりに、あなたに成ると主は言われた。(マタイ九・29)
私は、自分の信仰を大にして私の境遇を改めることができる。
(内村鑑三著「聖書之研究」第十一巻434頁 原文は文語)

・よい境遇は信仰につながることはもちろんある。内村鑑三自身、札幌農学校に入学できたという境遇がキリスト教との出会いとなり、信仰につながった。親がキリスト者であるという境遇のゆえに、信仰を与えられたさまざまの例もある。
たしかに、よきキリスト者が近くにいるという境遇によって信仰は与えられることもある。しかし、与えられた信仰をしっかりと保ち、その信仰によって決断し、道の別れ道のとき、より信仰を働かせる道―しばしばこれはより困難な道となる―を信仰によって選ぶとき、たしかに境遇は変えられていく。意外な助けがあり、友人が与えられ、敵対していた人も変化する、あるいはいやなことばかりだという境遇であっても、そこに意外な逃れの道、助けが与えられていくなどがある。
アブラハムは旧約聖書において、信仰が境遇を作ったという最もはっきりした例である。信仰によって彼は未知の世界へと旅立ち、その結果新たな祝福に満ちた境遇となっていったのである。
私たちも信仰によって、神があらたな境遇を私たちのために造り出して下さることを信じることができる。そして、もし信仰がなければ、死とは漠然とした暗い闇のようなものでしかなくそのような得たいのしれない境遇へと落ち込んでいくほかはない。
しかし、愛の神を信じ、キリストを救い主として信じるだけで、死後はキリストの栄光ある姿と同じような姿に変えられ、御使いのごとくにされているすでに召された人たちとともに永遠に生きるという最もよき境遇へと移していただけるのである。
(318)二つの道

人生を強く堪えぬくには次の二つの道がある。その一つは、世の狼どもと一緒に吠え、目の前にありながら万人に行きわたらない生の享楽の分け前を得ようと猛然と噛み合う生き方である。これは一般に行われている生活であり、「生存競争」である。
もう一つは、神との本当の、誠実な、しかも喜びにみちた交わりにまで精神を高めることによって生きる道である。神との交わりを持つ者には、生存競争は不用になり、また憂愁や無気力は心に生じえない。
(ヒルティ著「眠られぬ夜のために」第一部十月一日の項より)