2010年6月
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本文
(338)知識は容易に得られる。だが、英知を得るには、時間がかかる。(テニソン)
Knowledge comes,but wisdom lingers.

・学校教育で学び得られるのは、知識である。インターネットで得られるのもまた知識である。そして人生の経験を重ね、旅行などして各地の現実に多く触れても、やはり得られるのは、知識である。
そのようなことを重ねてもなお、英知は得られない。かえって、それらに触れて、傲慢になったり、逆に落ち込んだり、あるいは万事に空しさを感じたりすることになったりする。
英知とは、目には見えない永遠的なもの、永遠の神の愛、真理といったことへの直感、洞察力であり、この世の見えるものに揺り動かされない力である。
それゆえに、昔の人たちはまったく教育を受けずとも、また旅行など全くできなくとも、あるいは本を読まなくとも豊かな英知ある人たちは生じてきた。キリストの弟子、ヨハネやペテロたちは漁師であって字も読めたかどうかは分からないが深遠な啓示を受けたことがうかがえる。
イエスも、歩いて行けるほどの距離の範囲しか知らない。三十歳のころまで大工として父親とともに働いていたから本を読むなどという環境ではなかった。またわずか三十歳であり、この世の数々の経験を重ねたということでもない。
しかし、あらゆるこの世に現れた人間よりはるかに英知をもっておられた。その英知は、二千年を越えて、それをしのぐ人はもちろん出てこない。歴史上で最もすぐれた働きをした人たち、それはそのキリストの英知のいくらかを与えられた人たちなのである。
英知は、神から直接に与えられる。人間から与えられたというときでも、その背後に神の御手が働かなくては、知識が増えても英知は生まれない。それゆえ、生活範囲がきわめて狭い、自分の家の一つの部屋で長く寝たきりで過ごした水野源三のような人が、深い英知を与えられていたのを、その詩から読み取ることができる。
聖霊は風のように、(神の)ご意志のままに吹く、と言われているように、いかに狭い範囲でいても、また若くとも、あるいは、病気や体の障がいがあろうとも、神の霊が与えられるときには、英知が与えられる。
そして、世界の歴史上で、最大の英知に満ちた書物、それが聖書である。