2010年8月
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本文
名作のなかから ―アンクル・トムズ・ケビンより
 小さな天使
《ある裕福な家庭で、一般の白人よりはるかに奴隷に思いやりのある主人が、黒人奴隷の子供トプシーを持っている。しかし、トプシーは、奴隷であった両親から幼いときから引き離され、愛を受けたことがなく育った。
 その子の心はゆがめられてしまい、やさしくしてくれる主人たちのいうことを聞かないで、悪いことばかりする。
 その主人の妻は、こんないうことを聞かない子は、足腰が立たなくなるほどのひどいせっかんをしなければいけないと言ったほどだ。
その家にいたのが信仰深いエヴァという少女であった。
 そのエヴァは、病気が重くなり死のときが近いという状況にあったが、そのトプシーを自分のベッドに呼んで次のように話しかけた...》

...おまえ、だれかを愛してはいないの。トプシー?
「愛なんてこと、何もしらねえです。」
「でもお前のお父さん、お母さんを愛しているでしょう?」
「そんなものはいねえです。いつか言ったでしょ、お嬢さん。」
「ああそうだったわね。」とエヴァは悲しそうに言った。...
「でも、たとえおまえが黒くっても、愛してもらえるようになるのよ」
「そうは思わねえです。あの方は、あたいに我慢ができねえです。
 あたいが黒んぼうだもんだから―あたいに触られるくらいなら、ひきがえるに触られるほうがましだと思ってるんです!
 黒んぼうなんか愛してくれる人はいるはずがねえです。
 だから黒んぼうは何もできねえです。それでもあたいはかまやしねえ。」
「おお、トプシー、かわいそうに。わたしはお前を愛しているわ!」
 とエヴァはぐっと込み上げてくる感情に思わず叫んだ。
そしてその小さな細い白い手をトプシーの肩に置いた。
「わたし、お前を愛しているわ。だってお前にはお父さんもお母さんも、友だちもいないんですものね。―
 お前はかわいそうに、みんなから虐待されてきた子供ですものね!
 わたし、お前を愛しているのよ。だからおまえもいい子になってちょうだい。
わたし、からだがとても悪いのよ、トプシー、もうあまり長くは生きていられないように思うの。
 おまえがそんなにいたずらな子だと、わたしはほんとうに悲しくなるの。
 わたしのためと思って、どうかいい子になるようにしてちょうだい。お前と一緒にいられるのも、もうほんの少しの間だけですからね。...
その黒人の子供の、まるい鋭い目は涙でくもった。― 大粒の輝く涙が一滴また一滴とあふれ出て、小さな白い手の上に落ちた。
まさにこの瞬間、真の信仰の光、天上の愛の光がその心の中に射し込んだのである!
彼女はひざの間に頭をたれて、すすり泣きだした。― そして彼女の上に身を傾けている美しいエヴァの姿は、さながら罪人を導く天使の姿に似ていた。
「かわいそうなトプシー! おまえ、イエスさまはだれでも分け隔てなく愛して下さるということを知らないの?
あのかたはわたしを愛して下さると同じように、喜んでおまえを愛して下さるのよ。わたしがおまえを愛するように。
―いいえ、もっともっとおまえを愛して下さるのよ。あの方はわたしよりずっといいかたですもの。おまえがいい子になるよう、お力添えをして下さるわ。
そして最後には、おまえも天国へ言って、永久に天使になれるのよ。それは白人と少しも変わりないわ。そのことをよく考えてちょうだい。トプシー!
おまえだって、アンクル・トムがよく歌うあの輝く天使たちのひとつになれるのよ。」
「ああ、お嬢様、お嬢様!」とその子は言った。「やってみる、あたい、やってみるです。あたい、これまでそんなこと少しも思ったこともなかった。」
(「アンクル・トムズ・ケビン」(*)下巻 一五〇〜一五二頁 ストー夫人著 角川文庫)

(*)このアンクル・トムズ・ケビンという作品は、トルストイが、「神と隣人に対する宗教的自覚から流れでる感情を伝える芸術」の代表的なものの一つとして、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、シラーの「群盗」、ディッケンズの「二都物語」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともに、あげている。(トルストイ全集第十七巻 芸術論・教育論 一一〇頁 河出書房新社刊)
神の愛を主題とした文学作品は、トルストイが指摘しているように、驚くほど少ないが、このストー夫人の作品は確かに、そうした稀な著作である。

・ここには、どんなにかたくなになった心、絶望的なまでにゆがめられてしまった心であっても、もしキリストの愛がそこに触れるならば、変えられるという、作者のストー夫人の確信が現れている。
これは聖書から生まれた確信であり、ストー夫人自身が経験してきたことであるゆえにこのような作品に描き出すことができたのであろう。
制度を変えても、あるいは厳しい処罰によっても、また物質的な豊かさを提供しても、いかなることによっても変ることのないかたくなな心が変えられるのは、ただキリストの愛のみ、その真理は今に至るまで変ることがない。
これは単に小説のことでなく、私たちの一人一人が、実は、このトプシーのように、神の御前ではかたくなで、扉を固く閉じていた者であったのであり、そのところに主がその愛を傾けて下さったゆえに、私たちは神の愛を知ることができたのであった。