2011年5月
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(347)本気と助けと希望

本気ですれば
たいていのことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしていると
誰かが助けてくれる

...実際私は、多くの困難をその都度「誰かに助けられて」乗り越えることができた。...大学を辞めて進路を断ったということが、本気にさせるという意味をもったのだろう。
その「本気」とは、確信と希望ということに尽きると思う。理想主義者の私は、核のない社会が必ず実現することへの強い確信を持っている。
...だから私はいつも希望をもって生きていられる。生きる意欲は明日への希望から生まれてくる。
...私の場合は、この確信と希望は、無数ともいえる人々との出会いから生まれた。
...実際に、名を呼ばれて受賞(*)のためにスウェーデン国会の式典ホールの演壇に上がる数十秒の間に、私の頭の中には、走馬灯のように全国の人々の顔が次から次へと浮かんできた。...
(「市民科学者として生きる」高木仁三郎著 岩波書店 222〜223頁)

(*)ライト・ライブリフッド賞。1980年にスウェーデンにおいて創設された賞。第二のノーベル賞と称されることもある名誉ある国際的な賞。主に環境保護、人権問題、健康、平和などの分野にて功績を残した人物、団体に与えられる。(ウィキペディアによる)

・高木仁三郎については、今月号の「原発を許容するに至らせたもの」を参照。高木はキリスト者ではなかったが、 彼のこの「確信」を「信仰」に置き換え、さまざまの「人の助け」を「愛」と置き換えるとき、聖書にある最もよく知られた言葉、信仰と希望と愛に通じるものを感じさせる。
高木のような特別な能力がなくとも、また病身であったり老年であってもなお人間を本気にさせるものがある。それが聖霊なのである。
ペテロも三度のキリストを否定したような弱い人間であったが、聖霊が注がれると命まで捨てる覚悟をもつほどに本気となった。
私自身も、福音を伝えたいという気持ちが一貫してあり、いくつかの公立高校の他に盲学校、ろう学校、そして養護学校などの勤務も経験したが、そのいずれの勤務においても、教科を教えるかたわら放課後の読書会やときには、授業のなかで教科の理科の内容に関連付けて福音を語ってきた。
そのすべてにおいても、いろいろな反対もあったし困難も生じたが、不思議と、聖霊の助けというべきものがあり、職場においても一部の同僚や生徒からも、そして教職を辞めて後は、集会員ほかいろいろな方々からの祈り、助けがあったし、今もそれは続いている。