「喜びと祈り、感謝、賛美への道」
吉村孝雄(徳島・徳島聖書キリスト集会)
…いつも喜べ。絶えず祈れ。どんなことにも感謝せよ。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることである。(Iテサロニケ5の16~18)
目を覚まして感謝を込め、祈り続けよ。(コロサイ4:2)
新約聖書において、つぎの言葉は、もう半世紀も前に、聖書に初めて接しかとき、驚かされた言葉の一一一つであった。
…いつも喜べ。絶えず祈れ。 どんなことにも感謝せよ。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることである。(I
テサロニケ5の16~18)
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。(コロサイ4:2)
私たちは現在のような世界的な新型コロナウイルスの感染が増大して、数知れぬ人たちが悲しみ、沁しみ、孤独のなかで死んでいくような状況にあって、感謝、喜び、賛美などがありうるであろうか。
そのことは聖書においてどのように記されているだろうか。そのメッセージの一一端を受けとりたい。
このことに関して、次の言葉が静かな細き声として響いてくる。
…ああ、幸いだ、悲しむ者は(*)。
その大は神によって慰められる。(マタイ5の4)
Blessed
are those who moum: they shall bec0111forted.
(*)ここで悲しむと訳された言葉(ペンセオーpentheo)は、愛する大、身近な人の死の悲しみ、あるいは祖国の滅亡、人々の滅びなどへの深い悲しみを表す言葉としてしばししな用いられている。それゆえ、英訳でもほとんどの訳がそうした意味を表すmourn が使われている。
例えば、旧約聖書のギリシヤ語訳では、聖書のはじめの部分-創世記から歴代誌の部分における意味はほとんどそのような死に関する悲しみをあらわしている、以下にその一部を示す。
・サラは…死んだ。アブラノヽムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた。(同37の2)
・ヤコブは…幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。(同37の4j・
・主が民を激しく打たれたので、民は嘆き悲しんだ。(サムエル上6の19)
・地は悲しみ、衰え、世はしおれ、衰え、天も地と共にしおれはてる。(イザヤ24の4)
新約聖書においても同様である。
・マグダラのマリアはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いて・いるとこrpみ行き、そのことを知らせた。(マルコ16の10)
この短いひと言のなかに、限りない慰めがあり、主の愛の本質が刻まれている自分の身体がもう回復できない病に冒され、確実に弱り、また死へとちかづいているここを感じるとき、また愛する家族がそのような状況に陥っていくとき、その人自身、そして傍らにある者の悲しみは、何によって癒されるだろうか。
そのようなときにこそ、この主イエスの言葉は暗夜の星のように浮かび上がってくる。
愛するものの病気が癒されて喜ぶのは当然のことである。しかし、それがかなわぬとき、ますます病状が重くなり沈んでいきつつある事態にあってそのただなかで、いかにして喜びなどあり得よう。
ただ、胸をさされるような、込み上げてくる悲しみがあるのみ。
しかし、そこにも静まって目を閉じれば、その悲しみの奥に光る一点が感じられ、そこに平安が与えられる。それこそは、キリストが約束されたこと一私の平安を与えようーとの御言葉の意味なのだとわかる。
そうしたことをなしてくださるのが、聖霊である。
主イエスは、自分は十字架の苦難への道にあることを明確に知っていたが、つぎのように言われた。
「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたを賛美します…(ルカ10の21)
また、パウロの書簡にも、聖霊こそがそうした苦難においても天来の喜びを与えるものであることが、つぎのようにも記されている。
…あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた。(Iテサロニケ1の6)
…希望の源である神が、…聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(ローマ15の13)
主イエスは、最後の夕食のとき、その終わりのところで、「あなた方は苦難がある、しかし私はこの世の闇の力に勝利している」と言われた。
さらに、「私に従うものは命の光を持つ」と言われた。
そのことは、聖書の巻頭に記されていること一闇と空虚、混沌のただなかにあっても聖なる風(聖霊)が吹き、光あれ!との神の言葉によって光が与えられることである。
すべてのことに喜べ、感謝せよ、祈れ、とのパウロの言葉、それはこうした聖霊による喜びと主の平安を指し示している。
求めよ、さらば与えられん(マタイ7の7) という御言葉がある。それは命令であり、また約束である。
私たちも聖霊を求め続けていくとき、そのような平安と喜びが与えられ、そのような主の力を魂の深みにおいて実感して賛美できる道へと導かれていく。
いまの苦しみにただちにそのように感じられなくとも、耐え忍んで、主を仰ぎつつ歩むときには、主のときにかなって聖霊が与えられ、そのように感じるようにしてくださるのを信じることができる。
私たちの生涯において、愛の神を信じていてもなお、「なぜ、私を捨て、こんなひどい苦しみや悲しみに遭わせるのか!」との痛切な叫びも その闇と悲しみを通って、光を見るように導かれる。
ペテロはみずからの罪を深く知ったとき、激しく泣いたとある。そしてその深い魂の慟哭のなかから、主の赦しを受け、聖霊による新たな喜びと力が与えられて賛美の歩みと変えられていったのだった。
現在のような新型コロナウイルスの蔓延という特別な状況だけでなく、はるか数千年の昔から、この世においては、耐えがかい苦しみや悲しみは常に生じてきた。
そして、それと同時に逃れの道バ命の光への道もとくに二千年前のキリスト以来、愛の神とキリストを信じるだけで、万人に与分られてきた。今回の苦難もその苦しみや悲しみを越えて、永遠の命へと導こうとされている神の深い御計画を感じる。
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