いのちの水 2020年7月 号713 号
キリストの力は、弱さの中で十分にあらわれる。 (Uコリント12の9より) |
目次
・主を求めて生きよ アモス書より 小舘 美彦 | |
・自分を捨てよ 西澤正文 | |
・主の導き 加藤久仁子) | |
・信仰への道 藤井文明 | |
・休憩室 | ・集会案内 |
私たちが明日死ぬかも知れないような危険、あるいは病気その他の困難な状況にあって、どのように物事を受け止めるだろうか。
これは、第二次世界大戦のときーいまから七八年前ー、あるドイツ兵が死の4カ月前から書いた手紙の一部である。
…私たちは、ささやかな休息を得て、あらゆる点でそれを喜んでいる。大地と生活とがどんなに平和に満ちて、限りなく美しいか、花がどんなに美しいか、音楽や心にさまざまの想像を浮かべることがどんなに感動的で有りうるか、それはこの驚くべき国で、数々の戦闘の深淵と恐怖を通り抜けてきたものだけにわかるのだ。
神の愛とあたたかさは、戦闘のあとで最も強く感じられ、大きな感謝と喜びとが、心の中に広がる。…
ちょうどラジオで、バッハのニ短調トッカータをきいた。この曲の最初の音で、もう我々の時代の破滅と、力とが反映されている。(ロシアにて 一九四二年七月三一日)
私は再び重装備の師団にいる。この師団は絶えず最も困難な戦いをせねばならず、最も危険な場所に配置される。そのため、非常に大きな損害を受ける。我々は、徐々に消耗し、そこにまた別の兵たちが補充される、ということが繰り返されている。
…この二カ月余りで、我々の中隊は、負傷者と死者で百九十名の損害を出した。 野戦病院に運ばれねばならなかったものだけが、負傷者とみなされる。軽傷者は、すぐに戦闘部隊に駆り出された。百九十名のうち、三十四人が戦死し、さらに十五名ほどが死ぬほどの状況にある。(九月十五日)
…深淵にまっしぐらに飛び込む列車のように、すべてが破局に向って急いでいるようだ。
私の課題は、置かれた場において誠実にそのつとめをなすこと、あたたかさ、愛。それらによって目に見えないものを形作り、求めていく。ーそのために、とりわけ、祈り、心を集中して書くことー愛と力をもって…忍耐を学ぶための祈り。 (十一月二〇日)
…今や、ロシア軍の大攻勢がはじまった。それは一か月〜二カ月の激戦となる。ロシアの冬は身に沁みて寒く、吹雪の中での戦闘となっている。…私の小隊は、すでに三分の二が戦死してしまった。…(十一月二八日)
(「ドイツ戦没学生の手紙」高橋健二訳 83〜86頁より 新潮社 一九五三年発行。ドイツ語の原書はその前年に発行された)
この最後の手紙は、戦死の三日前となっている。
これを書き残した学生は、ウィーン大学の化学科の学生であって、交戦中にメガネが凍りついて見えなくなるほどの非常な寒さのなかでの戦いの後の夜に書いたものと思われる。
味方の三分の二という多くの者が次々と戦死し、また重傷を負って運び込まれ、自分もいつそうなるかわからない、それゆえに、深淵に飛び込んでいく列車のようだと書いているほどの状況であった。
それにもかかわらず、「神の愛とあたたかさは、戦闘のあとで最も強く感じられ、大きな感謝と喜びが広がる」と書いている。
新約聖書において、使徒パウロが、「常に喜べ、感謝せよ、祈れ」と書いていることが、現実になっている。
このような状況においてもなお神の愛が強く感じられ、大きな感謝と喜びがあるというーそれはどこから来るのか、神からくる喜びであり、聖霊によるものだとわかる。
また、彼は花の美しさや音楽の感動的な力にも触れている。バッハのトッカータとフーガニ短調の音楽の始まりの音にさえ、彼が置かれている破滅的現状とそれにうち勝つ力が表されているのを感じたという。
神は、現代の、そして今後に生じるさまざまの未知の困難や苦しみにあっても、真実に求める者には、どのような状況にあってもなお、その苦しみに耐えて希望を持ち続けていくための喜びや平安、そして祈り続ける心を与えてくださるのだとわかる。
武力によらない平和の重要性を語るときに、しばしば次の主イエスの言葉が引用される。
…イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。
剣を取る者は皆、剣で滅びる。(マタイ福音書26の52)
この言葉は、イエスを捕らえようとしてきた人々に対して、イエスとともにいた者(ペテロ)が剣を抜いて切りかかり、大祭司の家来の一人の片方の耳を切り落とした。そのときの言葉である。
イエスは、それだけで止めよ、と言われ、その家来の耳に手を触れて癒された。 (ルカ22の51)
これは、社会的な国や民族同士の戦争の無意味さを告げているだけの言葉ではない。
イエスの言葉は、本質的に霊的な言葉であって、社会問題である戦争とか平和の問題だけに言われたのでなく、いつどのようなときでもあてはまる深い内容をたたえている。
この言葉も同様であって、私たちの日々の生活と深くかかわっている。
私たちが、相手を攻撃しようとする心そのものが剣であって、憎むことは、人を殺すことだ(Tヨハネ 3の15)と言われているように、憎しみそのものが魂に対する剣となる。
憎しみに至らなくとも、差別的な心、あるいは、見下すような心で言う言葉も霊的な剣になって、相手の心を傷つける。ときには、何十年もそうした傷が残ってしまうこともある。
自分を攻撃してくる人たちに対して、そうした憎しみや、見下す心などの言葉を放つだけでも、一種の剣を持って対することになる。
イエスは、敵対する人たちに対して、「目には目を、歯には歯を」という復讐的な姿勢を否とされたのは、そのような考え方がまさに憎しみという剣を持って対することであるからである。
それとは全くことなる新たなあり方を示した。
悪しき人には手向かうな
右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。
下着を取ろうとするものには、上着をも与えよ。…
隣人を愛し、敵を憎め と言われていたことはあなた方が聞いてきたことだ。
しかし、私は言う。
敵を愛し
迫害するもののために祈れ (マタイ5の38〜44より)
「敵を愛し」と、「迫害する者のために祈れ」とは、旧約聖書の詩編によく見られる一種の並行法であり、ほぼ同じ意味の言葉を併置することによってより意味が浮かび上がってくるようにする表現方法であって、本質的に同じことが言われている。
すなわち、敵を愛するとは、敵対するものを好きになれ、ということでは全く異なり、その者に対して祈れ、ということである。
そのような悪意を働く者から悪が除かれ、よき人になるように、そのために聖霊が注がれるように祈れ、ということなのである。
右の頬を打たれたら、相手を打ち返す、あるいは憎しみや敵意をもって対抗するのではなく、左の頬をも向ける心とは、祈りという心の武器を持って対処することである。
主イエスのこれらの言葉には、たいていの人が驚かされ、そんなことは到底できない、あまりにも極端な教えだと思ってしまう。しかし、これは、その背後に、祈りの心を持ってせよ、深い祈りあれば、神の力が与えられるゆえに、こうした態度さえも可能となるということを示した言葉である。
キリストは鞭打とうとするものにはそのままにまかせ、茨の冠を嘲ってかぶせようとするものにはするままにまかせられて、じっさいにこのように生きられた。
敵対するもの、悪意をもって攻撃する者に対しては、主イエスは、祈れと言われたのは、祈りこそは、神の力が働く場となるからである。
新約聖書では、キリスト者の戦いは、血肉に対するものでなくー目に見える人間やその集団ーと戦うのでなく、いたるところに存在する目に見えない悪の霊との戦いであると言われている。
それゆえに、そのような悪の霊との戦いのための武器とは、やはり霊的な武器である。
それは、神の国の永遠の真理、正義であり、主の平和の福音を伝える準備であり、信仰という盾であり、霊の剣というべきものがあり、それは神の言葉である。
それら神の武器を働かせるために祈りが必須であり、聖霊による祈りである。(エフェソ書6の13〜18)
憎しみの剣をもってするものは、その憎しみという剣によってみずからも滅ぶ。 だれかを憎み続けていく時、自分の中に人を殺すほどの毒をもつことになる。それによって憎しみを持つ人の心が硬化し、真理や清いものへの感受性が失われ、魂は滅びへと向う。
憎しみという剣をさやにおさめ、そのかわりに、祈り、真理や神の言葉、神の愛という霊的な武器をもって対せよ、それこそが、相手にも自分にも双方によきものをもたらすことになる。
剣を取るものは剣によって滅ぶーこれだけでは、福音とはいえない。裁きの宣言でしかない。
福音ー喜びの知らせとは、私たちにはいかなる場合においても、悪の霊と戦うための聖霊の武器が与えられていることであり、それを用いるときには神が働いてくださって、イエスの言葉のように、私は世に勝利しているというその勝利を私たちも受けることができるということなのである。
この世界でどのような事態となっても、前進していくものとは何であろうか。
科学技術は、そうしたものだと考えられやすい。
だが、その前進とは、人類のためになるのかとは別問題である。
核兵器が東京のような大都会への攻撃に用いられた場合、膨大な破壊が生じ、数百万人が死ぬと予測されている。
原発を稼働させてその後の廃棄物の処理にも、また、原発の大事故が生じると、数十万年も管理を続けなければならないという難題が待ち受けている。
人工知能を用いたAI兵器ー無人戦車や無人装甲車などが発達するとどうなるのか、上空からのドローンなどを用いての攻撃、宇宙の人工衛星攻撃、あるいは宇宙兵器による地上攻撃等々、このような科学技術の前進は、ますます人類を危機に陥れるものとなる。
医学の発展によって、ハンセン病や結核、その他のいろいろな病気に関する薬や治療法の開発によって人間の福祉に貢献してきた。
他方、新たな薬が生まれても、また予想しがたい病気が発生する。そしてその新たな薬の毒作用(副作用)も、あらたな病人を生み出す。
抗生物質の劇的なよい働きも、耐性菌の出現という新たな困難な問題を伴っている。私が大学で生化学をまなびはじめた半世紀以上前から、耐性菌の問題の困難さが言われていたが、その後ますます耐性菌の増大によってどんな薬にも耐性を示す細菌も現れ、そうした細菌の変異に薬学の前進も追いつかない状況もある。
単に、よい目的をもってすれば、科学技術はよいものだという単純なことでない。
原発にしても、少量のウラン235から、莫大なエネルギーを生み出すので二酸化炭素の減少にも役だつ、資源のないわが国にとってもよいのだ、と称して、世界的にも地震や火山、津波大国であるにもかかわらず、次々と原発を造り出した。
そのあげくに、福島の原発大事故が生じたし、今後原発や関連施設の後始末のためには、10万年を越える途方もない歳月が必要とされるという。
今後もずっと、そうした人間による操作ミスや手抜き工事、テロ、自然災害による原発の大事故にもたえずおびえることになってしまった。
あるいは、よい目的で科学技術を使う典型的な分野と思われている医療においても、例えば、次のような医学者の言葉にもそれは見られる。
…医師としての私は、目の前の患者の命を救うために全力を尽くすことが最優先となります。抗生物質や抗ウイルス剤など、あらゆる治療手段を用いようとするでしょう。
しかし、その治療自体が、薬の効かない強力な病原体を生み出す可能性がある。このジレンマの解決は容易ではありません。
(山本太郎・長崎大熱帯医学研究所教授の談、毎日新聞 二〇二〇年3月12日)
科学技術の困難な特性は、現代では生活のあらゆる部分に入り込んで、それなくば、ほとんどのことができない状況となっているが、いかによい目的で使おうとしても、必然的に予期しない害悪が同時に生み出されていくという点にある。そして人間の深い自己中心という罪の本性ゆえに、その害悪が増幅されていく。
近年には、コンピュータ、インターネット関連の発達が目ざましく、よき目的のためにもさまざまに用いられることはいうまでもない。
しかし、かつてなかったようなさまざまの陰湿な子供の世界から大人まで広い範囲にわたるいじめや不当な個人攻撃、組織的な大量の攻撃メールや不正なメール、テロへの勧誘、他国のシステムの破壊、情報を盗み取ること…さらには、今回の新型コロナウイルスの蔓延を機にいっそう明らかとなってきたように、個人の自由にも入り込み、膨大なデータが、権力ある者に用いられ、人間の自由をも奪っていく可能性を秘めている。
福音の前進
このような現状にあって、数千年前から、絶えざる前進を続けていて、しかもこうした人類への害悪をもたらさないもの、それが唯一の神、愛と真実であり、全能の神がおられるという喜ばしい知らせ、福音である。
人間の持っている愛や正義などは、影のようなものー状況によって簡単に憎しみや不正に転じてしまう。
しかし、神の愛や真実そのものは、永遠であり、そこから悪しきものが生まれることはありえない。
二千年前に現れたイエス・キリストこそは、それ以前から予言されてきた御方であり、過去の長い歴史においても、その前進によって、よきものが世界に広げられてきた。
もちろん、そうしたほんとうのキリストの精神とは別に、人間の罪深い本性がそのキリストの精神を自己の欲望に用いようとしてきたことは多くある。
しかし、そうした悪用と別に、神は、真のキリストの心を持った人たちを、歴史の中で、思いがけない地域に出現させ、さらに神(聖霊)みずからそのような不信実な人間をも用いて福音を前進させてきた。
私たち人間の根本問題である罪の赦しと、死んだ者をも復活させる力ーそれが福音であり、それはいかなる歴史的な状況や、災害などにおいても、変ることなく伝えられてきた。
そして、その福音は、科学技術のように、多額の金、権力や人間の一部の知的能力のすぐれた者たちの競争、利益の追求などのように、何らかの力ある者たちによって「前進」していくのでなく、弱き者、あるいは一般には絶望的と思われるような状況のただなかで、前進していく。
その典型は、キリストの十字架での処刑だった。
キリストは、神からの啓示を完全な形でうけておられ、その神のご意志に全面的に従う生涯となった。
神からの啓示、神の言葉をそのままストレートに語られたが、それによって捕らえられ、鞭打たれ、嘲られ、そのあげくに、重罪人として十字架にて釘打たれて、激しい痛みと苦しみにもだえつつ、神様、神様、なぜ私を捨てたのか!と いう絶望的な叫びをあげて死んでいった。
イエスは、貧しい人々、苦しむ人々への愛を生涯にわたって示し続けたが、その愛もキリストを受けいれないユダヤ人たちによって無惨にもたたきつぶされた感がある。
当時の人たちは、弟子を含めて、イエスの事はこれで終わった、と思ったであろう。
しかし、そのような徹底的な弱さと絶望のなかから、不滅の希望が現れ出た。それが復活だった。
人間世界では、征服や支配を前進させるためには、権力や武力、またそれらと深く結びついているカネの力…等々が用いられるが、神は福音という真理を前進させるためには、それらと全く異なることー人間の弱さを用いられる。
罪深き人間、また病気や障がいを持った人間、この世では何も価値のないかのように扱われるような人をも用いられる。
このような神のなさり方は、聖書の全体にわたって見ることができる。
新約聖書においては、とくにそれが顕著である。
人間のほんとうの幸い、何が祝福された人間なのかについて、最も重要なメッセージの記された山上の教えにおいて、最初に記されていることがそれを示している。
…ああ幸いだ(祝福されている)
霊において貧しい人たちは!
神の国はその人たちのものであるからだ。
ああ幸いだ、悲しむ人たちは!
その人たちは、(神によって)慰められ、励まされるからだ。(マタイ福音書5の3〜4より)
自分の罪深さ、また何もできない弱いものだと自覚している心ーそれが霊において貧しい人であり、そうした何も取り柄がないと深く実感している心にこそ、神の国が与えられる。
「国」(*)とは、原語のギリシャ語では、王の支配、その権威、力を表す故に、神の国とは神の真実と愛による御支配の力そのものを与えられるということである。
(*)国と訳されたギリシャ語は、バシレイアで、バシレウス(王)から派生した語。それゆえ、バシレイアは、王たること、王の権威、王の支配、そこから、その支配の及ぶ領域 といった意味も持つ。
英語では、神の国とは、kingdom of God であり、神の王たる支配の領域という意味が含まれている。
しかし、国という漢字は、もともと中国語であり、その本来の形は、國。それは四角形は囲まれた領域を、戈(ほこ)で守るという意味を表す。なお 戈 とは、敵を打ち、殺傷するピッケル状の武器。
そのような神の国を与えられるとき、その人は、周囲にもおのずから伝えようとする。それは見捨てられたと思っていたのに、そのような者をこそ、喜んで迎えてくださる御方ー愛の神がおられるということが魂の深いところで実感できるように変えられたからである。
そのような人たちがじっさいに福音を前進させていくことになった。
また、愛するものの死のようにかけがえのないものを永久的に失った心の痛手、周囲の悪意によって抹殺されようとするような恐ろしい孤独…そうしただれにもわかってもらえない深い悲しみも、そこにきてくださって愛の御手をさしのべてくださる、そしてその魂をなぐさめ、励ましてくださる。
そこから与えられた力は、何かで一番になったとか、優勝したとかで受ける大衆の拍手喝采による励ましとは全くことなる。
心に深い傷を持ち、そこから神を仰いで力を受けるー神の国を与えられるとき、そのような人はときとしていかなる迫害や苦難をも越えてキリストを証しし、福音の前進を導くものとなってきた。
使徒ペテロは、キリストに従いつつも、「あなたが王となったときには、その右、左に置いて欲しい」と、権力を求める人間的な、自分中心という罪深さを捨てきれない状況があったが、それはキリストがいよいよ捕らえられたとき、自分も捕らえられることを恐れ、キリストなど知らないと繰り返しはっきりと言ってしまったことにつながっている。
そして、そのことの罪深さを思い知らされ、さらにその罪をもキリストはすべて見抜いたうえで、赦し、聖霊を与えられた。それによってペテロは福音の使徒となり、福音の前進の指導者の重要な役割を果たすことになっ。
また使徒パウロも、キリストの真理が啓示されるまでは、キリスト教を迫害し、キリスト教徒たちを捕らえ、殺すことさえした。そうした重い罪を赦されて、そこに聖霊が注がれた。その聖霊による愛と勇気、力、忍耐、希望といった神の国に属するものを豊かに与えられて、彼が受けた啓示がそのまま聖書となって福音の前進に以後二千年にわたって決定的に重要な働きをすることになった。
能力的にも家柄もまた指導者などにも恵まれていたパウロは、そのままでは福音の前進どころか、真理の迫害者となっただけであったが、復活のキリストの光を受け、その直接の語りかけを受け、キリストを信じる者とされ、聖霊を豊かに注がれた。それによって、受けた啓示は聖書の重要な部分となり、福音の前進に極めて重要な役割を果たすことになった。
能力あるものも、そのことに関する秘かな誇りのようなものが徹底的に砕かれてはじめて、福音の前進を担うものとされる。
パウロは、罪人のかしらだと語っている。その意識、自覚こそは、主イエスが語られた「霊において貧しき人」であり、イエスが、そのような人こそ、幸いだ と その祝福を語られたが、ペテロもパウロも、自我が打ち砕かれ、キリストによって罪赦され、聖霊が注がれることによって、まさしく ああ、幸いだ! というイエスの言葉が実現しているのがわかる。
このような弱きことを用いてキリストは福音の前進がなされるように導くことは、フィリピ信徒への手紙においても最初の部分でも表されている。
…兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった。
(フィリピ書1の12〜14)
使徒パウロが監禁されたということが、各地のキリスト者たちに伝えられ、多くのキリスト者たちは、驚き、監禁が続けばパウロの福音伝道はできなくなる、またその後のパウロの運命はどうなるのか、処刑されてしまうのではないか…自分たちは卓越した指導者を失ってしまう、等々の不安を感じる人たちが多かった。
そのような失意と落胆の気持ちが各地の信徒たちに広がっていたと考えられるが、そのような状況にあって、パウロは啓示をうけて語ったのがこの部分である。
自分が捕らえられたことの背後には、キリストの導きがあり、キリストご自身のためであると、はっきりと語った。
そのことが、兵営全体、そこから各地のキリスト者たちにつたわり、将来への不安や恐れに代わって、キリストのなされることへの新たな確信と力を得て、福音を力強く伝えることになった。それによって福音の前進につながったというのである。
パウロは弱きところに神の力は現れると語り、ギリシャの都市コリントの信徒に対しては次のように語った。
…兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。
人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもない。
神は、世の無学な者を選び、世の無力な者を選ばれた。
また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた。
(Tコリント1の26〜28より)
このように、困難な状況をも、また病気や障がい、あるいは能力的に恵まれていないもの、地位もなく貧しき弱き者…そうした人々をあえて選んで神の国の前進のために用いてくださるのが神であり、復活したキリストであり、聖霊なのである。
私たちも、さまざまの困難や悲しみ、苦しみが自分自身、家族、そしておなじ信徒たちの仲間や、ほかのキリスト者の人たち、各地の集会等々、いたるところで見られるがそのただなかで、神様はそうした弱さや困難な状況のただなかにいてくださり、福音の前進のために用いてくださるということなのである。
そしてその福音はいかなる状況にあっても前進し続けることは次のように言われている。
…民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 …
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。…
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。 (マタイ24の7〜14より)
人間の前途には、困難が横たわっている。しかし、そうしたさまざまの闇や混乱のただなかから、世の終わりまで、福音は前進し、全世界へと伝えられていく。 そして、新しい天と地となるという約束を信じて待ち望む。
私たちは、どのようなことが生じようとも、神の全能とその愛、真実をどこまでも信じていくとき、かぎりなく小さな私たちも、その福音の前進のために用いられ、最終的な救いへと導かれる。
…私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいる。(Uペテロ3の13)
〇聖書講話
「主を求めよ、そして生きよ」アモス書のメッセージ 小舘美彦(東京・春風学寮集会)
アモス書
四章九節〜11節
序 今読むべき書
現在私たちはコロナウィルスに席巻され、ひどく苦しい生活を強いられていますが、このような状況にありますと自然にこう問わずにいられなくなります。「神様、なぜ私たちはこれほどに苦しめられなければならないのですか」と。他方神様を信じない人たちはこう言います。「これはただの自然現象であって神様とは何の関係もない」と。 神様は本当に災害とは何の関係もないのでしょうか。 これは、一人一人が、最も納得のいくほうを信じればよいのです。
私は、神様はその災害が起こることをお許しになった。だから災害が起こる、と私は考えます。イエス様がおっしゃるとおり、雀の「一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」、つまりこの世のすべての出来事には神様の意図が働いていると私は思うのです。
だとすれば、今回のコロナウィルス感染症の大流行にも神様の何らかの意図が働いている、 その神様の目的とは何でしょうか。私はこの問題に対する答えを求めて聖書を読み返しました。するとそこには、この問題に対する答えをぴたりと言い当てるような文書があったではありませんか。それがアモス書であり、今日はこの書に学び、コロナウィルスの流行に込められた神様の目的について学んでみたいのです。
1.日本で連続する大災害
さて、アモス書に入る前に少し確認したいことがあります。近年日本はいったいどれくらい大災害に襲われたでしょうか。私が最初に思い出すのは、1995年1月の阪神淡路大震災です。 その次に思い出されるのは、もちろん2011年3月の東日本大震災です。 さらに、2013年以降毎年のように起こるようになった集中豪雨です。2014年8月には広島県で、2017年7月には九州北部で、2018年7月には九州・四国・中国の広範囲で、一ヶ月分の雨が一日で降るというほどの集中豪雨が発生し、ました。
もう一つ忘れてならないのは、2014年9月に起こった岐阜県の御嶽山大噴火です。
さらに、昨年2019年に関東・東北地方を襲った大型台風19号。
そして今年度、2020年には新型コロナウィルス感染症が流行し始めます。この被害は今後もいっそう拡大していくでしょう。このように近年の日本は、次から次へと大災害に襲われてきました。しかも大災害の形は毎回異なります。
海沿いも山沿いも川沿いもそして都会も、安全なところなどどこにもない。すべての場所をまんべんなく大災害が襲っているのです。いったいなぜ日本はこのように次々に様々な形で大災害に襲われるのでしょうか。ここにはどう見ても神様の何らかの意図が働いているように思われます。
2.神様はなぜユダヤ人たちに災難を下したか
そこで先ほどお読みしたアモス書の箇所をその少し前からダイジェスト版で振り返ってみましょう。
四章6節〜11節
ここに記されていますように、神様はかつて様々な災難を次から次へとイスラエルの地に引き起こしました。飢饉、日照り、植物の病気、いなご、疫病、戦争、火事と、手を変え品を変えイスラエルの地に大災害を引き起こしました。いったいなぜか。それはユダヤ人たちが神様に帰らなかったからだと神様は繰り返し述べています。つまり神様に帰らないユダヤ人たちに怒りを表すために、神様は彼らに次々に大災害を下したと神様ご自身が述べているのです。
3.では、神様に帰らない暮らしとはどのような暮らしでしょうか。これについて神様はアモス書でこう言っています。
2:4 ユダの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さない。彼らが主の教えを拒み/その掟を守らず/先祖も後を追った偽りの神によって/惑わされたからだ。
ここには「主の教えを拒み/その掟を守らず/・・・偽りの神によって/惑わされた」とありますが、これこそが神様に帰らない暮らしです。
では、さらに理解を深めてみましょう。「主の教えを拒み、その掟を守らない」とはどういうことでしょうか。要するにそれは、神様を愛さず、隣人を愛さないことです。「偽りの神」とは、それは要するにお金や快楽を第一として求めるということです。神を愛さずに隣人を愛さなかった。それどころかお金と快楽を求め、それを手にするために弱い者や貧しい者たちを利用し、彼らから富を搾り取った。これこそ神に帰らない暮らしです。その様子を一箇所だけ引用してみましょう。アモス書の8章にはこうあります。
8章4節〜7節
ここには、神様の祭りを利用して、貧しい者や弱い者からお金を巻き上げようとする当時のユダヤ人の生活態度がよく描き出されています。
当時のユダヤ人たちの多くは、そのように生きていました。そしてそのような暮らしを何百年も続けていました。だから神様は大いに怒り、いくつもの大災害を通してイスラエルの民に伝えたのでした。
そこで日本へ目を向けるならどうでしょうか。日本人もまた当時のユダヤ人と同様に神様に帰らない暮らしを何百年も続けてきたではありませんか。宣教師や伝道者が何百人と使わされたにもかかわらず、ほとんど神様を愛さず、隣人も愛さず、お金と快楽を求めて貧しい者や弱い者を利用して生きてきたではありませんか。その結果が現代最大の問題である格差社会の拡大ではありませんか。
私が運営している学生寮では、愛こそもっとも大切なものだから、隣人愛の実践を目標にして生きなさいと教えています。そのように教えられた学生たちは、隣人愛の実践を目標にして生きるようになります。ところが、寮を出て就職してしまうとほぼ全員が愛することなどやめてしまいます。いったいなぜか。職場で愛を実践したり、愛について語ったりすると、馬鹿にされてしまうからです。同僚にも上司にも愛を目標として生きている人などだれもいない。職場のほとんど全員が、お金と快楽を目指して生きている。だから彼らは愛の実践を目指して生きるなんて、ナンセンスだと主張する。このような人たちの中で暮らすうちに、卒寮生たちはことごとく隣人愛の実践をやめてしまう。そして彼らもまたお金と快楽を求めて生きるようになってしまうのです。強者が弱者を食い物にしていく格差社会が広まっていきます。これが日本の実態です。
このような日本の現状に目を向けるなら、日本に次々と大災害が起こる理由はまったく以って明らかです。神様も隣人も愛さず、お金や快楽を追い求めて生き続ける日本人に対してその激しい怒りを伝えるためにこそ神様は日本に次々と大災害を引き起こすのです。
4.大災害は天罰か
しかし、ここでぜひとも考えておきたいことがあります。大災害は確かに神様の怒りの現われではあるけれど、はたしてそれは天罰でしょうか。
私はそうは思いません。なぜなら神様は義の神である以上に愛の神であり、イエス様の十字架によって人間のすべての背きを基本的にはお赦しになった方だからです。このような神様が自分に帰らない者を罰するだけのために大災害を起こしたりするでしょうか。そんなことは決してないと思います。だとすれば、神様が大災害を通して本当に伝えようとしていることはいったい何なのでしょうか。
これについてもアモス書が教えてくれます。神様を愛し、隣人を愛して生きずにお金と快楽を求めていき続けるならば、神様は人間の魂までも永遠に滅ぼしてしまうと言っているのです。
神様が人類に大災害を引きこすのは、つまるところこのメッセージを心の底から受け止めさせるためではないでしょうか。
預言者や宣教師や伝道者を遣わしていくらそれを伝えてもわからない。だから、大災害を起こして神様を求めずに生きることの恐ろしさを心の底の底にまで伝えようとしているのではないでしょうか。そうすることで、人類を、神様を求める暮らしに引き戻そうとしているのではないでしょうか。
だとすれば、大災害は、神様が止むに止まれずに差し出した救いの手であり、神様の最も切実な愛の恵みであると言えましょう。
5.まとめ
だとすれば、大災害に際して私たちのすべきことはたった一つでしかありません。すなわち神様の下に立ち帰ることです。
大災害に対抗するための本質的な対策は何か。聖書の答えはまったく明らか、すなわち主なる神を求めよ!なのです。
そこで再び今の日本へと目を向けましょう。私たちは現在コロナウィルスという大災害に襲われていますが、これこそ神様がさしのべた究極の救いの手であると言えましょう。この災害を通じて神様は私たち日本人に問いかけているのです。神様の下へ立ち帰って、神様と隣人を愛する暮らしを始めるか、それとも相変わらずのお金と快楽を求める暮らしを続けるか。
本当に大切なものとは何か。それは神様と隣人への愛以外の何でありましょう。これらを中心にすえて生きてもらいたいからこそ、神様は止むに止まれず災害を起こすのだと、アモス書は述べているのです。この神様の切実な愛に誠実に応答することこそ、日本が連続する大災害から救われる最も根本的な方法なのです。
最後にアモス書の最も重要なメッセージと思われる箇所を引用して終わらせていただきます。
五章14節 善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように/万軍の神なる主は/お前たちと共にいてくださるだろう。
自分を捨てなさい 西澤正文
(静岡・清水聖書集会)
■はじめに(証し)
4年間の学生生活で失ったもの3つ。それは、健康な体、父、中学校教師。家族は8人で両親と姉4人、弟と私。生活は父一人の稼ぎで大変貧しかった。5番目長男のため大事にされ、兄弟の代表で大学進学。結婚間もない長女の家に4年間居候生活。
@健康な体を失った事 1年の11月、秋風が吹く頃胸の苦しさ覚え、家近くの病院に受診。「両側自然気胸」と診断され即入院。肺を包む肋膜に穴が開き、空気が漏れ呼吸困難。一度に両肺に穴が開く極めて珍しい病状。結局1年、2年、4年と3回入院。今後は決して過激な運動をしないよう宣告受ける。
中学・高校6年間はバスケに明け暮れ、部活でシゴかれ高校時代の太ももは60センチを超え、学生ズボンを選ぶのに苦労。体力に自身あり病気を素直に受け入れられず。
A父を失った事 1年の11月初め〜2月末1回目の入院。12月25日父見舞いに病院へ。直ぐ上の姉2人の結婚話に不安な父が、帰り掛け「姉ちゃんが家に戻って来たら、お前は長男だから家に迎えてやれよ」。これが父の最後の言葉。貧しい中でやっと育てた6人の子。もう直ぐ嫁ぐ2人の姉、病気の私を心配。3日後の12月28日心筋梗塞で死亡。
年が明け2月末、4か月の入院を終え清水へ。仏壇の上の遺影を見て父の死を実感。しかし感傷に浸る余裕なく、待っていたのは「長男の自覚がない」パッシングの嵐。義兄たちから「大学を止めて田舎に戻り就職する」くらいの言葉がなければ…と、不満をぶつけられる。働ける体で無いことは皆わかっていたが、家中にやるせない空気が充満。「せめて『長男の自覚』を示せ」と。結局、叔父が話しをまとめ復学決まる。
B中学校教師の職を失った事 4年になり、春先から就職準備。長年の夢「中学校社会科教師」目指す。最終試験の2回目面接が12月、その時、自然気胸で3度目の入院中。静岡県教育委員会へ「面接は受けられず先生を諦めます」とハガキ送付。
就職は、第二志望の清水市役所に。今後の人生を考えると「健康な体、父、教師の道」の3つを4年間で失い、重い足取りで役所へ。時代は昭和49年、オイルショック、大阪万博、高度経済成長の勢いが残り職場は明るく浮つく。多くの先輩職員が自由に雑誌など取寄せ、私も満たされない気持を解消したく「朝日ジャーナル」定期購読開始。丁度矢内原忠雄伝が連載中で楽しむ。矢内原忠雄の背中に一本、筋が通った凛とした生き方に圧倒され、矢内原が信じるキリスト教に興味持つ。数カ月後、同誌上に浜松市在住・溝口正の名前が目に留まる。
今振り返えれば、神は、市役所庁舎玄関前に矢内原忠雄、溝口正の2人を立たせ、私の来るのを待った、と思える。もし健康な体で、父も健在、教師の道を歩んだら、キリスト教に連なる今の私はいない。3つを無くしたことは神の取り計らい、御恵みそのもの。何故なら、失った3つは、どれも私の意志の届かないものだから。感謝、恵みは、年を重ね現在も膨らんでいることを実感。
■現在礼拝で学ぶ使徒言行録から
パウロの福音伝道の旅は、迫害に遭い、迫害から逃れる連続。それにもめげずイエスの証人として多くの街を訪ね、力強く「イエスは救い主」と証言し続ける。
〇身近な溝口正さんは…迫害が起きると分かっていながらも「自治会と神社」のなれ合いを正すため浜松市相手に住民訴訟を起こす。そのことを思い出し、溝口さんから頂いた本を最近読み返す。
同じ居住地の神社、自治会を敵に回し、さらに浜松市を相手に訴える行為は、退路を断つ厳しい戦い。誰もができるものでない。「自治会と神社」の本から決意に至った様子を紹介。「『願わくば、この苦杯を取り去ってください。しかし、御心をなし給え』と、ひたすら祈った。時が経過して私の心の騒ぎが静まりかけた時、鮮やかに示された言葉があった。マルコ8:34−35(聖書個所1)の言葉で私の心はぴたりと定まった。わたしはひとりぼっちになって、イエスのみあとに従いゆく道を歩み始めた。イエスが先導者であることだけが、私の唯一の力であり、依り頼みであり、慰めである」
訴訟を決意する背後で、イエスが共に、イエスに全てお任せし歩めば大丈夫、と確信を得て平安を与えられた。
〇ここで使徒言行録に戻ります パウロは 3回目の伝道旅行の終盤を迎え、間もなくエルサレムへ向かう時、エフェソ教会の長老たちを前に心境を語る。使徒言行録20:22−24(聖書個所2)
溝口さんもパウロも、命をイエスに預け行動する。「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」のイエスの言葉が原動力。
十字架を負うとは、2つのメッセージがある。第一に、イエスが地上を離れる時十字架に上られたように、あなたも世を去る最後の一息までイエスに従って来なさい。第二に、この世にあっても世の富、名声、地位、名誉等に心奪われず、神様のみ信じよ。
神とこの世の両方を得ようと思うな。選択肢は2者択一、どちらか一つ。神、救い主イエスを選択する結論に到達すれば、気持ちもすっきりし、あとは全て神、救い主にお任せすればいい。
〇キリスト教を信じる前のパウロは…自分の力に頼るこの世の人だった。ユダヤ人の中ではエリートの中のエリートで、人々から羨ましがられる経歴の持ち主が、あっさり世の価値を投げ捨てた。フィリピ3:7〜8(聖書個所3)
この世で自己拡大を目指し、他人と比べ競争する価値観に背を向けたパウロが、神に寄り頼み、イエスの証人として生きる価値観に方向転換し生れ変った。
〇囚人の身となったパウロは…船でローマへ向かう途中、暴風に遭い遭難しそうになる。一人の囚人に過ぎないパウロが、乗組員、ローマ軍兵士、囚人達を励ました。いつの間にか船長、船主を横に置き、船内すべての空気を支配する人となっていた。使徒言行録27:25、同:33の34(聖書個所4) 一囚人が「皆さん」と呼びかけ励ますことが出来るのは、神、救い主イエスに直結し、すべてを委ねた安心感から生まれた。どんな過酷な状況に直面しても心にゆとりが生まれる。
ここで、イエスがこの世に誕生し、今までなかった新しい世界をもたらしたことに触れたい。貧しい者が幸せになる新しい世界が実現した。心の貧しい人たち、悲しむ人、優しすぎる柔和な人、義に飢え苦しんでいる人、人のために惜しみなく財産を提供する憐れみ深い人、義のために迫害される人達は幸いである、天国は彼らのもの。イエスがそのような人の所へ寄って行かれるから幸いになる。イエスは既に幸せな人の所へは行かない。イエスは悲しむ人を探し、慰める。だから悲しむ人は幸い。誰も相手にしてくれない人の所へ行き友になる。イエスそのものが福音、良き訪れだから。
〇義のため迫害されているパウロは…今、幸い。近くにイエスがいてくださるから。迫害を受けながらも、難破しそうな船の中で人々を励ますことができた。使徒言行録5:41(聖書個所5) イエスに従い、生きる道を選んだ使徒達は、迫害が勲章。迫害を受けるほどの者になったことを喜びとした。
イエスが来てくださる、近くにいて見守っていてくださる。そのことを船上で全身を通し証されたパウロは何て素晴らしいイエスの証し人だろう。
イエスにお目にかかれない人・富める青年がいた。青年は「永遠の命」が得られなかった。富を持ち過ぎて、結局イエスに会えなかった。富が邪魔をした。イエスは決してこの世の恵みを持っている人のところには近づかない。
■むすび
「自分を捨てなさい」と言われるイエス御自身は、世のすべてのものを捨て尽くし、十字架の上で腰巻だけのやせた裸をさらけ出し、神のもとへ返られた。十字架上で「私のように自分を捨てなさい」と身をもって教えている。
十字架に就く直前、赤い外套を着せられ、棘のある冠を被せられ、曲がりくねった杖を握らせられ、その前にぎょうぎょうしく跪かれ「ユダヤ人の王万歳」と侮辱を浴びせられた。死ぬ直前までも、着せ替え人形のように遊ばれ、それが終わるや棒を奪い、頭をたたかれ、唾を吐かれた。命はもちろん、富や権威、プライド、名誉、名声、地位、等など、一切のものを捨て、わたしたちの罪を一身に背負われ、天に帰られたイエス。十字架の前に立つ私達は、申しわけない気持ちでいっぱいになる。
十字架は、縦の棒に横の棒を付け、縦の棒を地に突きし立つ。神と私の縦棒は、私と隣人の横棒を貫き、社会にくさびを入れる。如何に縦の関係が大切か、十字架を見ても理解できる。胸に十字を切る時、初めに縦に手を動かす動作を見ても、神の大切か分かる。
33歳の若さで十字架に就かれたイエスの前で、私たちは何もなかったかのようにのほほんとしていいのだろうか。朝毎に、人と会う前、社会に出る前に、まず自分の罪の赦しを願い、今日与えられた命を感謝する祈りから一日をスタートしようと思う。
聖書個所
1.マルコ8の34〜35
2.使徒言行録 20の22〜24
3.フィリピの信徒への手紙 3の7〜8
4.使徒言行録 27の25 使徒言行録 27の33〜34
5.使徒言行録 5の41
(編者注 二人の聖書講話内容は、紙数制限のため、聖書箇所の引用など省いたのもあり、当日資料よりやや短くしています。)
主の導き 加藤久仁子
(徳島聖書キリスト集会)
三姉妹の末っ子として生まれた私は7歳で父を亡くした事や母が新興宗教を信じていたこと等が関係するのか?しないのか?小さい頃から、人は死んだらどうなるのか?何のために生きているのか?と考える子供でした。中学生になると「教祖=神」のような母の信じる宗教に疑問を持ち、「これは信じられない。キリスト教の方が正しいと思う。」とはっきり伝えて、その宗教から離れました。この時の事はよく覚えているのに、最初の聖書との関わりは全く記憶がありません。しかし中学生の頃から、聖書には正しいこと(矛盾が無い)が書かれているという認識が私の中にあったと思います。だからといって、自ら進んで聖書に向き合う事もなく、その時その時の自分の心に都合の良いみ言葉を探しては一時的に平安を得るという時を過ごす間に、二十歳になっていました。
仕事帰りのある夜、私の前を歩く二人の宣教師の背中を見ながら、「神が本当にいるなら私の前に現れてみなさいよ」と心の中で強くつぶやきました。今思えば傲慢な呟きでしたが、当時の私には聖書のことばと神の存在が結びついていなかったのです。
その数日後、若い男女二人に声をかけられました。「聖書を読んだことがありますか?一緒に勉強しませんか?」私は聖書の勉強をしたかったわけではありませんが、私がついていけば二人は喜ぶだろうな、とサービス精神から集会場に行きました。そこで初めて創世記の解き明かしを聴き、私たちは神様に愛されるため、神様によって造られた者である事、神様が私たちのために備えて下さった全ての物によって生かされている事を知らされ「あー?そうだったのか?」と合点がいきました。小さい頃から心にあった「人はなぜ生きているのか?」その疑問にやっと答えが与えられたのです。神様と人との関係を知らされ私の心にあった空しさがピッタリ埋められたのです。あの日感じた喜びは40年経った今も私を満たしています。その喜びと、み言葉に励まされつつ今生かされていることは他の全てに勝る感謝です。
最後に、今最も楽しみとしているみ言葉をご紹介いたします。
コリントの信徒への手紙T 13章11節〜12節 〔幼子だった時、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。〕
今見ているこの世界もこんなに素晴らしいのに、おどろくばかりの神様の愛も感じるのに、これより更にハッキリと見えるとき何を見ることになるのか?楽しみです。期待しかありません。この世の誘惑は多く強い時もありますが、常に目を覚まして主なるイエス様にまみえる日まで神様に繋がっていたいと思います。
聖書を読むことの恵み 宮田咲子(大阪狭山聖書集会)
大阪狭山市に住む宮田咲子です。
証とは「自分が何をしたかでなく、主が何をしてくださったか」を話すことだとあります。それで、今日まで主イエス様がしてくださったことを少しでも深く思い巡らし、数え切れない恵みの中で、特に今心にある「聖書を読むことのできる恵み」を話します。
私にとって、誰かと一緒に聖書が読めることは何にも勝る喜びです。もちろん一人でも読みますが、誰かと共に聖書を読めるのは格別の喜びです。
朝は食事の前に、夫と共に読みます。40年以上も一緒に過ごしているのですから、毎日少しずつでも、創世記から黙示録までくり返し読むことになります。
聖書ははじめてという人とも、ともかく一緒に読んでいくと不思議に続いて、こんなこと人間の思いや努力で続くはずがない、イエス様が導いていてくださるのだとはっきりわかります。最近もある人が、はじめの内は気が重かったけれど、「継続は力」ですね、続けて本当に良かったです、と言われました。
今はユーチューブでも、分かりやすい説教や、聖書の内容の要約、感動的なメッセージもあって、これらが伝道におおいに用いられますようにと祈ります。でもまた、少しずつでも自分で聖書を読む、みんなで集まって読む、その素朴な歩みも、主イエス様が必要のゆえに守り導いてくださっているのだとわかります。
昔は聖書がなくても、証や説教だけで、聖霊の大いなる力によってキリスト信仰が伝わっていきました。それが時代と共に、多くの国の人が文字が読めるようになり、神の言葉である「聖書」を一人一人が、自分のものとして持つことができるようになった。このことを思うと、神様の愛の奇蹟としか思えません。世にどんな高価なものがあっても、聖書こそ最高に高価なものであるはずなのに、それがこうして今、手元にある。じっと見ていると、これは天使が運んできてくれに違いないと思ってしまいます。それほど不思議な思いがするのです。
主イエス様がしてくださったこと、少しでも自分で聖書が読めるようにしてくださったことを考えていると、聖書をどのようにして学んだかを思い出しました。
私は20歳代半ば、徳島聖書集会でキリスト信仰に導かれたのですがまもなく大阪に来て、その頃から吉村孝雄さんが「聖書の学び」のための通信講座を始めてくださったのでした。
もちろん私だけでなく、たくさんの人が参加していたと思います。B5の紙に上半分は旧約聖書、下半分は新約聖書、例えば上はダニエル書7、下はピリピの手紙1章、ダニエルでは「大きい獣とは何をさしますか」とか、ピリピでは「ピリピがどこにあるか、略図を書いて示してください」など、それぞれ七つくらいの問題を書いたものが、月に2回送られて来るのです。聖書を何回も読んで、注解書とかも使って一つ一つの質問に答えを書いてレポート用紙2〜3枚を送ります。すると、その紙の裏にぎっしりと詳しい説明を書いてくださり、裏では足りなくて新しい紙が添えられていることも度々でした。
その頃はワープロとかもなかったので、全部自筆で、わたし一人でも信じられない量でしたから、それを多くの人にされていたと思うと、驚くばかりです。
途中からはギリシャ語の問題も加わり、それが十数年続いたのですから、今回改めて、ああ、こうして私は少しでも自分で聖書を読むことができるようになったのだと、感動しました。私のように根気も学力も足りない者がずっと続いたのは、イエス様がそのように導いてくださったとしか思えません。
そのおかげで、一緒に聖書を読みたいと言う人が与えられたとき、すぐ二人で読み始めました。すると、次々と仲間が与えられて、今も、ともかくみんなで読み続けています。誰が教えるのでもない、聖書の言葉に教えられ、力と平安を与えられ、主がここにおられる!と喜びに満たされます。これこそ、イエス様が毎回してくださることです。
私たちの願いは、集う一人一人が自分で聖書を読めるようになること。たとえ一人になっても、施設や病院に行くようになっても、聖書を開けば主が共にいてくださる喜びが満ちてくる!今日まで御言葉をもって導いてくださったイエス様は、天に召される日まで一人一人を導いてくださると信じています。
それともう一つ、日々の生活の中で、イエス様がしてくださることを話します。
若き日からずっと聖書を読む友も与えてくださり、イエス様がこんなに、何もかも良くしてくださるのだから、私も誰に対しても、精いっぱい誠実でありたいと願っています。なのに、そうでない、自分の足りなさを思い知らされることが度々あります。
誠実でない、真実が足りないということは、いつか相手に伝わりますし、そんなことでは何も良きものが生まれません。だから、そのことに気づく度に辛く、情けなく、苦しくなって、その度にそれこそ頭を床にすりつけて「助けてください」と祈ります。
すると、イエス様は必ず憐れんでくださり、私の不真実を通していよいよご自身の真実、全き愛を示し、清々しい喜びを与えてくださる。その度に、聖書のイエス様は今ここにおられると歌わずにはおられない、それが日々の生活でしてくださることです。以上です。
信仰への道 藤井文明
(徳島聖書キリスト集会)
私のキリスト教への、お導きの、お話しを、させていただきます。私は1933年の生まれです。私の生まれた2年前の1931年には満州事変が始まっており、1937年には支那事変、つまり中国との本格的な戦争が始まっていました。
小学校2年生、1941年の時には日本の真珠湾攻撃でアメリカとの戦争が、始まりました。そして1945年、8月15日、日本は連合軍に対して無条件降伏を宣言し、日本流にいえば終戦となりました。
終戦は、私が小学校6年生、1945年でした。私は、この世に生まれて、小学校6年生の時まで、ずーと日本は戦争をしていました。
この、長い戦争に私の父と9歳、年上の長兄が戦争にでておりました。お隣にも兵隊になって戦った方が、あっちこっち、に、いました。私の父、兄は戦争から無事、帰ってくることができましたが戦死をして、桐の箱に入って帰ってくる方もおりました。この様な不安な状態におかれていましたので神社(八幡様)やお寺(仏様)への信仰が盛んな時でした。
私の地域では、お大師さん信仰が盛んなところでした。小学生のころ出征兵士の武運長久を祈り、無事で元気で、手柄をたてて帰ってくる、ようにと2軒一
組になって片道6キロほどの道を歩いて札所に、お隣の子とお参りしたことを
覚えています。当時の日本は戦争に負けるとは誰も思っていなかったです。
いざとなったら、神仏の助けがあり、神風が吹いて日本を助けてくれると信じていました。このようなわけで日本が敗戦となると神社やお寺には無関心になりました。
以上が私を取り巻く戦時色に満ちた宗教や社会の状況でした。当時は大家族制でしたので爺さん、ばあさん、はどの家庭にもおりまして、挨拶や、嘘を、言うたり、人に、悪いことをすると、地獄にやられ、怖い閻魔さんの裁きを受けると、よく聞いていました。私は、このような仏教的律法で内なる良心(魂)の攻めを、時々受けていました。
それから、逃れようとしても、私の生まれた地域には、石仏や小さな祠(ほこら)などが、みちぶちに、ありまして、いつも、私を監視しているように思いました。私の子供心も、良心の攻めに、痛みを覚えることがあり、苦しい時もありました。
今から思えば、神様から私の罪を知らしめて、いただいた感謝すべき経験を、さしてもらったと思います。
それから時が経ちまして徳島県職員となって5年目の1957年、24歳のときに肺結核になり左の肺の手術をしました。大きな期待をもってした手術が失敗に終わり、私は、落ち込みました。
病院の個室で絶対安静で不安の日々でした。そのようなときに徳島療養所に伝道に来られていました服取 治先生(無教会)が病床訪問してくださりキリスト教信仰のお話をしてくれましたが、今も、はっきり覚えていますが、最後に大きな声で「あなたの罪は許された」と言ってくれました。 それを聞いた私は心の底から、今までの押さえつけられていた仏教的律法からの解放、本当はイエスキリストさまの十字架の贖罪のお恵みをいただき体全体が軽くなるような、大きな恵みをいただきました。今も、その時の感動は忘れることが、できません。
人生において、大きな苦難のときに、イエスキリストさまを、教えていただき、その信仰に導かれたことを感謝しています。
イエスキリストさまの十字架を信じて罪が許され、魂が平安になって、神様のお力を感じ、これ迄の人生で私を支えて下さったことを感謝しています。
アダム以来、人間に罪が入り、私どもは生きている間は罪びとです。日々、祈り、信仰の歩みを、多くの信仰の友と共に歩んでいきたいと思います。
私の妻は3年余り前に召されました。今は神様の下で、先に召された方たちと、ともに安らかな時を過ごしているものと思い感謝です。信じるものにはイエスさまと、ともに復活させて、いただけると約束されています。復活を信じて先に召された多くの方々や妻との再会を目指し希望をもって歩んでいきます。
目の中の丸太 小舘知子
(東京・春風学寮集会)
神様は、人を遣わして私に目の中の丸太を示してくださいました。昨年末のことです。その証をします。一連の証ですが、4つの証に分けてお話しします。
神様が遣わしてくださった人は、厄介な人でした。毎日電話をかけてきて中断しなければ2時間でも3時間でも話し続け、その話の内容は耳を覆いたくなるようなことが多く、また、反対意見を言うと攻撃されました。それでも、幼少期から聖書に触れていて聖書について知りたいと言うので誠心誠意答えていました。聖書の話なら時間を割いてもするべきだと思いましたし、私にとっても充実した時間です。私の中でその人(仮にユキノさんと呼びます)
ユキノさんの位置づけは、「私から福音を伝えるために神様が私に与えてくださった人」というものでした。
まず、証したい1つ目は、私がユキノさんとの電話を続けるように、神様が飴と鞭で導いてくださったことです。いくら福音を伝えるためとはいえ、毎日膨大な時間を取られるのは大変な負担でした。仕事が終わらなかったらどうしようと心配だったのです。それに対して神様は、はっきり目に見える形で電話を続けるよう示してくださいました。ユキノさんと話した日は仕事がどんどんはかどってあっという間に終わり、忙しいからと電話を断った日には仕事が全然進まなかったり、とんだハプニングで時間が無駄になったりしたのです。それが1回ではなく毎回です。神様は時間を支配し、自由自在なのだとわかりました。だから私は、時間ケチにならずに神様に従わなくてはならないと知りました。これが1つ目の証です。
2つ目の証に入ります。人を裁いてはならないということは耳にタコができるぐらい聞いていますが、私は実際にできた例がありません。ユキノさんに対してもそうです。私にしてみれば、ユキノさんの発する言葉はここに書くのもはばかられ、口にすることなど到底できないものなのです。このような話をし続けていれば魂が汚れてしまう、止めさせなければならないと思っていました。ですから、
「汚い言葉は使わない方がいいと思うよ」とか
「神様に従った方がいいよ」とか
「悪い思いが浮かんで来たらお祈りするといいよ」などと本気で言っていました。そして、とうとうある時、言ってはならないことを言ってしまいました。
「ユキノさんの言葉は、サタンの言葉みたい」と。
この時はひどいことを言ったと反省し、裁いてはならないという戒めに立ち返ったのでしたが、それでも裁く心は依然としてなくならず、嫌でも裁いてしまうので電話が苦行のように感じられました。それからしばらくして、また、ユキノさんが人を酷く罵った時に、
「人を裁いちゃだめだよ」と言ってしまったのです。それに対してユキノさんから
「小舘さんこそ裁いているじゃない。いつも私を裁いている」と言われてしまいました。これにはぐうの音も出ませんでした。「『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」という聖句が迫ってきました。私は愕然とし、目の前が真っ暗になりました。ユキノさんに福音を伝えたい、神様を信じて命を得てほしい、平安を得てほしいと願ってきたつもりなのに、全く逆のことをしてしまいました。
ユキノさんを助けるどころか責め立て、愛を説きながら愛と反対のことをしてしまいました。ユキノさんの言葉を通して罪に気づかせてくださったことが2つ目の証です。
続けて3つ目の証ですが、神様のタイミングが絶妙なのです。ユキノさんの助けになるためにはどうすればよいのか、ユキノさんの話をどのように受け止め、どのように対応すればよいのか、途方に暮れた私は手掛かりを求めて、翌日、書店で役に立ちそうな本を探しました。けれども見つからず、手ぶらで家に帰ると郵便受けに友人から1冊の本が送られて来ていました。『ゆるす愛のカウンセリング』という本でした。そこには、「愛とはゆるすという意味です。傷のある者、罪のある者・・・の相談にのるとき、『信じなくてはいけません。夜昼祈らなくてはいけません。』そういうことは言わないことです。」とありました。私がその日、書店で探していたのは正にこのような本でした。ユキノさんへの接し方が間違っていたことがよくわかりました。
神様は、私の求めに間髪入れずに応えてくださったのです。驚くべきことです。更に続けてもう1冊人から紹介された本があり、『たましいのケア』というのですが、これがドンピシャリでした。ホスピスのチャプレンである筆者がその経験から、病んでいる人や死にゆく人に対して導こう、解決してあげようとしてはいけない、寄り添うことが最大の力になるのだと確信をもって語っていました。
神様は、道に迷った私に2冊の本をもって導いてくださいました。これが3つ目の証です。1冊目のタイミングには本当に驚きました。神様でなくて誰がこのようなことをできるでしょう。
最後、4つ目の証になります。神様は、ユキノさんを遣わして私に罪を示してくださいました。人を裁くという根深い罪です。ユキノさんの話には耳を覆いたくなると申しましたが、そもそも「耳を覆いたい」ということ自体がすでに裁いている証拠です。私は、ユキノさんに教える立場であり、ユキノさんを変えたいと思っていました。自分は正しくユキノさんは悪いと考えているのです。裁きの罪は私に絡みついて振りほどくことができません。
けれども、祈りを通してこの罪が神様の光に照らされて神様の前に悔いることができたことに感謝しています。罪はそのままなのですが、どこか清々しいのです。これが今回もっとも証したい4つ目のことです。
罪あるまま赦されている平安です。この導きを通してユキノさんの位置づけは、「私を変えるために、神様が遣わしてくださった天使」に変わりました。呆れるほど傲慢だったと知りました。神様に罪を示されることは、なんという恵みでしょうか。哀れな罪人でありながら五月の風のようにさわやかな心地です。
梅雨空で晴れているときが少ないので、夜空を見る人は少ないと思われますが、ぜひ見てほしいと思うのは、夜の10時ころには、南東の空に、強く輝く星と、その左少し離れたところに輝くふたつの星です。
これは、明るいほうが木星、やや明るさが少ない星が土星です。木星、土星など名前は、小学校のときから知っているのですが、じっさいに夜空で見たことのある人は、意外なほど少ないのです。とくに、 土星を見たことのない人は相当多いと思われますので、この機会に、ぜひ木星と土星を見ることができるようにと願っています。この世で見えるものとして、もっとも永遠的であり、しかも光輝くものとして神様の永遠性や光を象徴的に私たちに示してくれています。
〇主日礼拝 …6月21日(日)より、主日礼拝は徳島聖書キリスト集会場で行なうようになりました。スカイプでの参加は従来どおり自由にできます。主日礼拝、夕拝、北島集会、海陽集会などは申込も従来のように申込ください。初めてのスカイプ参加希望の方は、吉村孝雄までメール、電話で連絡をしてください。
〇夕拝…毎月第一、第三、第四火曜日午後7時半〜9時。スカイプによる集会を継続しています。
〇家庭集会…
・北島集会…毎月第二、第四月曜日、午後1時〜。スカイプにて継続。
・海陽集会… 毎月第二火曜日午前10時〜11時半。スカイプにて継続。
〇天宝堂集会(綱野宅)と、小羊集会(鈴木宅)は3月以来、コロナのために中止していましたが、これらの集会だけに参加されている方々がおられることを考え、7月から再開しています。
・天宝堂集会 徳島市の天宝堂にて。毎月第二金曜日の午後8時〜9時半。(スカイプ参加は、貝出久美子または、数度勝茂宛申込ください。)
・小羊集会…徳島市の鈴木治療院にて。毎月第一月曜日の午後1時〜2時半。今月は7月6日に実施済。
(この集会にスカイプ参加希望者は、林晴美宛申込ください。)
キリストの力は、弱さの中で十分にあらわれる。
(Uコリント12の9より)