いのちの水 2023年11月号 第753号

今や彼らに大混乱が起こる。

…しかし私は主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。

…たとえ 闇の中に座っていても、主こそわが光。 (ミカ書7の8

 

目次

・ 平和への道

・自分の命、永遠の命

・代々木公園通路でのチャペルでのこと 浅井慎也

・主に感謝せよ  土屋 聡

・報告とお知らせ

 祈りの友 合同集会

 瀬棚聖書集会

 北田CD 「主の平和」

集会案内

  

リストボタン平和への道

 

 二千年前にキリストが言われた言葉、それはエルサレムの町の崩壊を預言し、泣き悲しんだときのものである。

 

…イエスが、エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために涙を流して(泣いて)言われた。

 もし、この日に、平和への道をわきまえていたなら…

しかし、今はお前はそれが見えない。

 やがて時がきて、敵が周りに砦を築き、取り巻いて、四方から攻め寄せ、町とそこに住む人々らを、地にたたきつけ、町の中の(石造りの家の)石を残らず崩してしまうであろう。

 それは神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。(ルカ福音書194144より)

 

 神の訪れてくださる時、それはキリストの訪れを意味しており、そのキリストの存在とそのメッセージがいかに重要であるかをわきまえなかったからだと言われている。

 キリストこそは、愛と真実の神の本質を持って地上に遣わされた万民の救い主であり、弱き者、失われた者を一人も無視することなく顧みてくださる御方である。それは地上生活が安全で何の苦難もないということではない。完全な幸いを持っておられたキリストご自身、この世の悪の力で最終的には殺されてしまった。しかし、そのキリストは愛かつ全能の神から見捨てられたのではなかった。復活して神のみもとにある。同様に、現実の世でいかに病気や障がい、また災害や戦争で傷ついたり死んだりしても、神がその人たちを愛していなかったということにはならない。真の永遠に続くのは、この目に見える世界ではない。見えない神の国の世界こそ、いかなるこの世の変動、混乱にも犯されない世界である。

 そのキリストこそ、そうした世界の存在を全身をもって人々に知らせ、人類全体が基準とすべき大いなる永遠の基準であることを命をかけて示されたのだった。

 キリストは、弱き者に直接に触れ、その差別され踏みつけられた者に神の愛と力をあらわして彼らを現実に癒し、また神への感謝に生きる生となるようにされた方である。

 そのキリストが七〇〇年以上も昔から、預言されていたとおりに世にこられて、人々が自分たちが本当の神様を顧みず、預言者たちを迫害してきた過去の道から方向転換し、唯一の神のみを信じ、ただそのイエスを救い主(メシア)として信じて受けいれるだけで、神はエルサレムの町と住民を救いだしてくださるにもかかわらず、人々はそのイエスを拒み、最も恐ろしく、苦しい刑罰たる十字架の処刑につながった。

 現代の世界も、このイエスが二千年前に言われた言葉があてはまる。

 

…平和への道をわきまえていたなら…しかし、今はお前はそれが見えない。

 

 そしてこのことは、特定の時代の国家、民族だけにあてはまるのでなく、世界の多くの、そして日本の圧倒的多数の人々の心には、イエスの言われた「平和への道」は見えていない。日本ではわずかに一%の人しか、キリストを救い主と信じていないからである。

 平和への道、それはキリストの道である。キリストを信じ、活けるキリストを魂のうちに受けいれることである。弱きを顧み、あらゆる悪や偽りを神の力によって退けて、神とキリストの命(永遠の命)を受けて、聖霊に導かれて生きることである。

 たった一人の弱き者をも顧みる、その心こそ、神は愛なりという言葉にふさわしいが、戦争となると、そうした心と正反対の心情となってしまう。そんな一人の命なぞ失われるのは当然だと言われてしまう。

 キリストの精神を受けいれないときにはどうなるか。それをイエスの言葉が暗示している。

 

… やがて時がきて、敵が周りに砦を築き、四方に砦を築き…四方から攻め寄せ…

 

 こうした言葉は、現在のウクライナやガザのことを思い起こさせるものがある。

 武力に対して武力を用いることーそれが現在の双方の大いなる悲劇を生んでいる。じっさいに攻め寄せることは双方に生じて、そこで弱き人々、こどもや老人、病人、障がい者といった人々は逃げていくことも難しく、難民となって何らかの支えを国連や周辺の国から部分的を受けることがあっても、きわめて多数の人たちはそれまでの生活を破壊され、戦火に駆り出された人たちは多くが死傷し、その本人だけでなく家族にも深刻な打撃を与えつつある。

 これもみな、愛と真実の神が地上に遣わしたキリストの精神を受けとらずに、人間とその集合体である民族や国家が、武力を用いて解決しようとしているからである。

 日本においても、憲法9条は、他国の人も自国の人もそうした大量殺人に加わらない、殺人は最大の悪であり、戦争は大量殺人ゆえに最大の悪事であるからーという精神で太平洋戦争の甚大な悲劇を二度と繰り返さないという精神で制定されたにもかかわらず、次第にその精神を破り、アメリカとの一種の軍事同盟(安保条約)にあたるものに力を入れ、軍備もこのところ急激に増大させている。

 こうした武力によって 国を守る、自衛のためだ、というが、ウクライナ、ロシアにしてもガザ、イスラエルにしても、双方に多大の死傷者も出て、その本人や家族も何にも変えがたい損失となっている。さらに 大量の人々が国外に難民として流出していく。そうしたことは、本当に国を守っているということになるだろうか。

 そうでなく、国の中心要素である国民の大いなる死傷、流出し、ウクライナでは、とくに南部地域では人々の住居たるアパートなどの破壊から、発電所や水道など生きるに不可欠な施設の破壊、そして命を支える広大な農地が地雷が数知れず埋め込まれ その除去に何十年かかるかわからない状況となっている。こんな悲劇的な状況が今後いつまで続くかわからない、それでも軍備は国民を守っているといえるのか、全然守ってはいないということになる。

 軍備増強はかつての日本でも、他国ーとくに中国や朝鮮半島、さらに東南アジアの国々に破壊的な爆撃をし、各地での戦闘によって数千万というおびただしい人々を死傷させ、日本も東京の大空襲だけでなく、全国各地で空襲ありたくさんの死傷者を生み出し、さらに原爆の投下、そしてソ連参戦で満州地域の数知れない人たちが残されて悲惨な運命となった。

 こうしたことも、みな国を守るという言葉での軍事作戦の増大によって生じていった。徹底的に破壊されたとくに都市部など、どこに国を守ったということがあろうか。

 それで深く思い知ったからこそ、いかなる戦争をもしないという精神が憲法9条に刻まれたのだった。

 イエスが、二千年前にエルサレムの町を見つめ、その前途の運命が悲惨なものになることを見抜いたゆえに、涙を流して悲しんだこと、「あなた方は平和の道を知らない」ということは、現代まさにそのことを思い知らされつつある。

 私たちは、キリストの「剣を取るものは剣によって滅ぶ」という短いひと言に 戦争の悪たる本質が込められているのを深く知って、あらゆる武力による大量殺傷という何にもまして重大な罪を犯さないようにすること、テレビやネットでの人気者とか政治家、評論家などの意見でなく、長い数千年の歴史を通してその真理が証しされてきた聖書の真理、キリストの言葉の真理を何よりも基準とすることが求められている。

 


 

リストボタン自分の命と永遠の命

 

 誰でも、一番大切なものは、命だと考える。命は、いかなる権力者も、またいかに大金を投じても一度失われたら二度と帰らない。それゆえに、私たちが与えられている命は何にも代えがたいというのは子供でもわかる当然のことだと思う。

 しかし、次のイエスのことばには、その基本的な常識を覆すものである。

 

…自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。

      ヨハネ福音書1225

 

「自分の命を憎む」とは、どういうことか。命を守るために私たちの衣食住は一番大切なことになり、政治の目的も国民の命、財産…を守ることにある、ともよく言われるし、医療もまたさまざまの施設ー電気、水道、ガス…等々、また福祉、教育も、そして軍事力による防衛も必要だという議論もすべて命を守るためになされている。命は大切であることは議論の余地もない。

 にもかかわらず、なぜ、自分の命を憎む者が、永遠の命に至る、などとイエスが話されたのか。

 イエスのことばとして聖書に記されているのは、それ以外の多くの語られたこと、なされたことがあるが、それらの中から神からの聖なる霊に導かれて選ばれて書き残されたものである。

 たとえば、イエスは、復活して40日にわたって使徒たちに現れ、神の国について話した。そのような長期にわたって語られたのはどのようなことであったのか、それは私たちにはとても関心のあることだが、使徒言行録にはそれら多数の語られたことはただ一つを残して全て書かれていない。

 そのただ一つのこととは、「前に私から聞いていた、神が約束したものを待ちなさい。あなた方は水の洗礼ではなく、聖霊による洗礼が与えられる」(使徒言行録1の5)ということであった。

 一般的には、キリスト教徒になるためには、水の洗礼は不可欠なように思われているが、このイエスの言葉は、そうした水の洗礼を授けるために来たのでなく、聖霊を授けるためなのだということが明白である。

 しかも、このことは、水の洗礼を初めて授けていた洗礼のヨハネという人物が、「私は悔い改めに導くために、あなた方に水で洗礼を授けているが、私の後から来る方(イエス)は、聖霊と火であなた方に聖霊を授ける。」(マタイ3の11

 と言われている。

 (「火」が付加されているのは、悪の力を退け、滅ぼす神の力を火で象徴している)

 聖霊が与えられると、すべてその聖霊が教えるということは次のように約束されている。

 …真理の霊(聖霊)が与えられると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ1613

 …聖霊があなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ1426

 それゆえに、復活したイエスが40日間も、神の国について多く話したその内容もあえて、記されていないのである。聖霊が与えられること、それが最も重要だからである。

 じっさい、イエスが捕らわれたとき、弟子の筆頭のようなペテロさえ、逃げてしまい、イエスなど知らないと強く三度も否定したことが記されている。3年間もイエスの教えを繰り返し聞き、しかもイエスの行なったさまざまの奇跡にも接してきたにもかかわらず、そのような弱き本質を露呈したのだった。

 そのようなペテロたち弟子が、殺されることをも恐れないようになり、またパウロにおいては、もう一人の弟子とともに牢獄にいれられたときでさえ、神への讃美を歌ったほどに変えられたのは(使徒1625)、イエスの教えとか奇跡を見たからでなく、聖霊が豊かに注がれたからであり、以後の世界にキリスト教の福音が広がっていったのも、その聖霊の驚くべき力による。

 このことは、ヨハネ福音書の最後にも、「この福音書に書かれたこと以外に、イエスは弟子たちに多くのしるし(奇跡)をなさったが、それはこの書物に書かれていない。(ヨハネ2030

…その一つ一つを書くなら、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。(同2125

 などと繰り返し記されている。

  こうした聖霊の根本的な重要性は、永遠の命の重要性と深くかかわっている。永遠の命とは聖霊を受けることであるからである。

 それゆえに、最初に引用したイエスの言葉は、「永遠の命」ということが、いかに大切であるか。それを強調するために「自分の命を憎む」とさえ、書かれているのである。

  その自分の命ー生物としての命ははかなく消える。小さな銃弾一発で消えるし、事故、災害でも一瞬にして失われるほどもろいものである。しかもせいぜい百年でほとんどの人の命は終わる。

 これに対して、「永遠の命」は消えない。いかなる事故、災害、事件などによっても永遠の命は断たれることはない。

 そのことを目で見えるかたちで証しされたのが、キリストが十字架で殺害され、三日目に復活した出来事だった。

 永遠の命ーそれは単にいつまでもあるという時間的なものでなく、神の命であり、復活していまも生きてはたらいているキリストの命そのものである。

 その命は、神の命であり、神は無限の内容をもってゆえに、その永遠の命も言葉ではとうてい現せない無限の意味をもっている。愛、真実、正義、全能の力、永遠性、清さ、美しさ…等々すべてをもっているのが、神の命であり、永遠の命と言われているものが含んでいる実体である。

 私たちの魂の根源にはそうしたもののごく一部がすでに刻まれているゆえに、愛や真実、また自然の美などにはだれもがその程度の差はあれ、それに反応するようになっている。聖書の最初の部分に、「神はご自分に似せて人を創造した」(創世記1の26)と記されている通りである。

 しかし、残念なことに、人間にはそうした神のかたちを与えられていながら、他方自分中心という動物にも共通している本性をもっているために、一時的な快楽を求め、また、自分が人からほめられるほど力あるのだと誇示したいために、他者を攻撃したり憎む…等々の罪により神のかたちが失われしまう。

 そのような人間を罪から救いだし、滅びない存在ー永遠の命を持ったものに導くためにキリストはこられたのだった。 

 わたしたちに今、生物として与えられている命よりも、無限に価値があるのが永遠の命である。だから、今の自分の命に執着してはいけないということを強調するために、こうした強い表現がなされている。

 この永遠の命の重要性は、ヨハネ福音書の最初から記されている。

 人としてうまれる前のキリストは、ロゴスというギリシャ語で表現されている。「はじめにロゴスがあった。。人間として生まれる前のイエスは神であった。万物はこのロゴスなるイエスによって創造された。その中に命があった。」そのように、ヨハネ福音書の冒頭においても、この永遠の命のことが強調されており、その福音書の最後にも、強調されていることからも、いかにこの永遠の命ということが重要とされているかがわかる。

…「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ2031

 このように、「永遠の命」を人が受けるために福音書は書かれたのがはっきりとわかる。

 ただ求めるだけで万人に与えられる最も価値あるものー永遠の命の重要性に比べて、普通の命は、だれもが知っているように実に簡単に失われ、またある人は生まれつき歩くこともできず、病気での一生だったり、目が見えなかったり…等々であるが、永遠の命はそうした弱さも差別もない。

 

 一般的には、常識と逆のように見える「自分の命を憎む」という表現に似た言葉も他の箇所でされている。

 

…わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。(マタイ1037

…もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ福音書1426

 

 このような言葉もとても普通には受けいれられないと思われる。

 イエスは私たちがまず何を求めるべきかについて、「まず神の国と神の義を求めよ」と言われた。

 この言葉も、まず家族という人間の血縁の結びつきや人間的な好悪の感情で求めるのでなくーそれらは簡単に憎しみに変じてしまうことも多いゆえにー神の国、言い換えると聖霊を求め、与えられるなら、肉親への特別な思いも他の弱き人への思いと変わらぬものとなり神のご意志を行うかどうかで、深くつながるようになる。

…だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ1250

 人間同士の真実な結びつきは、神様の御心、真実と愛のご意志を求め、それを神に導かれて行なうところにあると言われた。普通は、人間の血縁や好き嫌いの感情でその関係が成り立っているのとは、根本的な違いである。

 イエスが語られたことは、常に究極的なあり方であり、はるか彼方の高き峰を仰ぎ見るようなところがある。しかし、そのような高みはいかにしても現実にはほとんど実行できなくとも、ただ仰ぎ見ることによって、力が与えられて少しずつでも実行できるように導いてくださる。

…地の果のすべての人々よ、私を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ4522

 

 神を信じて仰ぎ見る、それだけで与えられる魂の救いを受けて、人間的なしがらみ、罪から脱却してはじめて、人は、自分の好き嫌いとか、かつての罪ゆえに許さないといった自然の感情から離れていくことができる。

 なお、こうしたイエスの極端とも思えるような表現はほかにもある。

…わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。(マタイ18の6〜10

 

 このような表現はあまりにも通常の考え方とかけ離れているために、驚かされる。しかし、これも象徴的な表現であって、弱き者、小さきものをいかに神が大切にしておられるかを示すものである。

 それに対して、戦争というのは、力も弱き小さきもの、子供や女性、老人、病者、障がい者といった人たちをまず踏みつけていき、千人、万人が傷つき、死ぬことになろうとも、多くの犠牲者を出していかねば勝利できない。そこにいかに戦争が自衛という名であろうとも、愛なる神の御心とはかけ離れたものであるかを如実に示している。

 神が小さきものを大切にされることは、次のような言葉でも示されている。

 

……これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。           (マタイ1810

 イエスの意外な言葉は、次のも同様である。

 

…もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てよ。

両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命(永遠の命)を受けるのがよい。

 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てよ。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命を受ける方がよい。」

 

 手足が罪にかかわることをしたからといってその手足を切っても罪を犯さないようにはならない。罪は心で犯し、それが行動となるからである。目をえぐりだして捨てても、罪そのものを抑止することはない。

 ここで言われていることは、たとえ目がなくなり、手足を失うことがあろうとも、永遠の命が与えられるならそれこそが大いなる祝福なのだということを指し示している。

 それゆえに、罪ー神の愛と真実に反することを思い、行なうことがいかに本当の生き方に反するのか、そのようなことは必ず何らかのかたちで報いを受けることになる。

 まず、そのような罪深い状態のまま生きていくことは、神の愛や真実に背を向けることであるゆえに、そのような人の魂は必ず清い心や愛、真実を失っていき、そこから深い平安も清いものに感動する心も枯れていく。それが裁きである。イエスが、信じないものはすでに裁かれている、と言ったのはそのようなことを指している。

 とくに罪を犯したわけではないけれど、あえて神はその深い御計画の一端として、一部の人を生まれつき、あるいは人生の途中で目が見えないようにしたり、耳がきこえないようにしたり、あるいは歩けないようにすることがある。病弱な生まれで生涯その弱さをになっていく人もいる。

 神はそうした特別な苦しみや悲しみをあえて一部の人に負わせ、それによってその人自身を神と深く結びつけ、さらにはその人かかわる周囲の人にも神の救いを証しさせるため、神の栄光(力、愛、真実…)を現すために導かれるということがある。

 わたしたちには明日のこともわからない。戦争も突然起こった。災害もまた、原発の爆発、コロナのパンデミック、何も予想できなかった。明日のことは人間にはわからない。だから、神とイエスにしっかりと結びつき、そのうえで肉親、隣人と関わっていく。

 肉親との自然的な関りに引っ張られて真理を失うのでなく、聖霊によって自然的な愛憎、その引力を断ち切ったのちに、主の聖霊の力により新たなつながりが与えられる。それは、冷たくするのではなく、そのうえで、神の愛を受けてその愛を持って肉親や一般の人々とも関わっていくことである。

 イエスは、自分の命を憎むのでなければ、永遠の命は与えられないとまで言われた。その意味するところは、自然のままの情愛から決別し、真の愛たる神と結びつきそのうえで、肉親や親族、またその他の人々と関わりあうということである。

 そのように自然の情愛と聖霊によって決別した者は、はじめてイエスに仕え、従っていくことができる。長い歴史の中では、イエスに仕えるというだけで、逮捕され、殺されることもあった。しかしとくに選ばれて豊かに聖霊を与えられ、そうした厳しい道を歩んでいった人たちもいた。そうした人は特別に主の証し人となってのちの歴史にも刻まれていった。

 ここで引用した個所の最初に、ギリシア人が、ぜひイエスに会いたいと、イエスの弟子に頼んで言づけたとある。

 それを聞いてイエスが言われたのは、あえてすぐに会おうとは言わず、一粒の麦は死んではじめて多くの実を結ぶというご自身の十字架での死を象徴的にあらわすたとえを話され、その延長上で、最初に述べた言葉「自分の命を愛する者は、命を失う。しかし、自分の命を憎む者は、永遠の命に至る。」と言われたのだった。

 そして、単に会うことだけを求めるのでなく、イエスと出逢って後、さらにそのイエスに仕え、さらにイエスに従っていくという道が続いていることを教えられた。

 そしてその従う道の先には、殺されるということさえ有りうるのを暗示し、みずから十字架にかかってその範となられた。

 イエスの十字架のゆえに、救われた人が、それぞれの立場で、祈り、永遠の命をうけて従っていく。そのような歩みは、たとえ地上の命は失われようとも、永遠の命という朽ちることなき祝福を与えられることを指し示している。

 (主日礼拝講話より 11月5日 ヨハネ12章25〜26 参加者 会場8名 オンライン47名) 

 


 

リストボタン主日礼拝  前講より

 

〇代々木公園通路チャペルでのこと   浅井 慎也

 代々木公園通路チャペルに毎週参加するようになって、3年半くらいが経ちます。

プログラムは、@挨拶、A賛美、B聖書のメッセージ、Cスモールグループ、Dその後に希望者に食料、飲料の配布を行っています。

 いまの自分の役割は、賛美のためのマイクや譜面台、スピーカーなどの準備、また当日の賛美の歌詞カードを作って配ったりしています。

 歌詞カードには、賛美歌の歌詞を解説する伝道的なメッセージを書いてお渡しするようにしています。

午前7時30分から始まり、ぼくが会場につくのが、午前6時40分くらいです、そのころには、もうたくさんの人が来ています。

 自分一人の力では、できることが限られていますが、みんなで協力することにより、飲食物を配ったり、スモールグループで、対話したり、色々と充実するのがすばらしいと思っています。

 ホームレスの方や、生活困窮者の方も参加されています。

 7時30分〜8時30分がプログラムの時間ですが、その後も残って、一緒に朝食をとるようにしています。

場合によっては、賛美をしたりしています。

 海外からの奉仕者や、色々な教会の方が、奉仕にきて成立しています。

そのおかげで、色々な友人を与えられていることを心から感謝しています。

 ウクレレやギターを楽器として練習していますが、それをするための音感を成長させるソルフェージュというのも継続してやっています。

 音感が成長することで、楽譜を覚えやすくなったりします。

 いつかは、他の人にも、教えられるようにと思って、練習を続けています。

 法の改正が進んで、野外生活者の数自体は減っていると聞きます。

しかし、貧困ビジネスなど、新しい問題も起きているようです。

これは、法による限界、法がよくても人々の心がよくならないと、根本的に問題は解決しないことの良い例になっていると思います。

人々の心をよくするのが聖書の福音であると思います。

また、それを伝えるのが自分の役割と自覚をもっています。

 NHKの心の時代で、大阪の西成区で、教会をしている西田好子牧師先生が10月29日に取り上げられました。録音も自分はできました。

西田先生の教会には、ホームレスだった方など、様々なバックグラウンドを持った方がおられます。

僕も大阪に出張に行ったときに一泊しています。

関心がある方は僕に連絡をください。(神奈川県横浜市)

 


リストボタン 「主に感謝せよ」

詩篇 107より     土屋 聡 

「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」

1 始めに

 猛暑日が続く中、2週間一滴も雨が降らず、畑の土はからからに乾いてしまい、特に水を欲しがる里芋は葉が枯れ始めてきました。このままでは枯れてしまうので、この猛暑の中、水やりという重労働を行うことにしました。猛暑の昼間には外に出られないので、朝の涼しい内に行うことにしました。

 畑の敷地には水道がありません。山の斜面を利用した畑なので傾斜があり、坂道を100m位ほどの下りきった所にある地下水を汲んで、20gのポリタンク2本と如雨露を一輪車に載せて今度は里芋の畝まで登り坂を100m運びます。そしてそのポリタンクや如雨露の水を畝の間に撒くことです。同じことを繰り返し4回ほど行って一通り水をやり終えたところで一休みしました。その頃には朝日が昇ってきて、じりじりと照りつけるのでとても暑い中での作業となってしまいました。汗が噴き出して全身汗でぐっしょりと濡れてからの一休みです。ちょうど、畑の隅に木陰があったので、そこに腰を下ろして休みました。

 

2 木陰で休んで

 木陰は照りつける日射しを遮り、暑さの中で仕事をしたあとのわたしには涼しくてとても良い心地がして幸せを感じました。木陰を通りぬけていく風も涼しくて汗で濡れた体を優しく包んでくれます。心地よく休んでいて「ハッ」と気づいたことがありました。それは、神様がわたしのために木陰を用意して下さっていたと思えたのです。主の働きに気づいたわたしの心には自然に感謝の気持ちが湧いてきました。普段気づかないでいた木陰が、神様の御翼の陰の下に私をかばってくれているように感じられたのでした。「暑さを遮り、汗をかいたわたしの体に涼しい木陰とそよ風をプレゼントして下さり、神様、ありがとうございます」と感謝しました。

 

3 翼を避け所として下さる主(聖書)

   聖書に神様が翼の陰を避けところとして下さることが書かれています。

詩篇91の4には、「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大楯、小楯。」

詩篇17の8には「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください。」とあります。暑さや寒さ、大風や洪水なども突然起こると、命に関わります。人間関係の中で言葉や態度や暴力によって心や体が傷つくこともあります。そのような私たちの苦しみや悲しみの時に神様はわたしたちを瞳のように敏感に感じて、御翼の陰に隠してくださり、守ってくださるというのです。私は御言葉から神様の慈しみを感じて、感謝の心が湧いてきます。

 

4 人間は弱い

  近年の猛暑は、人間の営みによる地球の温暖化の原因であろうと言われています。そして猛暑だけではなく、台風や洪水、干ばつ、森林火災など自然災害による被害が世界中のあちこちで起こり、規模も大きくなりつつあります。明らかに地球が病んでいると感じられます。

50年前から温室効果ガスの増加が温暖化の原因であると警鐘を鳴らされてきたのに、経済成長を優先させてきた人間の罪を感じます。そして人間の高ぶりに対して、神様の裁きが示されているように感じるのです。

 人間はとても弱い生き物です。神様のお守り無しには生きていくことは出来ません。人間は神様の前に低くなり、謙遜な者となって神様が造ってくださった暮らしやすい地球環境に感謝し、大事にしていかなくては生きていけない弱い生き物だと思っています。

 

5 主に感謝して

 私はガスや電気、ガソリンなどエネルギーを使うことを少しでも減らすこと、ゴミを減らすことなど、今、自分の出来ることをして、少しでも神様が造ってくださった地球に感謝して大事にしていきたい。猛暑の中でも木陰という御翼を広げて守ってくださろうとしている神様に感謝して、わたしは謙遜に生きていきたいと思っています。 

 


リストボタンお知らせ

 

〇第50回北海道瀬棚聖書集会

今年の主題…死と永遠の命

日時  2023年1122 () 20:00 〜。19時半から接続開始

~1124日(金)15時終了

[方法]

Skypeを利用したオンライン集会 [主な内容】

1日目 開会礼拝 20:00 21:00  礼拝の後自己紹介

2日目 第1講

10:15 11:30 吉村孝雄

昼食後 第2

12:4013:40

金鍾九(日本基督教団 利別教会牧師)

証しと感話の時間

感話 13:50 14:30

参加者による証し

14:40 15:30

 

3日目 特別講話

10:30 12:00  吉村孝雄

昼食後 感話

13:00 14:30  閉会礼拝

14:35 15:00  会費は不要

 


リストボタン報告

 

〇祈りの友合同集会報告

十月九日 休日

第十一回  祈りの友合同集会

徳島聖書キリスト集会場とオンライン(スカイプ)

参加者 会場12名 スカイプ42名 電話2名 合計56

1. 開会礼拝 (司会 貝出)

・讃美「天の神 祈ります」讃美歌21-354

・開会の祈り 司会者

・開会挨拶  吉村 孝雄

・新規入会者の感話(1)

 富永 国比古(福島)

・祈りに関するメッセージ @西澤 正文(静岡)「罪の女の心に思う」(ヨハネ8111

A清水 勝 (大阪) 「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ613

B那須 佳子(大阪) 「主イエスの祈り『御名によって彼らを守ってください。… 私の喜びが彼らに満ちあふれるようになるために』」ヨハネ17章より

C香西 信(岡山)ペテロの救済力 (使徒言行録3:6

D秀村 弦一郎(福岡)「十字架上の祈り」 ルカ2334

・讃美「主の平和」世界の讃美(1)27

3. 昼食、交流の時間

4. 自己紹介と近況報告 1人2分以内 (司会 林晴美)

 ・最初に、新規入会者の感話(その2)関本 廣子(徳島)、河津 小夜子(福岡)5.15時より  午後三時の祈り(全員) (司会 土屋 聡)

・賛美「祈りの友の歌」

6. 閉会

閉会の祈り(古川 静)

・讃美「神共にいまして」新聖歌508      ・祝祷 

 

〇北田康広CD「主の平和」

 北田康広さんのこのCDは、現在、ますます軍備の競争が加熱しつつあり、キリスト者としてとくに、祈りが求められる状況にあります。このCDからは「主の平和」を求める祈りの心が伝わってきます。

 B5版28頁の詳しい解説書付きで、希望の方は左記の吉村まで申込ください。このCDは、定価は付けてなくて、自由協力費です。 


 

リストボタン集会案内

 

〇主日礼拝 毎週日曜日午前1030分〜1230分。集会場とオンライン。

〇夕拝 毎月第一、第三火曜日夜730分〜9

〇家庭集会は・北島集会 第四火曜日13時〜、第二月曜日13時〜

・天宝堂集会 第二金曜日20時〜

・海陽集会 第二火曜日10時〜。これらについては左記の吉村まで。