いのちの水 2023年 7月号 第749号
私の言葉に耳を傾けるなら、あなたの平和は川のように、 正義は海の波のようになる。(イザヤ書48の18) |
目次
神を知る、キリストを知る、ということは、一見簡単なことのように見える。何らかの辞典で調べるとすぐにわかるーと思われていることが多い。
とくに最近では従来のウィキペディアやその他の多様なネット上でも検索できる多様な辞典類で調べるだけでなく、チャットGPTのような新たな手段が急速に用いられて、あちこち調べずとも、それらのことを要領よくまとめて出してくれるという状況である。
しかし、そうしたことがいくら進んでも、神を知ること、キリストを知ることがどういうことであるかはわからない。
他方、本当にキリストによって魂の救いを経験して生きてきた人には、神とキリストを知ることの核心は、コンピュータに関わるそうしたこととは一切関係なく、はっきりとわかっていることである。
救いの実感、救われた幸い、ということは決して数値化したり、言葉でどんなに説明を重ねても達することはできない。
聖書には、救いという根本的な真理は、「この世の知恵」では分からないといったことは、現在いっそう重要な指摘であったことが浮かび上がってきている。
聖書でいう真理ー罪の赦しや活けるキリストが私たちの内に住んでくださっているという平安は、言葉で表現できることでなく、霊的な実感、深い慰めや絶望的なときの立ち上がる力といったことは、研究や学問では与えられることはない。
当時の聖書学者たちも、また、後に使徒となったパウロも学問があったが、キリストの真理はわからなかったというだけでなく、かえってキリストやキリスト者を迫害して殺そうとまでしたのだった。
使徒パウロ自身、次ぎのように述べている。
…世は自分の知恵で神を知ることができなかった。
そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとされた。
(Tコリント 1の21)
これはわかりにくい表現である。宣教という愚かな手段とは、どういう意味か。
この世の人々は、思索、研究、生まれつきの能力…等々によって究極的な愛と真実の存在の神を知ることはできなかった。
それゆえ、神は、そうした一般の研究や思索などによるのでなく、キリストが復活したとか、十字架のキリストの死によって私たちの罪があがなわれたーそれを信じるだけで魂の救いを与えられる…こうした福音は、この世の人々には愚かなことだと思われているが、その福音によって救おうとされたのである。
そんな簡単なことで究極的な存在、すべての根源の神などわかるはずがない、と思い込んでいる人たちには、復活や十字架という福音の核心は、愚かなつまらないことに見えるということなのである。
私自身、中学から高校にかけて、日本の文学の主要な人々、漱石、?外、芥川、藤村、啄木…等々を読んできたが、まったく魂の平安や未来への洞察などは与えられなかった。
さらに、この世界は今後どうなるのか、また絶えず発達してやまない科学技術が、人間の自分中心の考え、目先の利益を考え、また支配や権力をどこまでも追求する人間の本性によって彼らの欲望を満たすために用いていくことによって、この世界が滅ぼされるのではないのか、さらに最終的に太陽の寿命が尽きるころまでに(約50億年後)、太陽は膨張し、そのために地球の水分は蒸発し、生物は滅ぶ…、あるいは地球そのものも太陽に呑み込まれて消滅する等々。
こうした根源的な問題に、そうした日本の代表的文学も何の役にたたなくて、ますます私の心には将来の世界の闇がふかくたちこめてくる思いだった。
こうした日本の文学者たちは、キリストの復活とか十字架のあがないなどは、「愚かなこと」とみなして、取り扱うこともなかったから、それらを読んでも、キリストの福音の真理にはまったく触れることはなかった。
神は、学問やこの世の博学、知識でなく、「福音宣教という愚かな手段」を救いのために用いた、ということは、私自身の経験からもよくわかる。
私自身、その愚かに見える手段ーキリストの十字架による罪の赦しと、復活という真理によって、ただそれだけが、一冊のキリスト教に関する本を古書店で立ち読みしたときに、閃くように私の魂の深いところに入ってきたのだった。それ以来、五〇年を過ぎてもその真理の光は消えることはない。
世界もかつてないような困難の様相を呈してきている現状にあって、いっそうその真理の輝きは増しているのを実感している。
イエスの弟子たちは、直接にイエスから教えを学んだにもかかわらず、真理を知ることにはならなかった。家族や職業をも捨てて、生活のすべてをイエスに従っていくという、当時としては考えられないような大きな転換をした人たちだった。
イエスから直接に教えを受けるだけでなく、数々の驚くべき奇跡をも目の当たりにして、3年間イエスに従ってきた。
それにもかかわらず、弟子の代表的人物であったペテロは、キリストの福音の真理を全く理解することはできなかった。
…この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に復活することを、弟子たちに示しはじめられた。
すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ(*)、「主よ、とんでもない。そんなことがあってはならない。」といった。
イエスは振り向いて、ペテロに言った、「サタンよ、引きさがれ。私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16の21〜23)
(*)いさめる と訳された原語は、エピティマオー(epitimao) であり、この語は、次ぎのように、悪霊を追い出すときにも用いられ 「叱る、叱責する」と訳される言葉で、いましめる、というより強いニュアンスの言葉である。
・…イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らを叱った (マタイ19の13)
・…イエスがその子を叱ると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時にいやされた。 (マタイ17の18)
・…なぜ恐れるのか、信仰の薄い者たちよ。」イエスは、起き上がって、風と湖を叱りつけられると、大なぎになった。(マタイ8の26)
イエスが、まもなく自分は、捕らえられ殺されてしまう。しかし三日目には復活するということを聞いて、ペテロは、復活などということは考えることもしなかったから 捕らえられて処刑されるーそんなことは世を救うメシアに決してあってはならない、とイエスを叱るということまでした。
現在においても、幼少時の教育から、大学教育に至るまで、その教育は圧倒的に、さまざまのことを知る ということに力点がおかれている。成績は点数で計れるものだけが重要視される。スポーツなどの課外活動においても、その試合での成績や表彰の回数などが重んじられる。単に部活動していたということだけでは、評価されない。
しかし、この世界のことを本当に知る ということは、成績、点数で表されることではできない。成績や点数で表すことのできない目に見えない心の世界において目に見えない力を受け、その力あるものと交流し、それによって確信を与えられ、苦難の折りにも打ち倒されないで、新たに立ち上がる力を与えられるーそのようなことが目に見えない世界のことを知るということである。
聖書はこうした目に見えない世界の神の働きー愛や力、活ける導きといったことがその根底に流れている。
創世記エデンの園の中央にある善悪の木(創世記2の17)と訳されてきたものの本体は、「道徳的善悪を知ったら滅ぶ」という意味ではなく、原語の トーブとラァ はさまざまのことー都合のよいと思われること、便利と思うこと、自分の欲望の実現に力となること、逆に自分が苦しむようなこと、損だと思うようなことを知って、人間の欲望に関して知ること中心に生きていくことを意味している。
そうしたさまざまのことを人間の考えや知識で「知る」ことを第一に追求していくと、その末路は死、滅びに至るというのである。
そもそも神は、人間に道徳的な善悪を知らせるために、さまざまのことを生じさせている。
悪しきことをなし続ける時には、適切な裁き、苦難を与え、正義な愛や真実の存在たる神に立ち帰るときには、赦し、その平安を与えて、善きことに目覚めさせようとされる。
神を知るとは、すなわち究極的な善を知ることにほかならない。
それゆえに、この「善悪の木」と訳された木が、そうした善悪のことを知ったら滅びる、ということであり得ないのはすぐにわかる。
それゆえ、この創世記の言葉は、原発や核兵器の恐怖、またAI関係の技術が今後もたらすであろう災いをもすべて見抜いた上での言葉であったということができる。
人間中心に万事を知るー科学技術や学問を含め…それをすべてとすることによって必ず死んでしまう、という単純にして深淵な洞察である。
それに対して、まったく別の根本原理が聖書に記されている。それこそが、繰り返し記されていることー神とキリストを知る(この場合の「知る」は、深い霊的交流を意味している)ということである。
死が近い時でも主が自分の魂のことを知ってくださっている、どんなときでも、知っていてくださる方、それはイエスだけである。
身近な花ひとつであっても、知るということは、科学的に知ることについては、高価な機器を用い、長い時間をかけて研究するほど、そのなかの化学構造や他の類似のものと異なる遺伝子配列、いかにして、現在のような姿、色、形、葉や花、茎等々の組成、形状ができあがったか、それらはいくらでも詳しく知ることができるだろう。
しかし、そのような費用や研究者の多年の労力がまったくなくとも、神がその花、植物によって、何を私たちに語りかけようとしているのかは、創造者たる神の聖なる霊が与えられたときには、部分的にであっても、示されてくる。
聖書において、「聖霊がすべてのことを教える」(ヨハネ 14の26)と記されているとおりである。ここですべてというのは、私たちの魂にとって本当に必要な、真理にかかわることを意味している。
わたしたちは、イエスが神から直接に使わされた存在であり、神と同じ本質を持っておられる方であり、復活して現在は神と同じ霊的存在となっておられるゆえに、聖霊と同じであると信じるだけでさまざまの良きことの道へと導かれる。
神とキリストを信じるということは、宇宙、地上のすべてを創造し、かついまもそれらを支えている無限の力と広大さ、永遠性を持っていると信じるだけでなく、イエスがこの世界の最も弱く、見捨てられた人たちのところに来てくださり、そこに愛の手を差し伸べてくださること、求めよ、さらば与えられるという約束は、真実であり、どのような状況におかれようとも、心から愛と真実の神に立ち帰り、求めるならば、いかなる罪も赦され、また絶望のなかに光を与えられるーということを信じることである。
たとえ、地上で災害や迫害、事故、等々で死すことがあろうとも、復活が与えられて、キリストと同じ栄光(永遠の愛、力、清さ…あらゆるよきもの)の姿としてくださると信じることができる。
いかなる深い悲しみも、目に見えない主を生きて働く愛の存在と信じて求めるだけで、次の主の言葉のように励まし、慰めを受けることができる。
「ああ、幸いだ、悲しむ者たちは。
なぜなら、その人たちは(神によって)慰められる(力づけられる)からである。」 (マタイ5の4)
ここで、「慰められる」と訳されている原語は、パラカレオー para-kaleoであり、(para そば、 kaleo は、呼ぶ、叫ぶ)それゆえ、そばで、呼びかけ、励まし、力づけるという意味を持つのであって、日本語の慰めるというような 悲しむ者に優しい言葉をかける、といったニュアンス以上の意味がある。
じっさい、このパラカレオーというギリシャ語は、次ぎのように、旧約聖書のギリシャ語訳でも
strengthen (力付ける、強める)と訳されている。
…ヨシュアに命じて、彼を勇気づけ、力づけよ。
Give Joshua your
instructions; encourage him, strengthen him
(申命記3の28)
…あなたは多くの人を訓戒し、 弱った手を力づけた。 (ヨブ記4の3)
And you have strengthened weak hands.
このように、神を知り、キリストを知るということは、無限大の宇宙や地上のあらゆるものに及ぶ神の全能の力を知るとともに、それとは極めて対照的な、一人一人の心の最も奥深いところでの励ましや慰め、人にはわかってもらえない罪の赦しを実感するという弱き魂への愛の世界へと広がっている。
宇宙の広大さや太陽の寿命とか、また惑星やその衛星の成分などをいかに知ろうとも、たった独りの罪に苦しみ、愛するものを失い、また自分自身が重い病気に、死を待つのみといっただれにもわかってもらえない孤独や絶望は、まったくいやされることはない。
しかし、神とキリストを知るという無限の内容には、そうしたことを豊かに含むゆえに、旧約聖書からの数千年、真実に神の求める人たちはそうした闇のただなかに光と力、慰めを与えられてきたのであり、それは一時の流行やネットの話題のように泡のようにたちまち消えるものでなく、永遠に続いていく。
ここにこそ、現代、そして将来にもいかなる事態が生じようとも、光の道、命の道がある。
(2023年6月27日(火)徳島県板野郡北島町での北島集会にて語ったことをもとにした文です)
現在は、平和がほとんどの人々にとって大きな関心事であり、とくにウクライナやロシアのように、その当事者ー兵士やその家族たちには、双方の兵士たちが、死んだり、重傷を負って生涯障がい者となって、人生が根本的に変わってしまうという状況にあります。 彼らにとっては、平和、戦争がともかく停戦になることを何よりも望んでいることと思われます。
また、遠く離れた日本においても、敗戦後ずっと軍備はGDP(国内総生産)の1%ということが続いていたのに、たちまち倍増にするという驚くべきことが、決まってしまい、憲法9条の精神などどこ吹く風か、という状況です。
この戦争に巨額の資金や武器、弾薬を提供しているアメリカやヨーロッパ諸国、さらにインド、中国、アフリカ等々、世界の国々に分裂と軍事競争、飢え、苦難…等々が波及しつつある状況です。
それゆえに、平和ということは、世界的に深い関心事になっています。
こうした状況にあって、私たちキリスト者は、世の状況がいかにあれ、永遠の真理の書は聖書であるということを示され、かつそれぞれのじっさいの生活からもそのことを体験してきたゆえに、現在、いっそう聖書の精神はこうした問題にどのように答えているのかが切実な関心事となります。
旧約聖書においても、この「平和」(シャローム)ということがいろいろにすでに出ています。今日学ぶ聖書箇所(イザヤ書9章)も、平和という語が、二回繰り返されています。
…一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。
権威が彼の肩にある。
その名は、
「驚くべき指導者、
力ある神、
永遠の父、
平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそして永遠に、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ9の5〜6)
「驚くべき指導者」と訳されている原文は、驚異ー助言者(指導者) と名詞が並べられている。多くの英訳は、よりわかりやすい表現をとって、 Wonderful Counselor と訳しているが、次のように、その原文のとおりに訳した重要な英訳もあります。
Wonder-Counsellor, (New Jerusalem Bible)
こうした特異な表現となっているのは、この未来のメシアの現れることを啓示されたイザヤが、まずメシアに関して、その存在が、「驚異ー驚くべき存在」であることを強く示されたからと推察できます。
まさに、現在のキリスト者にとっても、キリストは、一人一人の弱き魂にとって、いかなるものも代えることのできない、この世界の最大の驚異、驚くべき存在であり、かつ生きて働いて私たちに語りかけ、導きを与えてくださる存在となっています。 それは、私たちの苦難や悲しみ、あるいはこの世界、人間すべてにおいて謎に包まれているこの世界のすべての事柄について、その中心にある解決を知らせてくれる(指導してくれる)存在となっている。それが聖霊であり、聖霊はすべてを教える と記されているとおりです。
聖霊こそは、究極的な私たちの助言、相談相手となってくださる存在である。イザヤのこの個所は聖霊のそうした人間にかかわってくれる比類なき存在の出現を啓示されたのがうかがえます。
イザヤが啓示された将来現れることになっているメシアの特質は、「驚くべき指導者(助言者)」、「力ある神」、かつ「永遠の父」であり、「平和の君主(王)」という四つが記されています。
いずれも、私たちにとって日々心に浮んでくるキリストの重要な特質です。
今日の個所は、メシア(救い主)が現れる預言として知られています。この個所で、「平和」という言葉が2回使われています。そのメシアは権威。神の力がある。「驚くべき指導者で、力ある神」とまで言われています。
メシアを「永遠の父」と言っているのは他にはみられない表現です。
このように、旧約聖書の時からキリストが神と同じだということが言われているのであって、この神とキリストと聖霊がその本質は同じであるというのは、新約聖書だけでなく、旧約聖書のあちこちにもこの個所のように、それを暗示する個所があります。
このように旧約聖書の古い時代から、この世の救い主が生まれるということが預言されていました。
全人類を救うために来るなど、通常の人間にできることではないわけです。人間は自分ひとりさえ救えない。自分の罪の心、愛のない心、真実さが著しく欠ける存在です。
聖書で記されている愛とは、この世で最も大切な永遠的なものーそれは神の愛のことですが、それを、自分がまずいくらかでも受けて、その決定的な重要性を深く魂に感じて救われ、それをだれかに注ごうとすることです。
それゆえに、愛がないとは、そのようにこの世界で最もよいものを注ごうとする祈りがないということです。周りのいろんな人たちに対して、一番身近におる家族に対しても本当に祈りが深く真剣であったか。
私自身も振り返ってみたら、学校の教員としての生活と福音伝道に関わることに、ほとんど全エネルギーをそこに注いだことで、家族に対しては本当に時間とエネルギー、祈りもわずかしか用いてこなかったー愛を注いでこなかったということを、後からはっきりと示されてきたわけです。
そのことは、当時は私自身の視野が狭かったから気づかなかったということですが、神様が家族に関わることには目を塞いで別のところに目を向けさせたということもあると感じますが、この愛とか真実とかいうふうなことに関しては、現在に至るまで、どなたに対しても十分に注いできたなどとは、全く言えないのを感じています。
そして、ひとたび神の愛ということを基準にしてみるとき、その対象は、親子、夫婦とか、好意を持つ人といった限られた人に注がれる気持ちでなく、無限に対象があるわけです。
隣人、知った人はだれでもであるし、さらにニュースなどで報道される遠い国々の人たちもみなその神の愛の対象で、一人ももれる人はいないといえます。
さらに、通りがかりの人も、電車などで出逢う無数の人たちも、みな隣人になるから、遠くの人でも近くでも霊的に言えば距離は関係ないとすれば、
「隣人を愛せよ、
敵対する人のために祈れ。迫害する人のために祈れ」という主イエスの言葉で言われている、その愛の対象は果てし無く存在しているのを知らされます。
それゆえに、私たちはそうした愛の実践などまるでできていないことを思い知らされます。私たちの祈る相手も、その祈りのエネルギーもごくわずかにすぎないのです。
そのようなことを知るだけでも、私たちは到底、隣人を愛しているなどと言えない罪深い存在であり、愛のない、祈りのない者にすぎないことを深く知らされます。
だからこそ救い主が必要になります。そういう全人類の一番根源的な救いというものは、学問や科学技術、あるいはさまざまの知識や経験がいくら発達しても全く進まないのは、はるか古代から、はっきり分かっていたのです。
これだけ学問や科学技術がもう150年前、明治時代となったころから見たら比較にならないほどに発達したけど、素朴な愛や真実が、そのような教育や学問、科学技術によって発達して人々の心がより愛や真実がふかくなったとは到底言えない。
今日の聖書箇所で、イザヤ書はイエス様より700年ほど昔なのに、この現れるメシアが人間として現れるが、ふつうの人間とは全くことなる大いなる存在であることが、預言者に啓示されたのがわかります。
そのメシアとは、すでに、助言者(Counseler)としての意味は、キリストは聖霊となって完全な人類の助言者となっていることを述べました。
また、同時に、メシアーキリストとは、完全な驚くべき指導者だということです。人間の予想をはるかに超えたという意味です。
例えば、わが子を全盲にして導くなんてことは、どんな子供への愛に満ちた母親でも考えられないことです。あるいは自分の家族に大変な問題ー交通事故で生涯寝たきりになるとか、大きな災害にあって突然死んでしまう。また、長く苦しい病気になる…そんなことは、およそ神の愛など何の関係もない、単なる偶然、あるいは運が悪いこと、さらには先祖への供養が足りないからだ…等々だと思われています。
しかし、本当の神の愛は、そのような到底愛など考えられないことを用いてでも神様は人間を導こうとする。そういう意味で、この「驚くべき指導者(助言者)」ということの中には、全く想像を超えた人間には決してあり得ないような仕方で助言し、指導し、導くという意味が含まれているわけです。
こうした究極の出来事が、キリストの十字架処刑だったのです。 地上で完全な愛をもってハンセン病や生まれつきの全盲、ろうあ者、寝たきりの病人、また死んだ人、さらには、精神的に病気でどうしょうもない行動をしようとするから、鎖につながれていたという人…等々、そのようなだれも近づこうとしなかったような人たちのところに行かれて、神の力を注ぎ、彼らをその耐えがたい苦しみから救いだされた。
しかも、一般的に優しいといわれるような人たちと大きくことなるのは、イエスが、広く深い視野をもって、厳しい戦いの生涯でもあったということです。
当時最も勢力のあった大祭司、律法学者…等々の人たちにたいして決して恐れることなく、まっすぐに彼らの不正や偽善をも示し、表面的な平和を打ち砕いて、本当の平和、主の平和を指し示したのです。
そのような、愛や正義、慈しみ、真実…あらゆるよきものを完全に神から与えられ、しかも権力に対しても恐れずに不正をはっきりと指摘する…そのような人であったにもかかわらず、弟子の一人からも金で売り渡されるという悲劇となり、また長時間激しく鞭打たれ、つばを吐きかけられ、鋭いとげのある茨の冠を無理に頭にかぶせ、血がしたたる状況となり、重い十字架をになってよろめきながら歩かされ…最後は、特大の釘で手足を十字架に打ちつけられて恐ろしい苦しみ痛みの中で出血し意識を失ってもだえつつ死んでいくということになりました。
この最も残酷なような歩みは、文字通り愛の神が見捨てたのだと思われるほどであり、イエスご自身もそのような叫びをあげたほどだったのです。
しかし、それにもかかわらず、そのような恐るべき歩みは、神が、最も愛したその一人子に対する愛の内にあったし、イエスご自身が言われているように、神はイエスの内におり、イエスは神の内に生き続け、すべてのことは父なる神の言われるとおりにしている、ということでした。(ヨハネ10の38、同5の19)
その十字架に至る苦しみは、それゆえに、神の深遠な御計画、しかも愛による導きのゆえだったのです。
私たちの魂にもっとも深い悲しみをもたらすものも自分や他者の罪であり、だからこそ、その罪の赦しを受けた人は、神の愛を最も深く実感することができる。 その一人一人の弱く醜い魂の罪にも深く入ってきてくださり、赦しを与え再び立ち上がり、前進していこうとする力を与えるのが神の比類のない愛です。
しかし、それとともに、目に見えるこの世界においては、もっとも恐ろしいような迫害やくるしみをも受けることがあるが、それもまた、神の愛から出ているというのが聖書の驚くべきメッセージなのです。
それは万能の神だから、そういう非常な悲しみであるようなことも変えて、救いにつなげる。
そうしてメシアの特質の四つの最後にあげられたのが、「平和の君」、言い換えると平和の王だということです。
この「君」という訳語は、「君」という漢字が、例えば、友人を吉田君というのはごく普通の呼称ですが、「イエス君、イエス君」ではじまる讃美歌などに用いられている場合には、親しみをこめて、イエス君と言っているのではなく、王なるイエス様と、そういう意味がこめられています。
そのイエス様という御方は、平和の君。シャロームの王だと言われています。それは神様が持ってる平和であり、イエスが私の平和を君にあげよう、といわれたその魂の平安のことです。 さらに、キリストは、永遠の父と言われている。だからこそ、その平和は終わることはない。絶えることはないというのが、大きな特徴になってるわけです。そのあとに、もう一度「今もそしてとこしえに。」と強調されています。
神が約束している平和、それは常に存在し続けるという特質があります。
そのことを、うるわしく表現しているのが、次のイザヤ書の言葉です。
…わたしの戒めに耳を傾けるなら、
あなたの平和は川のように、
あなたの正義は海の波のようになる。(イザヤ書48の18)
ここで言われている正義とは、単に悪しきを罰する正義ではなく、アブラハム以来続いている神の大いなる恵み、信じるだけで正しい(義とされる)ことを含んでいるゆえに、新共同訳では、恵み と訳されています。
神を信じ、その御言葉に耳を傾ける心は、その信仰によって罪あるものも正しいとされる、そのような神の正義は、波のように絶えることなく打ち寄せてくる。
いったい、だれが平和は川の流れのようだ、と思ったことがあったろうか。また、だれが正義が海の波のように、良きものが絶えず打ち寄せる本質があるなどと考えただろう。
現実のユダの国は、神の言葉に耳を傾けず、武力に頼り続ける王や人々がいた。そのゆえに、ユダ王国は滅び、荒廃し、多数が遠い異国の地、バビロンへと連行されていった。
それでも、なお、もし人々が神に立ち帰り、その御言葉に耳を傾けるなら、主の平和は川のように、また主によって信仰ゆえに義とされるその恵みも波のように絶えず打ち寄せてくるようなものとなる。
このことは、詩篇23編の最後の部分で、主をわが牧者として聴き従うときには、
「恵みと慈しみはいつも私を追いかけてくる」(詩23の6)
と言われていることを思い起こさせます。
去年、ロシアのウクライナ侵攻によりはじまった戦争は、さらにヨーロッパの多くの国々や日本、中国、インド、アフリカ…等々、世界を巻き込んでいます。
現在の混乱した時代、戦争とそれと連動した核兵器が用いられるのではないのか、原発の大事故が生じるのではないのかなどの恐怖、そして、次々と死者や重傷を負った人たち、政情の不安定、難民、政治の独裁化の傾向…等々次々と報道されています。
しかし、そうしたこの世の大きな波のただなかにあっても、この世の目に見えない世界において、地下水のように、流れ続け、波のように打ち寄せているのが、主の平和であり、主の正義であり、その根底にある主の愛なのです。
使命、ミッションということは、今の私たちには遠いことのようにも思える。しかし、この日本で、1%ほどでしかないクリスチャンに選ばれた。選ばれたからには神は愛と真実の方であり、意味なく選ぶことはない。必ず何らかのミッションを与えている。この世に使わされているのである。
神によって使わされる。そのことをは、書ではどのように記されているか。
神は無限の深い愛と英知を持ってすべてのものを創り出し、送り出している。 神が送り出すと言うことは、聖書の最初から書かれていることである。
創世記のはじめ、神が暗黒と混乱のなかで「光あれ」といわれた。光そのものが、神によって送り出されたのである。
そして、それは、今も続いている。ミッションは特定の伝道団体の話ではない。聖書全体が「使わす(遣わす)」ということからはじまっているのである。そして聖書の最後も、イエス・キリストが再び来る、つまりキリストが使わされてくる、ということで終っている。
神は聖書の最初から最後まで、この地上に深い意味とご計画を持って、良きものを使わし、送り出してきたのである。
また、暗黒と虚無、混乱の中に、聖なる風(Divine wind、wind fromM GOD)が吹き続けていた。(*)それもこの世にその風を送るという深い意味があった。
(*)a divine wind sweeping over the waters.
(創世記1の2 NJB)
a wind from God swept over the face of the waters.
(同NRS)
旧約聖書の中に、ユダ王国の滅びのただなかー枯れた骨ばかりとなったところに神が、風(息)を吹きつけると、生き返ったという記述がある。(ヘブル語では、本来 風を表すルーァハは、息、霊とも訳される。)
…これらの骨に向って主は言われる。
私は、お前たちに風(息、霊)を吹き込む。そうすればお前たちは生き返る。…風よ、四方からこれらの死せる者たちに吹き来れ。そうすれば彼らは生き返る。
(エゼキエル書37の5、9節)
神からの風は、つねにそうした死せる状況にあるものに、神の命の風を吹きつけて生かそうとする力が働いている。
夜空の星も、大空も、自然そのものが、ミッションをもって神から送り出されている。
わたしたちも神によって使わされている。それは、誰かに言葉で告げるということだけではない。動けない病床においても、祈りを送り出すことができる。病気の痛みや苦しみの中での祈りはとくに神は覚えてくださる。この世で本当に大事なことは、目には見えない、霊的なことなのである。
私たちにおいては、真剣に求めるときには、キリストが内に住んでいてくださる。その内なるキリストは、生きて働くゆえに、私たちの祈りはそのキリストがうながすものである。それゆえに そうした祈りは聞かれる。
たとえ、病床や障がいで寝たきりとなってもなお、使命がある。健康な人にはない 主にうながされ、導かれての祈りという使命が浮かび上がってくる。
神様は、寝たきりの人でも用いられる。生まれつき聞こえない人、見えない人、また動くことができない人。その弱さの中に神は特別なミッションを与えている。 弱いところにもそれぞれの力を与えている。死が近いときでも神はミッションをあたえられる。
イエスと共に磔になった罪人は十字架の上で動くこともできなかった。しかし、イエスの復活を信じていた。そして「わたしを思い出してください」と言った。その信頼の心が、永遠に伝えられることになった。この人もその生涯の大部分は悪人のようであったが、死の直前において、その魂がキリストに向って方向転換し、その証しが全世界に使わされることになった。
この重罪人の記述を見て、わたしたちは、特定の人の状況を表面的に見て、この人はいい人だとか悪い人だと決めてしまってはいけないのを知らされる。どのような人をも神様は用いられる。また、悪人のような人をも、あんな人間は裁きを受けるだけだ、と簡単に切り捨ててしまわないようにしなければならないと思う。最後の最後まで、神はご自身への方向転換を願っておられるし、じっさいこの十字架刑になった重罪人のように、最期が近づいたときに、初めて神への方向転換をする人もいるからである。
私たちは生きている限り、何かの使命が残されているからこそ、生かされている。 私たちには、それがどんな使命なのか分からないことも多い。
しかし、万事を見ておられて人が到底はかり知れない視野をもったうえでなされていることを信じる道がつねに開かれている。
神を畏れて、人を恐れず T.S.
「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。…
あなたの畏れるべき方は主。」 イザヤ書8の12〜13
1 はじめに
今、日本は北朝鮮のミサイル発射におののき、台湾有事があるかも知れないと恐れて、アメリカの戦略のもとで南西諸島にミサイル基地を造り、軍事費も倍増させています。このことは、2700年前ユダ王国のアハズ王の時代に、エルサレムがアラムとイスラエル連合に攻め上られたときによく似ていると思います。イザヤ書Uは「アハズ王の心も人々の心も恐れで、風に揺れる森の木々のように動揺した」と書かれています。 (イザヤ7の2)
アハズ王が敵の攻撃に怯えて動揺しているときに、イザヤが王に伝えた主の言葉は
「落ち着いて、静かにしていなさい。畏れることはない。」、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(イザヤ7の9)でした。この言葉は、仮に敵が攻めてきても、主を信じ、主に任せて心を落ち着かせて、静かにして待ちなさい。人を恐れてはならない。信じなければ生き残ることができないという教えをイザヤは伝えています。
3 アハズ王の恐れたのは
しかし、イザヤの預言に、王も民も耳を傾けず、目に見える軍事力に頼り、アッシリアに助けを求めたのでした。こうしてユダの国はアッシリアの属国となってしまいました。まさに今の日本が主を畏れずに、アメリカと軍事同盟を結び、アメリカの属国となってしまっている状況とそっくりだとわたしには見えるのです。
4 畏るべき方は主
わたしは今から40年ほど前に読んだ「荒れ野の40年」のドイツのワイツゼッカー大統領の言葉が忘れられません。それは「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という言葉です。過去の歴史を見つめて理解し、その反省に基づいて現在を判断せよとの言葉と理解しています。
80年ほど前に、日本は太平洋戦争でアジアの人々を二千万人とも言われる人を殺し、日本は焼け野原となり、日本人も三百万人もの人が戦争で死にました。多くの犠牲と悲惨な経験から、もう絶対に戦争はしない。問題の解決手段として戦争をしないし、戦力も持たないと憲法にはっきり宣言しました。それにもかかわらず、今の日本はその平和憲法を捨てて、危険な軍事大国へと進んでしまっています。あたかも基地が敵のミサイルの脅威から国民の命と財産を守るかのように国民を惑わして、国民の支持を得ながら危険な道を進んでいるのです。はたして軍隊や基地は国民を守ったのかを、ワイツゼッカーの言葉にならって、過去を振り返ってみます。
沖縄戦ではアメリカに攻められたとき、国民のいのちを軍隊は決して守ってはくれませんでした。敵の砲弾の危険を避けるため、隠れていた洞穴では、「赤ん坊が泣くと、敵にばれるから赤ん坊を殺せ」命令され、また「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓にならって民間人も自害しました。
また満州にソ連が攻め入ってきたときに、守ってくれるはずの関東軍はさっさと逃げてしまい、満蒙開拓団の人々は置き去りにされました。ソ連と中国人の襲撃の中、残された無防備の開拓団の人々は、悲惨な逃避行をして、多くの人がその途中で死にました。こうして過去を見つめてみると、軍隊も基地も、実は国民の命も財産も守ってはくれないということがはっきり分かります。
人を恐れ、軍事力を恐れるから動揺して、備えをしなくてはならないと軍事力を増強したり、基地を建設したりするのです。しかし、イザヤは、「彼らが恐れる者を、恐れてはならない。あなたたちの畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」(イザヤ7の12〜13)と教えてくれています。また、マタイ伝には、「体を殺しても魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で亡ぼすことの出来る方を恐れなさい。」(マタイ伝10:28)と主の教えの言葉があります。この世のものも、体も命も失うかも知れません。それでも、魂を殺すことの出来ない人間を恐れてはならない。本当に恐れるべき方は、魂も殺すことの出来る主である。主を信じて、主を畏れ、主に祈るものには永遠の命が待っているという希望があるのです。今は目に見えないし、神の御心は人間には分からないのですが、それでも主を畏れて、信じて待ち望む心が大事だと教えてくれています。
5 まとめ
イザヤは「わたしは主を待ち望む、主は隠しておられるが、なおわたしは彼に望みをかける」(イザヤ八の17)と述べて、信じて待つ信仰を告白しています。わたしも、人を恐れず、主を畏れる者として歩んで行きたい。そして、主を信じ、主のご計画を祈りつつ、落ち着いた心で待ち望む者でありたいと思います。
(二〇二三・七・二 主日礼拝の前講)
これは、戦前には、亡国病と恐れられていた結核患者が作った短歌から選ばれたものです。序文を書いている伊藤祐之(すけゆき)の言葉を引用します。「信徒たちの血を吐く戦いの中から生まれ出たものであり、活きた信仰の恩寵あふるる証しの珠玉の文字に満ちていまして、霊の世界の高山植物の花畑のごとくに百花繚乱、けだかくも美しきものあり…」
それらの短歌は、その背景を思いうかべることでいっそうその深い意味が伝わってきます。次にそのいくつかを掲載して私の感じたことも添えておきます。
〇苦しみはとこしえならず 耐えしのび待たば つひには過ぎ行くものぞ (福岡)
・「信・望・愛」は、いつまでも続く。この作者も、また、主の愛を信じて、またその苦しみは必ず除かれるときがくると信じて歩まれたのが感じられる。
最終的には、どんな苦しみや悲しみも、死ののちの復活によって完全に過ぎ行くものとなり、そのときには、いかにむしばまれた身体であっても、キリストの栄光の姿と変えられるという大なる希望が与えられている。
…キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださる。(フィリピ3の21)
〇 はろばろし 太平洋の波は越え 君と祈りの聖座に語らむ (山梨 西川 賤 )
・この歌の作者は、「祈の友」主幹を30年も続けられた西川 賎(しずか)による。当時の「祈の友」は会員多く、海外にもいて、距離はいかに遠くとも祈りによってともに聖なる座にあって祈り、語り合うという。
祈りは、神が仲立ちをしてくださるゆえに、距離や地域、そして過去という時間をも超えていく。
そして祈りは、霊の目で見ようとすることでもあるゆえに、盲人であっても、またかつてのハンセン病の人たちのように、また現在でも、寝たきりで入院、あるいは家庭など、狭い環境であっても、なお、祈りが深められるほどに、祈りの翼によって遠くまで飛び翔ることが可能とされる。
さらに、旧約聖書に現れる人物のように、主の恵みを受けて聖霊が注がれるときには、魂にとどく深い御言葉が直接に与えられ、人間からは与えられない深い慰めや力づけを与えられることがある。
元気なとき、痛み苦しみのないときに感じなかった、主のみ顔を拝するような実感を与えられることがある。
涙のなかから仰ぐとき、もっともはっきりとみ顔を仰ぐことができるーといった先人の言葉が思いだされる。
〇苦しみのきわまる時し むらぎもの心は澄みて み神を思ふ(埼玉)
この歌には、苦難、悲しみなどの極まるほどにかえって 暗い雲で覆われていた心も澄んできて、その清くされた心で神様、イエス様のことを思い祈ることへと導かれる心が記されている。
さまざまの飲食や友人たちとの旅行、またスポーツや映画、ドラマ…等々の楽しみ、娯楽も、一時的には、私たちの心を元気づけたり暗い心を晴れさせることもあるだろう。 しかし、そうしたことによって魂を清められるーということは難しいし、旅行などは、体力や費用なども必要であり、だれにでもできることではない。
しかし、だれもが避けたいと思うような、まただれにも言えないような苦しみや悲しみによって私たちの心は、清められ、深められるということがしばしばある。
それほどの重い苦しみでなくとも、小さな苦しみであっても、それを神様からの私たちへの試練の賜物、それが必要だからこそ与えられているのだと信じて受けとることによって、その小さな苦しみもまたいやなものとしてでなく、小さき清めの役を果たしてくれることがある。
〇ひもすがら主と交わりて主をほむる楽しみありて 病忘れぬ (茨城)
・主との霊的交流、それは結核によって家族や仕事、またこの世の楽しみなどすべて奪われてもなお、与えられる恵みであるのがうかがえる。
詩篇においても、夜中であっても目覚めて、主との霊的な交わりで魂の平安と喜びが与えられているのを表す詩がある。そのことは、数千年経っても変わらない。
… わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。(詩編 16の7)
・昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。(詩 42の9)
〇動かれぬ 身の衰えも神様の 御旨とぞ思ふ今は素直に (山梨 )
・私たちが、重い病気となる時には、あらゆる楽しみが失われるという深い悲しみや絶望感が生じてくるであろう。その時でも、全てを最善にされる主の御心として素直に受けとるという。
主イエスが言われた、幼な子のような心、それは老年の人生最後の苦しみのときにもいっそうその重要性が浮かび上がってくる。
〇「真珠の歌」について
これは、今から七十数年前に発行された「祈の友」会員の短歌集の復刻版です。。
原本は大きさも文字も小さく、戦後間もないときの出版であり、印刷も十分でなく、現代ではとても読みにくいので、通常は短歌や俳句集は、一行で収まるように配列していますが、まず文字を大きくして、高齢者や視力の弱っている人たちに読みやすくすることを第一に考え、かつ、なるべく頁数を少なくするために、B5版で二段組とすることにしました。 そのため、長い短歌では二行にわたっての表示となっています。
追加の説明を付けたのも、この短歌集に現れる人名ー序文や跋(後書き)を書いた伊藤祐之、政池 仁、また「祈の友」を始めた内田正規や「真珠の歌」の選択に特別な労を費やした当時の「祈の友」主幹の西川 賎や、その後の主幹であった中山貞雄、稲場満、そして矢内原忠雄といった人たちについても、若い世代の人たちはほとんど知らないという人が多いと考えられるので、そのような人名についても私自身との関わりも含めて書いています。これらも、少しでもこの短歌集をその内容に近づくためにより身近に感じていただくためです。
この復刻版は、徳島聖書キリスト集会員やつながりある方々の多くの労力によって原本を画像としてそれを分担してテキストファイルとしさらにレイアウト、校正などの御奉仕によってなされましたことを感謝です
余分を印刷していますので、追加を希望の方々にはお送りできます。
以下の集会のうち、対面と、オンラインを共用しているのは、主日礼拝と天宝堂集会で、その他の夕拝や家庭集会は、オンライン(スカイプ)の集会です。
・主日礼拝 毎週日曜日午前10時30分〜12時30分。(集会場とオンライン)
・夕拝 毎月第一、第三火曜日の午後7時半〜9時(オンライン)
・天宝堂集会 毎月第二金曜日午後8時〜9時半(集会場とオンライン)
・海陽集会 毎月第二火曜日午前10時〜12時(オンライン)
・北島集会…毎月第四火曜日午後1時〜2時半(オンライン)
第二月曜午後1時〜
これらの集会への参加は自由です。問い合わせは左記まで。
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