「いのちの水」 2024.1月号 第755号
たとい私たちの外なる人は滅びても、 内なる人は日ごとに新しくされていく。(Uコリント4の16) |
目次
・ 新しさの根源 |
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・集会案内 |
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本当に新しいもの、新しさの根源にあるものとは何か。それは神であり、キリストである。
その神とは、万物を創造された神であり、完全な愛や真実をそなえた存在であり、かつ今も活きて働いておられる御方である。
だからこそ、人間の魂の奥深いところで真に新しいものを示し、実感させることができる。
そして私たちにとってその新しさの根源に触れる道は、その神との霊的交流たる祈りにあり、祈りの内に天来の光を受けることにある。
闇と空しさ、混沌のただなかに、光あれ!との神の言葉によって光が存在したと記されているように、私たちの心の深いところに、神が光あれ!と言われるときに、それまで闇であったところに、永遠の光の一端が生まれる。
私は、キリスト者となって、天の光を受けて自分の前途のこと、周囲の出来事、また身近な日々の自然の姿を見つめるときに、全く新たなものが見えてきただけでなく、それまで全く経験のなかった人間の声や響きと異なる神からの静かなる細き声といったものを少しずつではあるが感じるようになった。
それまで、どんなニュースや書物、また他人の話しを聞いてもわからなかった新しいもの、それがその光によって少しずつ見えるようになってきた。
人には神のかたちとして創造されたゆえに、神が持っている完全な愛、真実、美そして思考力…等々のごく一部が備わっている。
しかし、他方人間には動物としての本能的に自分を守るという自分中心という刻み込まれたものがあり、それがさまざまの欲望となり、他者を攻撃し、奪い取る、ねたみ、憎しみ、不正な人間関係…というさまざまの罪が不可避に存在している。
じっさいに、他人を力で攻撃や奪い取るなどしなくとも、心のなかで攻撃、憎む、排斥といったことが生じる。
そうした罪ゆえに、私たちの心の世界は、神の完全な愛や真実という基準から見るときには、まったくなきに等しい。
それゆえに、次のように言われている。
…あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。…
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし…(エペソ書2の1、5)
そうした罪ゆえに、私たちには本質的に新しいものが見えないようになって、単に時間的に目新しいものばかりを追いかけるようになっている。
祈りは、天と地を結ぶことであり、天にかかる個人的な架け橋を作ることである。そしてさらに、祈りの対象の人にもそのような架け橋ができるようにと祈ることである。
すでにこのことは、創世記のヤコブの孤独な旅ー目的地まで七百キロをも超える長い旅のなかでだれも経験したことのない啓示が夢のかたちをとって与えられていた。
その長大な旅において、途中のいろいろな困難や出来事もあったであろうが、それらはすべて省略され、夢のなかでの啓示だけがその特別な重要性のゆえに記されている。
それは、天に達する階段であって、天使が昇り降りしていた。その夢の中で、神がヤコブとともにいて、どこに行こうとも常に守る、そしてヤコブもその子孫も祝福される、という約束だった。
この天に達する階段を天使が昇り降りすることは、単なる昔話でなく、現代に生きる人間すべてに深くかかわることである。
そのことが、ヤコブからはるか後の主イエスの暗示に満ちた表現で次のような文脈のなかで記されている。
イエスに従って行こうとする弟子が、別の人ナタナエルに出会い、イエスのことを紹介した。ナタナエルは田舎の町ナザレから何もよい人は出るはずがない、などと言っていたが、イエスと出会い、イエスからのひと言で自分のことを見抜かれているのを悟り、イエスを神の子、イスラエルの王だ、とまで信じるに至った。
そこからさらに大いなることを見るようになると、イエスが言われた。それが、次のことである。それが、意味深きことばや出来事を随所に満たしたヨハネ福音書の第一章の最後に、しかもアーメン、アーメン(真実を込めて)と強調した上で、次のように約束したのだった。
…あなた方に真実を言う。天が開け、天使たちが人の子の上に昇り降りするのをあなた方は見る。
(ヨハネ1の51)
この短いひと言は、イエスより千数百年も昔のヤコブのこともまた、キリストによってなされることを指し示す預言であるのを示している。
神の恵みなくば、閉じられたままである天の世界が開ける、ここに学問や経験、あるいは思索などでは知ることのできない本当に新しいことを見る世界が与えられるという約束がある。
それはまた、交流の世界である。神の国、天と地上にこられたキリストとの交流であり、そのキリストを私たちの心の深くに信じ受けいれた者にもまた生じることである。
そしてそれはまた、天への階段ー架け橋の上から天使が上り下りすることになる。
神の本質たる愛と真実の交流であり、地上の人間の思いや願い、讃美、感謝などを天に昇らせ、かつ天からの赦しや人間的な、自分中心の愛とは根本的に異なる神の愛を注がれることである。
本来はありえない汚れた人間が、神の愛からくる清めを受けて天の世界と互いに交流が与えられるということである。
この互いに〜しあう、ということは、ヨハネ福音書の中に深く刻まれていることばであるが、そのことを最初の1章の末尾において記している。
まず、私たちがキリストを信じることで、キリストとの愛の交流が与えられる。それはキリストと弟子たちとの最後の夕食という重要なときに繰り返し強調されている。それを以下のように要約しつつ引用する。
… 私はぶどうの木、あなた方はその枝である。ぶどうの木につながっていなければ実を結ぶことはできない。
同様に、私の内にとどまっていなさい。そうすれば私もあなた方の内にとどまっていよう。
それによってあなた方は豊かに実を結ぶようになる。
私の愛に留まり続けなさい。
…
(そのキリストの愛をもって)互いに愛し合いなさい。 (ヨハネ15の1〜17より)
私たちがキリストの内にとどまろうという意志、切実な願いあれば、キリストは私たちの内にとどまってくださり、そのキリストとの霊的交流がなされるようになる。
それまで気付かなかったことの中に、新たな意味を見出すことは、私たちが祈りにおいて、そうしたキリスト(神)との交流において与えられる。
聖書のことばにおいても、先人たちが大いなる祈りと研鑽によって見出した深い意味を注解書などで学ぶことは重要であり、それらによって私自身も多くの学びを与えられてきた。
しかし、さらなる新たな発見は、祈りのなかで、その聖書のことばを黙して味わい見つめ続けることのなかに、与えられてきた。
ときには、運転中に、また目覚めのときの祈りにおいて、あるいは、自然のなかでの祈り、さらには祈りつつ書いているとき…。
天地にかかる階段ー架け橋が、この地上のさまざまの状況にある人々にも与えられて、天からの愛や真実を天使が携えて降り、それを人々が受けるように、また、御使いが、地上の生活の苦しさ、生きていけないほどの困難からの叫びを受けとって神に届けてくれますように、その願いは、主イエスが教えられた「主の祈り」の「御国を来らせたまえ!」という祈りと重なる内容となる。
そしてそのような、神の愛にもとづく架け橋を与えられることこそ、真の新しさの根源となる。神の愛こそは、イエスのたとえにあるように、古きものと本当に新しいものを見分けて、新しいものを選び取るように導く。
…天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ13の44〜45)
愛や真実、永遠のもの…等々に関してこの世にどこにでもあるような見せかけの愛、それは真実な愛の影にすぎないことを見抜き、神様の持つ愛を知らされたとき、それこそが、真に新しいものだとの発見であり、イエスのたとえにあるような、宝であり高価なる真珠を見出したという実感なのである。
そしてその新に新しいものの根源とは、十字架によるイエスの罪の赦し、そして死んだような者、死者をも復活させる神の力である。
ー互いに愛し合うこと
今年の新年は、習慣的に「新年おめでとう」とかいう挨拶も言うのがはばかられる状況となった。大地震あり、飛行機の衝突事故あり、また以前からのウクライナとロシアの戦争、さらにイスラエルとガザとの戦争、その他報道されない多くの地域での難民、飢餓、貧困、差別…等々が地上を覆っている。
カレンダーが1月になった途端に何か新しいものが国や個人にやってくることはない。
そしてどんなに新しい建物や、新人選手、新入学生…新というものもみなたちまち古びていく。新聞ー新しく聞いたこと、それもたちまち一日もしないうちにゴミとなって果てる。
そのようなおびただしい「新しきもの」が、疾風に吹き去られるようにして消滅していく。
しかし、そうした押し流し、消滅させる強大な力がいかに強くあろうとも、流されないもの、滅びないものがある。
それは、万物創造者の神であり、その神の本質たる愛と真実、永遠性である。さらに、万物創造者ゆえに、完全な美や清さもまた神の本質に含まれるゆえに、それらもまた永遠である。
目に見える美しきもの、清いものもみな時間や化学変化等々によって汚れ、消滅していく。
しかし、そのような美や清さの根源は消滅することがない。
キリストの言葉、それは神の本質がすべて刻まれているゆえに、次の主イエスのひと言は、あらゆるよきものー美、真実、清さ…等々もまた永遠である。
…天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
(ルカ 21の33、マルコ13の3、マタイ 24の35)
滅ぶ と訳された原語は、パレルコマイ parercomai で、パラは「そば」、エルコマイは「行く」の意味を持つので、過ぎ去る、とも訳される。
Heaven and earth shall pass away, but my words shall not pass away. (KJV )
天地万物はすべて過ぎ去っていく、そして消えていく(滅ぶ)。
多くの人は、新しいものに関心を持つ。時間的に新しいものーニュースと言われるものは初めてのような感覚を持たせるので、誰でもが惹きつけられる。どこかで火事が発生した、地震で家々が壊れ、山が崩れた、不注意による事故で突然の悲劇が生じた、どこそこのチームが勝った、優勝した、等々 それらの新しい出来事は、だれでも一時的に興味を持つ。
しかし、それらの新しいことを見たり、聞いたりしても、一番大切なものー心が清められたり、敵対する者や弱い者、あるいは悪いことをするような人間に対してでも彼らが本当によくなるようにと願うような愛が深められたり、あるいは真実な心が強められるということはあるだろうか。
もしそうした出来事がそのようなよきはたらきをするものなら、昔はテレビもラジオもなくもっと前は新聞さえなかったころには、そうしたニュースは全くといってよいほど伝わらなかったから、それに比べて現代は情報量において天と地ほどの大きな違いがあるから、とっくに現代の人間は、昔の人間よりはるかに真実で無差別的な愛があり、清い心となっていたはずであるが、現実はまったくそうではない。
私たちを本当に良きものへと変えるものは、単に時間的に新しいものでないことがこうした事実を考えるとすぐにわかる。
本当に変えるものは、こうした時間的に新しいものでなく、時間を超えたものー古くから続いてきたものである。
そのような古いもののなかにこそ、本当に新しいものを見いだすことができる。このことは、中国の古代の賢人孔子の有名な言葉「温故知新」も古きものの重要性を告げている。
「古きをたずねて新しきを知る」と読まれることが多いが、「温」という漢字は「あたたかい」という意味をもっているゆえに(*)、「古きを温(あたた)めて新しきを知る」とも読まれる。
(*)語源辞典によれば、次のように説明されている。
「温という漢字の右側は、ふたをうつぶせて皿の中に物を入れたさまを描いた象形文字(音オン・ウン)。熱が発散せぬよう、中に熱気をこもらせること。温はそれを音符とし、水を加えた字で、水気が中にこもって、であたたかいこと。」
古いゆえに忘れ去られていて堅く冷たくなってしまったようなものを、大切に取り出し温める思いでそこにこめられた意味を見いだすということになる。
私たちが聖書を読むとき、とくに日本では大多数の人が、単に昔の本であり、自分には関係がないと思っているような内容を、心を注いで温めることで、そこからいわば真理が孵化されて現れてくる。そしてさらに羽が生じて、自分以外の人たちにもその世代全体にも羽ばたいていくことさえある。
人間にとって最も大切なこと、最も大いなるものーそれは弱き人、背信行為をするような重い罪を犯した人、また生きることから迷い出て死にそうになっている人…そうしたさまざまの人に及ぶような愛、神の愛である。
そのような神の愛を与えられ、そこからまずその愛を同じ信仰を与えられている人同士で働かせ合うことーそこにその神の愛が育まれ、周囲の世界にも伝わっていく。
そのことを、聖書は次のように現している。
……愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。
その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。
しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。
そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。
なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。
(Tヨハネ2の7〜8)
古い戒めー古くからの神の言葉と言い換えることができる。み言葉は、古くから存在し、かつ、現在も決してその輝きを失うことなく光り続けている。その光によって触れるものは常に新しさを実感する。
このヨハネの手紙のもとになっているのが、つぎのヨハネによる福音書にある記述である。
…あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が知るようになる。」 (ヨハネ13の35)
特別な儀式とか服装によってキリストの弟子であることが知られるのではない。あるいは、学問があるとか、生まれが良いとか、特別な技術があるとか、人の関心を惹く話し方、単にキリストの教えを口で繰り返すなどでもない。
そのようなすべてに勝って決定的なしるしは、キリストの愛をもって互いに愛し合う(祈り合う)ということであるというのである。
この言葉が言われた時代はー現代でも相当部分残っているがー身分(例えば、貴族と奴隷)や国家、民族、肌の色、貧富の差等々で大きく差別され、そうした人同士が兄弟のように愛し合うなどは考えられないことだった。
しかし、キリストは言われる。そのようなあらゆるこの世における違いと関わりなく、神から来る愛によって互いに相手の祝福を祈り合い、具体的にできることを実行するーそうした愛(祈り)こそは、キリストの弟子であるーキリスト者であるということを最もはっきりと表しているのだと言われている。
そのような愛には周囲の人たちも敏感であって、その愛をもって互いに愛しあうなら、周囲の人たちも、キリストの弟子であるのを知るようになると言う。
キリスト者同士が、神からくる愛をもって愛し合う、互いに奉仕し合うことが、すべての人にキリストの弟子であることを証ししていくーそれほど神の愛の力は大きいということなのである。
祈りの人 ー 好本 督(よしもと ただす) 盲人の福祉と伝道
キリスト者は祈りの人である。生きてはたらく神(キリスト)がおられ、今も私たちを愛をもって見つめておられる、と信じる者がキリスト者であるならば、その生きたキリストから絶えず励ましを受け、罪の赦しを受け、自らの痛みや悩みを訴え、また神からの語りかけを聞き取ろうとするようになるからである。
キリスト者として知られた人の伝記を読むとほとんど例外なく、彼らは祈りの人であったのがわかる。
キリストご自身が、しばしば人を退け、弟子たちとも離れて一人で祈った、あるいは、夜を徹して祈った、などと記されている。イエスこそが最大の祈りの人であった。
そして聖霊となったキリストは、今も深いまなざしをもって一人一人を見つめ、祈ってくださっている。
聖霊は弱き私たちを助けてくださる。私たちが、どう祈るべきかわからないような時であっても、聖霊たるキリストが、私たちのために深い祈りをもって見つめてくださっていることが記されている。(ローマ信徒への手紙8の28参照)
また、パウロも絶えず祈れ、と説いて、祈りが特別な時だけでなく、朝から晩まで絶え間なくなし得ることであると言っている。
…いつも(主にあって、聖霊によって)喜びを持て。
絶えず祈れ。(主と霊的つながりを持ち続けよ。)
すべての事について、(主が最終的によきことに転じてくださると信じて)感謝せよ。
これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(Tテサロニケ5の17〜18)
このような祈りに包まれた人達のなかで、ここでは、日本の盲人の福祉のために多大のはたらきをし、「盲人福祉の父」と言われる好本督という人のことについて紹介しておきたい。
好本は、一八七八年大阪で医者の長男として生れた。東京高商(現在の一橋大学)に入学、このころ聖書と内村鑑三に出会ってキリスト者となった。大学を卒業後、ヨーロッパに出向き、イギリスのオックスフォード大学に入学。
そこで多くの信仰深いキリスト者と出会い、自らも聖霊に導かれ、讃美歌を愛好し、祈りと思索を深めた。この頃、オックスフォード大学の医学部主任教授であった、ウィリアム・オスラー(*)と出会う機会があった、オスラーから、「平静(tranquility)」(原題はラテン語)という題の本が贈られた。この本の内容は、好本の信仰的あり方と重なるものであった。
(*)ウィリアム・オスラーは、カナダ生れ。(一八四九〜一九一九)
牧師の子として育ち、聖職者を目指したが、すぐれた医学者の影響を受けて、医学者への道を歩む。一八歳のとき、ある牧師から紹介されたトマス・ブラウン著の「医師の信仰」という本を購入し、生涯その書を座右に置いた。
晩年になり、命の終りが近づいたときに、自分の柩の上にこの本と白い百合を置いてほしいと希望したというほどであった。彼は、ジョンズ・ホプキンズ大学の医学部の内科教授となり、そのときに新しい構想の医学教育を打ち立てた。
それは、医師となるためには、カレッジ卒業生が、四年間の医学教育を受けることを提唱し、臨床教育を病棟で行った。
近代医学教育がここに始まったと言われる。それが日本にも伝わり現在までの医学部教育につながっている。また、一八七四年に今日では広く知られている血小板の血栓形成作用を発見した。 上述の「平静の心」という著書の中で、医学生にとくに推薦すべき書物として、第一に聖書、そしてシェークスピアの著書、モンテーニュ、プルターク、マルクス・アウレリウス、エピクテートスなどのストア哲学者のもの、セルバンテスのドン・キホーテなどをあげている。
なお、このオスラーの「平静の心」という本に敗戦直後に出会って、オスラーを知り、以後ずっと大きな影響を受けて、「オスラーを師として私は生きてきた」と記し、その著書でも繰り返しオスラーに言及し、日本オスラー協会長となって、オスラーの思想を広めているのが、聖路加(ルカ)国際病院の日野原重明氏である。
このような勉学の後に、好本督は帰国し早稲田大学で教鞭をとっていたが、二八歳頃の若いときから、彼はすでに盲人全体の福祉のために、「日本盲人会」をつくっていた。そしてこの会の存在によって、戦後、岩橋武夫らの努力によって、日本盲人会連合という会の結成へとつながっていった。
なお、岩橋武夫は、日本ライトハウス(「光の家」の意)を創設したが、この岩橋が一九二五年にイギリスの大学に留学するときに、とくに便宜をはかり援助したのも、好本 督であった。
好本は、この日本盲人会とは別に、盲人キリスト信仰会(*) という団体をつくった。一般の盲人の福祉のためには、日本盲人会、そして盲人福祉の根幹をなすと確信していたキリスト教信仰を広めるための団体を別個につくるという視野の広い見方を持っていたのである。
(*)この盲人キリスト信仰会は、戦後、日本盲人キリスト教伝道協議会となり、その初代委員長に好本 督が選ばれた。この盲人伝道協議会は今日も続いている。
このために、好本は、とくに信仰的にすぐれた人達を集めた。それらの人達とは、中村京太郎、平方龍男(ひらかたたつお)、秋元梅吉らである。
中村は、盲人として初めて公費での留学生としてイギリスに学んだが、そのときに生活の面倒を見たのが好本 督であった。
中村は現在も発行が続けられている「点字毎日」の創刊のときの編集主任となった。
これは毎日新聞社の発行によるもので、一般の大新聞社がこのような点字の新聞を発行することは異例のことであった。
当時世界では点字新聞は二つあり、それはいずれもイギリスであったが一般の新聞社が発行するのは点字毎日が初めてであった。
破滅からの救いー好本 督の経験した祈りの力
こうした異例のことが生じたのは、好本の祈りの結果であった。当時の毎日新聞社の外信部長が次のように語ったという。
「…好本さんは自分の使命は盲人に尽くすにあり、と考えるようになった。その一つが点字新聞に現れただけである。
…朝から晩まで機会あるごとに、いつも祈りをしていた。その祈りに応える神様からの声の一つの現れがこの点字新聞になったのだ。」
そして、平方龍男は、後に鍼医として広く知られる人物となり、東京に信愛ホームというキリスト教精神によって鍼治療のより高度な学びと訓練をする施設を創設し、それは今日まで続いている。
なお、徳島聖書キリスト集会の現在の主日礼拝にオンラインで参加されている全盲の熊本市のHさん、集会員のSさんもこの信愛ホームで学んだ人たちである。
また、秋元梅吉も、盲人の福祉のために、一九一九年、「盲人基督信仰会」を創立。これも現在も「東京光の家」と改称されて続いている。
このように、神の光が内村鑑三に臨み、それがさらに好本 督にもその光は照らし、そして前述の中村、秋元、平方らにも神の光は照らしていき、その人達へと盲人への働きは受け継がれ、現在まで脈々として続いているのであり、神の光の力の広がりとその永続する力に驚かされる。
光あれ! との創世記最初の言葉は、このように、天地創造の最初だけのことでなく、長い歴史のなかで、常にその真理を保ち、その永遠性を保っている。
それは闇に輝く光であり、それは一時の闇やある特定の場所だけに輝く光でなく、神が光を存在させようとするところには、重い病気、事故、災害あるいは家族やその他の人間関係、さらには、戦争といった大規模な騒乱の中にあっても、存在するのであって、その光をいかなる社会の変動も消すことはできない。
それゆえに、この神の光は内村鑑三や好本 督らの大きな人達だけにその光が及んだのではもちろんない。
無名の数知れないキリスト者たち、盲人やろう者、肢体不自由な障がいを持った人たち…等々の信徒たちにも同じような光がその魂に射し込み、それによって動かされ、さまざまの良き事業となっているのである。
さらに、好本が力を注いだ事業として、点字の聖書を全巻刊行するということであった。これは、亜鉛板に点字を脚の力で製版機のペダルを踏んで一字ずつ打っていくのであり、相当な体力が要求される。
このために信仰のしっかりした一人の盲人の青年が選ばれ、彼は二年がかりで、毎日のように打ち続け、六〇〇万字に及ぶ聖書全巻の点字製版を完成させた。好本は、その青年を励まし、その間の生活費をもひき受けるなど経済的な援助も惜しまなかった。
このように、盲人の福祉においてとくに選ばれて多くの働きをした好本 督は、若き日に死を思うほどの苦しみと悲しみの体験を通ってきたのであった。そこから上よりの光を受け、キリストの導きを受けるために、祈りに徹してその苦しい状況を乗り越えていくことができたのである。
彼にとって若き日のとくに重要な出来事は、次のようなものであった。
盲人の福祉のために、 事業を起こしたとき、彼がイギリスに滞在中に、好本が会社を任せていた支配人が富を急増させようとし、ある詐欺師にだまされて投機に手を出して、多額の損失を出したのであった。そのため、神戸の彼の会社を破滅に導いただけでなく、好本の父の財産まで使い果たしてしまったのであった。この大きな災難のために、病気がちであった父が急に悪化し、危篤状態に陥った。
そのことを好本は、イギリスにいたときに知らせを受けて、大きな衝撃を受けてただちに日本に帰ることになった。それは、一九一三年の十二月であり、まだ、日本へ帰るには、極寒のロシアを通って帰らねばならなかった。その途中、ロンドンで買った切符が無効だと言われ、先への旅行はできないと言われた。駅長に懇願してようやく難を超えたと思ったのも束の間、今度は、スリによって財布と旅券が盗まれ、途方にくれた。
もはや異国でどうすることもできない。このとき、病床にて苦しむ父のことが思い浮かび、寒さにふるえつつも、彼がしたことは、ひざまずいて長い間祈ることであった。
そのような状況において、ただ一つなし得ることは、一羽のスズメをも忘れることもないと記されている全能の神に頼ることだけであった。熱心に長い間祈り続けたとき、彼は平安を取り戻した。そうしてようやく眠りにつくことができた。翌朝、彼がまずしたことは、祈ることであった。
そしてまず心に浮かんだのは次の聖句であったという。
…イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
(マタイ福音書十四・31〜32)
… 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
(箴言三・5〜6)
このようにして、祈りによって途中の長い旅路をも無事に乗り越え、ヨーロッパを出発して二週間後にようやく日本(門司)に着いた。そこで彼がまずしたことは、近くの丘に登り、祈ったことである。
そして、「お前が信仰さえ失わなかったら、災いは転じて幸いとなり、すべてのことはお前の周囲の者に益となるのだ」という神からの安心が与えられた。 そうして神戸の家に着いたが、家は深い悲しみに沈み闇に包まれているような状態であった。父はやせ衰え、母は看病で疲れ果てていた。彼は自分の部屋に退いて、ふすまを閉めてひざまずいて祈った。
父のいのちは二ヶ月ほどしかもたないだろうと医者が言った。
好本は、それから毎日さまざまの関わりある人達との交渉にエネルギーを費やし、身も心も疲れ果てて帰って来るという状態を繰り返した。
彼は、そのようななかでも、わずかの夕食をとると、自分の部屋に退き、数時間を思索と祈りに費やす、そうした日が続いた。
死が間近いといわれた父は大切にしていた書画をすべて、ある人から提供せよと言われた。
破産という状態であれば相手の申し出に逆らうことができず、長い間手許において愛着のあった書画をすべて失うことになり、父は非常に悲しんだ。しかもその一つ一つを父以外の家族が、数台の荷車に積んで遠いところまで運んでいくことになった。
その様子をみていた病床の父の落胆は大きかった。形ある宝に執着するわけではなく、地上の命の終りが近いといわれている父を苦しめその寿命を短くすることが好本には耐えがたかったのである。
そのような状況にあって、彼はどうかこの場を救って下さいと祈らずにいられなかった。何時間祈ったか分からなかった。ところが彼がまだ祈り終わらないうちに、電話がかかってきて、運ばれた荷物をすべてお返しするから、というのであった。
そのことから一か月ほど後のことである。彼は巨額の手形を支払わねばならなかったがその費用がなかった。銀行からは矢のような催促がある。その銀行員は好本たちが被った多大な苦しみに大いに責任があった人なので、そのような人物に支払いを延期してくれるように懇願するのは耐えがたいことであった。
このような苦しい状況に陥ったのは、好本の責任ではなかった。彼はイギリスにいて、その不祥事の直接の責任者でなかったからである。しかし、彼が会社の最終的責任者であるゆえに彼が全責任を負っていかねばならないのであった。
このような事態に直面して彼はあまりの苦い杯のためにあらゆる人に反抗したい気持ちとなった。
そのようなとき、彼は部屋に入って、聖書を読んだ。そのとき、神の言葉から流れ出てくる聖霊の光に照らされて、心に広がっていた闇は朝霧のように晴れた。すべてのことは、主がよしとされるときに解決し、現在の苦難は両親にとってもまた関係者にとっても、祝福に変るにちがいないということが、彼にははっきりと分かった。
自分たちを耐えがたい苦痛の深淵に投げ込んだ者たちに対して、彼は怒りの心をおさえることが難しかった。好本とその家族たちはまったく何の悪いこともしていないのに、彼らは平和の家であったものを悲惨と苦悩の家に変えてしまった。
「主よ、あなたは友に裏切られることがどんなものであるかを、よく知っておられます。あなたを見上げることによって、平和を持てるように助けて下さい」と祈った。
ある人々は、そのようにひどい目に陥れた犯罪者たちを訴えるようにと、好本に、強く勧めた。しかし、ひざまずいて祈って考えるとき、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ二三・34)と主が十字架に付けられたときに祈ったあの言葉を思いだして好本は自分を苦しめた人々に対して、憐れみの情を禁じ得なかった。
そして好本は、彼らを赦すことができるように、また彼らが救われるように、恵みを願った。もし彼を苦しめた人々を訴えていたならば、一層悪意を引き出すばかりであったろうし、誰にも決してよい結果をもたらさなかったであろう。
また、ある友人はそのような不正なことをした者たちを会社から放逐するようにと忠告してくれたが、キリスト者として好本は、自分が彼らの責任を負うべきだと考えた。彼は彼らのために祈り、間違った道から彼らを連れ戻したいと思った。
真夜中に一人外に出て、夜空に光る満月を見つめ、近くのせせらぎの音を聴いていると、心には主にある安らぎが与えられた。月をじっとみていると、次の聖句を聞くようであった。
… しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ五・44〜45)
彼がそうした日々を送っているとき、深刻な会社の状況を立て直すための連日の悪戦苦闘の日々に疲れ、ある墓地まで来た。
そのとき、「ここにこそあらゆる悪人も疲れた者も休みがある」(ヨブ記三・17)との言葉が思いだされた。彼は、もし自殺が罪でなかったなら、自分の生命を断つこともためらわなかっただろうと書いている。それほどに当時の苦しみは大きく、前途への道が開けてこなかったのであった。
しかし、それは無責任であり、悪魔の誘惑に屈することであると知り、全力を尽くしてこの窮地から脱するべく生きていかねばならない、との思いへと変えられた。
彼はこのときほど熱心に祈ったことはなかった。
そして「キリストを信じて従え、戦い続けよ、
そしてその結果を神に委ねよ、
『神は、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちとともに働いて、万事を益となるようにしてくださる』のだ」
(ローマ八・28)
これが彼の必死の祈りに対する神からの答えであった。
次の年になり、少し前までは彼の最も手ごわい敵であって彼を苦しめることに関わった数人の人達から、心のこもった感謝の手紙と盲人福祉のための多額の献金が送られてきた。しかも彼らのある者たちは聖書を読み始めているということであった。これらすべては神のすばらしい恵みによるものであった。
もし、この世の方策をもって彼らに対処していたら、彼はきっと打ち負かされていたという。
しかし、自分の利害を顧みないで事にあたったために、大きく状況が変わり、神の力によって彼らの心まで変化していったのであった。
好本はこうした出来事の背後に祈りがあったことを述べて次のように言っている。
神からの語りかけを聞く
ー好本 督の祈りへの思い
…祈りとは、私たちのうちにはたらく聖霊を通して、主のみまえに私たちを引き寄せる神のわざである。だからそれは神の愛のあらわれ以外の何ものでもない。それは私たちが神をとらえるということではなくて、神が私たちをとらえて下さることである。
祈ることは、私たちが神の「静かな細い声」を聞くことであり、私たちの態度は、「しもべは聞きます。主よ、お話下さい」(サムエル記上三・9)ということになる。
ルターが言ったように、「神が私たちの願いを聴いて下さるということは、すばらしいことである。だが、それよりはるかにすばらしいことは、神が私たちに語りかけて下さることであり、また私たちが神に聞くということである」
しかし、神の声を聞くというだけでは十分ではない。私たちは神の御心を行なうように心がけねばならない。聖霊によって導かれ奉仕することは、すなわち隣人に仕えることを通して、自ずから、神のみわざにたずさわるという計り知れない特権に他ならない。助けてやるというような精神でなく、それを喜びと思い、彼らに仕えることを特権と考えるのである。
御心を行なうことは、私たち自身の力ではできないことであるが、しかし、パウロも言っているように、「私を強くして下さる方によって、何事でもすることができる」(フィリピ書四・13)し、また、
「私の力は弱いところに完全にあらわれる」
(Uコリント十二・9)のである。
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ここには、彼が死を思うほどに追い詰められた困難な状況から脱することができた、その理由が語られている。
このような真実な祈りは必ず何かが周囲で起こってくる。それは死に近かった彼の父が元気を取り戻し、二か月の命といわれていたほどに病状は重かったにもかかわらずその後も二年を生きることになり、その晩年になって聖書を読み、キリスト信仰へと導かれていったことであった。
そしてその父の最期をみとった彼の母から聞いたことでは、父の語った最期の言葉は、彼や家族をほとんど破産状態に陥れたその災難の責任者である男に、送金するように頼んだことであったという。
そして父の葬儀は、不思議な導きによって関西学院大学の礼拝堂で行なわれることになった。さらにそのときの弔辞を読んだのは、好本とその一家をどん底に突き落とした人であった。その人はそれを読みながら、途中で感極まり、泣き崩れてあとを続けることができなかったという。
この短い紹介によっても、好本 督が盲人の福祉において実に多方面に渡り、それらが盲人のさまざまの方面において計り知れない益をもたらすことになったのがわかるが、それは彼自身が述べているように、神の愛と真実をどこまでも信じ続け、そこに身を委ねることであり、それをなさしめたのが祈りであった。祈りこそは神の御手が働く場を生み出すものなのである。
ー心に残っている御言葉 土屋 めぐみ(千葉)
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8の28)
先日この聖句を思う機会が3回ありました。そのうちの2回の事をお話したいと思います。1回目は1月の6日〜7日の冬期聖書集会(キリスト教独立伝道会主催、会場は徳島聖書キリスト集会)の時です。
早々に旅行会社に予約して冬期聖書集会は徳島へ行って集会のみなさんと会って、いろいろなお話や聞きたいことなどが聞けると喜んでその日を待っていました。
集会後はかねてから一度体験したいと考えていた吉村さんの山の上のお宅まで歩いてみたいし、吉野川の滔々たる流れも見たいと他にも様々な計画を立てていました。
ところが、暮れから新年に子供たちや孫たちと一緒に生活した時にコロナにかかってしまい、全ての計画をキャンセルし、スカイプ参加となりました。
冬期聖書集会のスカイプで参加している間、集会場で皆さんが楽しそうに話したり、笑い合ったりしている様子を見て、なぜ私は参加できなかったのだろうかとの思いがふと浮かびました。普段から私はあのことこのことができるのは神様が整えてくださるからできるのだと考えます。
すると徳島まで参加できなかった今回は神様が整えてくださらなかったのだろうか。次に頭に浮かんだのは、神様の考えはどこにあるのだろうかということでした。いろいろと思い巡らしている間に、人間の計画は神様の御計画の前にあっては、まるで海辺の砂浜で砂の山を作っているようなものだと思いました。詩編にも神様の思いは人の思いを遥かに超えていると書かれています。
人はいろいろなことを計画しますが、神様の御計画がなされるのだということをまた思わされました。今までの歩みを思い出しても、自分の人生計画が変更させられることの方が多かったことを思い出します。
でも自分の思い描いていたような結果にはならなかったけれど、自分の考えていた以上のことを用意されていたこともあり、本当に神様の思いは、人の思いを遥かに超えていると思ったことでした。
そして神様はこのこと、あのこと、バラバラに見えるような出来事も、イエス様によって、イエス様がともに働いてくださって、良きものとして繋げてくださるとの思いを持つことができました。 良きものとなるのは、いつになるか分からない時もありますが、その希望が消えないように、いつもイエス様にお祈りしてイエス様に顔と思いを向けていきたいと思いました。また自分の思いや計画が変更させられる時には、聖書を読んで神様にお祈りして神様に導いていただきたいと思いました。
2回目は次男と話をしていたときでした。次男はイエス様を知らない人と結婚し、奥さんの実家近くに家を構えています。風土が違う地域でもあり、神様のことを知らない人達の中にあって、毎日の生活はなかなか厳しいのだそうです。
そうした苦労話をたくさん話したあと、次男はこう言いました。「大変なことがたくさんあるけれど、だからこそ神様から離れないようにされている。聖書には万事を益としてくれる神様と書いてあるし。」と言いました。
今大変なところを歩いている次男に、この聖句を心に刻んで下さった神様に感謝しました。またその話を聞いて嬉しく思ったと同時に、次男がこれからもその希望が失われることがないように、また家族が神様を知ることができるようにとお祈りをして行きたいと思いました。
そして今回の冬期聖書集会では、直接に集会の皆さんとお話はできなかったのですけれども、充分に満たされました。
(1月14日主日礼拝での3分の御ことばタイムにて)
〇冬期聖書集会
キリスト教独立伝道会主催の冬期聖書集会が今年は、初めて徳島聖書キリスト集会を会場として、対面とオンラインで開催されました。
期日は、一月六日(土)〜七日(日)
主題…「御言葉の飢饉を克服する道」講師 吉村孝雄
・土曜日は、アモス書読書会。全体九章を九名の方々が一章ずつ各人10分で解きあかしを担当、吉村も重要な個所について追加の講話。
・讃美タイムでは、二つの広く歌われてきた讃美歌についてのその重要性。
・祈りの会…夕食後、五つのグループに分かれての五十分ほどの祈りの集まり。
〇七日(日)…午前は主日礼拝。 「御言葉を聞くことのできない状況を克服する道」現代は、圧倒的に人間のことばが、テレビ、ラジオ、ネット等々にあふれ、近年はとくにスマホにおいて洪水のように流されている。 まさに御言葉を聞くことができない状況にあり、そうしたただなかにあって、なお、御言葉を聞き続けていくために何が大切なのか…。
一般の人だけでなく、キリスト者となっている人においても、油断すると、他者の研究や注解書、意見、言説をそのままいろいろと受けとるだけで、真に主から御言葉の深い意味を聞き取ろうとしない状況になりがちである。そのように、御言葉の飢饉、御言葉を聞くことのできない状況から脱するための道はどこにあるのか…。
・午後 …旧約聖書における平和について (吉村孝雄)
〇二日間の録音CDがあります。MP3形式。希望の方は、奥付の吉村まで。一枚送料共で三百円。
〇コロナのために四年ぶりの、対面での冬期聖書集会となりました。
六日(土)の参加者は、オンライン(スカイプ)12名、会場23名 合計35名。
7日(日)オンライン 38名、会場 29名 合計67名。
〇 今回は、県外から徳島会場に16名の参加予定でしたが二人は直前にコロナのために会場には欠席、オンライン参加となり、北海道や青森の遠隔地から、東京、静岡、大阪、岡山、愛媛などからの参加者もあり、御言葉をともに受けること、讃美や祈りの会で共に対面での集まりが与えられて、やはりオンラインでは与えられない、生きた主にある交流が与えられたのは、大きな感謝でした。
寒さ厳しい北海道や青森から、積雪による往復の困難も予想された中で、はるばる来徳しての参加は、主が背後にあって強く引き寄せられたからだと感じたことです。
そのような県外の方々は、計画段階から祈りをもって徳島での冬期聖書集会を覚え、その参加の途中にあってもずっと祈りに導かれていたゆえに、集会も全体として祝福されることになったと感じます。
・主日礼拝 毎週日曜日10時30分〜12時30分 対面とオンライン。
〇夕拝…毎月第一、第三火曜日夜7時30分〜9時
〇家庭集会として
・天宝堂集会… 毎月第二金曜日午後8時〜9時半(対面とオンライン)
・海陽集会…毎月第二火曜日午前10時〜12時 オンライン
・北島集会…毎月第四火曜日午後1時〜 オンライン
第二月曜日午後1時〜オンライン (*)これらの集会の問い合わせは左記まで。
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