いのちの水2024年 第11月号 第765号
ああ、幸いだ。心の貧しき人々は! なぜなら、神の国はその人たちのものだからである。 (マタイ福音書5の3) |
目次
酪農に出会って 北海道 西川 求 |
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・西川 求さんの思い出 野中正孝(北海道) |
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「聞く」というごく日常的なことは、どこまでも広く、深い世界へとつながっていく。
人間関係においても、他者の言うことに耳を傾けることは必須であるが、この世界においても、天地創造の神、全能の神がおられ、しかもその神は愛と真実を備えた神であるならば、そのような神からの語りかけを聞くことが根本的に重要だということになる。
愛は常に語りかける。それゆえ、神は私たちに常に語りかけておられ、心の扉をたたいておられる。そして神の創造物たる自然もまた、その神の愛によって創造されたものゆえに、常に私たちに語りかけている。日々目にする青い空のひろがり、そしてさまざまの草木の姿、その花々、葉の一枚もすべて神からの語りかけの一端である。
星の輝きは、いかなる暗夜であっても雲厚くともその背後では輝き続けているのであり、神の語りかけが永遠であることの象徴となっている。ダンテの神曲は、神の愛と悪の力への裁きの中でいかに人間が導かれていくかという広大な精神世界を1万4千行を越える韻律の整った壮大な詩作であるが、その地獄篇、煉獄篇、天国篇の最後に、stelle (星々)を置いているのも、彼が星の輝きに神の愛のまなざしを深く感じていたからであった。
今から60年前、The Sound of Silenceという歌が広く知られるようになった。
私にはこれに関連して、The Sound in Silence (沈黙あるいは静けさの中の響き)という言葉が浮んでくる。このことは、旧約聖書の詩篇に現れる。
…天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく、
声は聞こえなくてもその響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。
(詩編19より)
ここに記されている響きとは、沈黙の中で語られる言葉である。それは、天からの響きであり、人間の言葉を超えた響きである。
人間にとって他の動物と根本的に異なる点は、こうした天来の声、響きを聞き取り、また目には見えない美そのものや真実そのものを感じ取る能力を与えられているということである。
神は、生きて働いておられる愛の神であるゆえに、どのような人にも、語りかけをしている。
…見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし…(黙示録3の20)
そのような天来の響き、声を聞き取ろうとし、また天に向って語りかけることがすなわち祈りである。
旧約聖書の最初の5つの書、その申命記において、「聞け、イスラエルよ」(申命記6の4他)と繰り返し言われているのも、神の永遠の真理の言葉に聴くことの重要性を示している。神はモーセに次のように語られた。
…あなたの神のもとに立ち帰り、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞くならば、
あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、…(申命記30の2〜3)
このような響き(Sound)を、広く知られるようになった讃美歌作者も聞き取ったゆえに、その讃美歌(アメイジング・グレイス)のなかに次のような言葉として記している。
… Amazing Grace! (How sweet the sound)(*)
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see.
(*)ジョン・ニュートンが作詩した原詩には、(How sweet…)の部分にはこのようにカッコが付いている。
(以下は説明的意訳)
何という主の恵み! 荒廃した私のような者を救ってくださったとは! その福音の音ずれは何とうるわしいことか!
(その福音、それは何という魂を満たす響き(How sweet the sound)であったろう!)
以前は魂の滅んでいた状態だった。しかし、今や私は主によって見いだされたのだ。
以前は、真理が見えなかった。しかし、今や私は見ているのだ。
この作者のジョン・ニュートンは、元は奴隷船員であり、その船長にもなっていた。そのような仕事は、悪しきことであったが、当時広く行なわれていたことでもあり、深く考えることはなかった。
しかし、後に危うく暴風で難船破滅の寸前に直面して長く祈ったことのなかった祈りを必死で祈った。それが大きな転機ともなって、後に牧師となり、その礼拝のメッセージの内容を助けるものとして関連した内容で詩を作り、参加者に配布していたその一つの詩がアメイジング・グレイスであり、それがとくに有名となった。
この讃美歌の作者は、本来もう救われないと思っていたにもかかわらず、船が大嵐に遭遇し、海水が大量に入り込み難破寸前となっていたとき、もうずっとキリストや神から離れていたにもかかわらず、思わず祈りの言葉が出てきた。その生きるか死ぬかぎりぎりという状況になって初めて、彼の神への方向転換の時となった。
しかし、そのような極限的状況でなくとも、神ご自身の創造された大いなる自然を通しても常に神は語りかけておられる。秋の大気の澄んだ朝、また夕日の落ちるころ、とくにその赤い朝日や夕日、その周囲の赤く色づいた雲の美しさーまた、大空の青いひろがりや真っ白い雲の多種多様な動きや姿、色合い…それらすべてのなかに、神はその全能かつ愛ゆえに、私たちへの語りかけを込めておられる。
それらが、私たち一人一人の魂のとびらをたたいているのである。
科学技術、特に核兵器、AIによる種々の技術はますます進展する。
しかし、祈りの世界において語りかけられる励まし、力、慰め、といったものはデータ化、数値化することはできない。言葉で祈りとは何かを表すことは過去の祈りに関するさまざまの文献から集めることはできるゆえ、言葉で祈りとは何か等々を表すことは簡単である。
しかし、祈りそのものを実際に体験し、苦難や深い悲しみにあって、祈りによって与えられる力や感動、慰めや励ましそのものは、言葉を越えるものであるゆえに、データとして集めることができない。
それゆえに祈りの本質は、AIによっても犯されない領域である。
それゆえに、人間が人間であり続けることにおいて最も重要なことは、そうした静かなる細き声に直接に聞き入ることである。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共通の経典ともなっている旧約聖書には、繰り返し、神に立ち帰り、主の語りかけに聞け、と言われている。
それこそは、平和も含め、あらゆる良きものへの道である。
しかし、たいていの場合、私たちはまず神からの語りかけに聞こうとせず、人間に聞こうとしたり、人間が言ったことから離れることができなくなっている。朝起きてまずテレビを見る場合には、本来なら会うこともない人の話しにいやおうなく引き込まれることになる。
人間を超えた語りかけを聞くということは、こうしたことで妨げられ、神など何も反対しかけてはこない、との先入観を持った状態となる。
私が中学から高校に進むころ、アフリカのコンゴ動乱は世界に響きわたったが、そのときの国連事務総長であり、キリスト者であったハマーショルドは、繰り返しコンゴを訪れて、問題解決に力を注いだが、コンゴに向う途中の飛行機が墜落して死去。(最初は事故死と思われていたが、後にKGBーソ連の秘密警察ーの関与が指摘される)ノーベル平和賞の受賞がその事故死前に決定していた。彼は、国連内に、黙して祈る部屋を設置していた。
それほどに、国際社会というおよそ祈りなど問題視されない状況にあっても、祈りこそが根本的に重要だということを知っていた。
彼は、そうした激務の中にも、聖なる風を、また光を受けていたゆえに、国々の権力闘争の大波にもまれつつ、その困難のただなかで、最善のなすべきことを続けていった。
彼が日記として書き続けていたものが、死後発見された。次はその中の言葉である。
あなた(神)の風の内に、あなたの光の内にとどまる。
ほかの一切はいかに取るに足らないことであろう。
そしていかに幸いなことか、それのみが偉大であるものの内にいることが…。
In Thy wind in Thy light-
How insignificant is everything else,
how - and how happy in that which alone is great.
(Dag Hammarskjord "Markings" p161 New York:Alfred.A.Knopf 1964)
彼が、この短いメモを書き残したのは、国連事務総長として、朝鮮戦争、ハンガリー動乱、そしてイスラエルとパレスチナ問題など重要な問題の解決に奔走していたときであった。
そのような激務にあって、彼は、確たる内面のよりどころをもっていたのがうかがえる。それは、神からの風と、その光であった。それは、聖書の巻頭にある、神が天地創造のとき、闇と空虚が深淵を覆っていたが、そこに吹いていたのは、神からの風であり、そこに神は光あれ!との言葉で光を創造したという記述がここには反映している。
日本語訳では、神の霊が覆っていた というように訳されているが、本来の原語は、ルーァハ エローヒーム であり、ルーァハとは、風、あるいは 息 を意味するから、「神の風」、または「神からの風」(*)と訳されている。
(*)従来からの訳は、 「神の霊が、水の面を動いていた。」(the Spirit of God moved upon the face of the waters.) (KJV)
というのが多い。しかし、日本語としは、霊が動いている、という表現は、幽霊などが動くというような まったく聖書の意味する内容とはちがった連想を生み出しかねない。
新しく出た英訳も、フランス語の エルサレム聖書 やその英訳版、あるいはアメリカのプロテスタントの重要な英訳も「神からの風」 と訳している。
・a wind from God swept over the face of the waters. (NRS)
・with a divine wind sweeping over the waters.(New Jerusalem Bible)
・un vent de Dieu tournoyait sur les eaux.(LA BIBLE DE JERUSALEN)
静まること、それは、その魂の平和である。力である。
2700年も昔の預言者が神への方向転換と信頼を次のように語っている。
…まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。
「(神に)立ち帰って、静かにしているならば救われる。
安らかに信頼していることにこそ力がある」と。
しかし、あなた方はそれを望まなかった。
(イザヤ書30の15)
静まることによって自らがいかに小さきものであるか、いかに過去から現在に至るまで、周囲のかかわった人々に愛や真実を欠いていたか、言い換えると、その人が本当に良くなるようにと願い、祈りをもって対してきたか…等々が明らかに示されてくる。
そして、そのみずからの弱さ(罪)を何が、根底から除いてくれるのか、そのような弱きものであっても、よきものへと立ち上がって進んでいくための力を与えられるのもまた静まることによってである。
そして、その際、何者を前において静まるのか、も重要となる。何も考えず、頭を空にして…などと言われることがある。しかし、もしも、真実で本当の愛の存在がおられるなら、その御方を前にして静まることこそが、あるべき姿である。というのは、静まったときに、その愛と真実の御方から、その愛ゆえに何か良きものー力、清い思いを受けとるからである。
「草に すわる」 八木重吉
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
また、インドを非暴力でイギリスの暴政から救うことに絶大なリーダーシップを発揮したガンジーにおいてもその驚くべき力の源は祈りにあった。
そしてその祈りの力は、遠いアメリカでマルチン・ルーサー・キング牧師が現れ、黒人差別に対して非暴力で闘い、差別撤廃へと大きな歩みを勧めることになった。
そのガンジーは若きときからロシアのトルストイの非戦、非暴力の思想に深く啓発され、アフリカでの農場にトルストイ農場と名付けたほどであった。
そしてそのトルストイの主張は、イエスの語ったメッセージ「悪しきものに手向かうな。悪に対するに祈りをもってせよ」に由来する。
そのイエスは何も権力や肩書もなく、ただの大工の息子として育った。しかし、神から目に見えない神の本質ー聖霊を注がれ、旧約聖書の神の言葉を自由に引用できた。
そのイエスがなぜユダヤの国を揺るがし、そのイエスの復活の霊を受けた使徒たちによってローマ帝国の広範な領域まで驚くべき短期間で伝わっていったのか。
それの原点はやはり 祈りにあった。イエスご自身がしばしば夜を徹しての祈りをなし、さらに十字架にかけられる前夜に、夜を徹しての血のしたたるような汗を流しての祈りであった。それが十字架にかかる激痛をも耐える力となり、さらに二千年経ってもその力が失われないまさに神の本質を与えられていた存在であると証ししてきた。
そして弟子たちも、約束の聖霊が与えられるまで、みんなで祈って待てと言われ、その祈りを真剣に続けていたとき、聖霊が大いなる風のように弟子たちの魂の内に吹き込んできたのだった。
キリストは神の愛を表すために来られた。そしてその究極的な姿は、ひどい辱めと苦しみを受けて十字架上で処刑されることさえ受けて万人の最も深い闇である罪の赦しを求めるものにはだれにでも与えるというまったく新しい愛の道を示されたのだった。
そしてそのような愛は祈りとなる。
武力は、カネの力、権力で生み出すことができ、それが戦争というかたちで発揮されるときは、膨大な人間を殺害しあるいは、手足をもぎ取り、生涯の苦しみや悲しみと化してしまい、家族もその悲劇に巻き込む。
しかし、真の祈りの力は、武力も権力も関係なく、真実な心の叫びであれば、必ず神は何らかのかたちで聞いてくださる。それは願ったことそのものでなく、またどこでどのようにきかれたかも分からないことが多い。
しかし、神は愛であり、全能であるゆえに真実な祈りは必ず何らかのかたちで、世界のどこかで良きことが生じることにつながっていく。それは全能と完全な愛の神を信じるときには、おのずから生じる結論である。
使徒パウロもまた、キリスト教迫害に全力を尽くして国外まで、大祭司の許可状をもらって出かけていき、捕らえてエルサレムまで連行する状況であり、キリスト者を殺すことまでしたと告白している。(使徒 22の4)
しかし、そのような迫害のさなかに、突然復活したキリストからの光と語りかけを受けた。 それが彼の生涯を180度転換した。
そして、以後二千年にわたって、復活したキリストからのメッセージを受け取り、それを宣べ伝え、その受けた啓示が新約聖書の重要部分となって、無数の人々の魂の救いにつながることになった。私もパウロの手紙の一つであるローマの信徒への手紙のごく一部によって魂の救いを与えられた一人である。
キリスト教迫害に全力を尽くしていた、パウロは、そのただ中で、突然に復活したキリストの光を受け、その語りかけの声が語りかけたのだった。
このようなことは二千年前のパウロだけに生じたなら、何ら我々にとって関係はない。しかし、じつはこの二千年、否、旧約聖書の時代から含めるなら、三千年以上昔から、現代に至るまで、ずっとこの神からの語りかけはなされてきたのである。
そして一部の人たちはその語りかけを、周囲の世界は全くそれを聞き取ろうとしない状況のなかで聞き取った。
その語りかけこそ、数千年を越えて、いまも響き続ける驚くべきエネルギーをたたえているのである。
現代は、戦争や紛争が各地で増大し、さらには最も危険な核兵器さえ使われるかもしれないという危機的状況にあるなかで、政治や経済、あるいは教育や文化的活動をしている指導者たち、また新聞、テレビ、ネットなどのマスコミにおいても、ほとんどどこにあっても、明白な指針が確信をもって語られたというのに接していない。
選挙時には、多数の人々の目先の人気取りのために生活費の援助と称して、大金を使って市民に手渡す、年収を増やすとか税を少なくするなどを約束してしまい、ますます国家の赤字、借金が増大する。
そして、今後何が生じるのか、ロシア、ウクライナ、イスラエル、ガザや西岸のアラブの人たちに何が生じるのか、歴史学者、経済学者あるいは科学者、思想家等々だれも明確なことを予見することはできない状況である。
数千年という長き歳月、無数の人々の魂の内奥に語りかけてその生涯を生まれ変わったように変革する力をもっている聖書に記されている真理に聞こうとする指導者たちは、どこにいるか。
新聞、テレビ、ネット…それらも圧倒的多数は、かまびすしく絶えずなり続ける鐘のように音は出しているがみな消え去っていくばかりである。
そのような中で、私たちがはるか数千年前から、とくに選ばれた人によって聞き取られた天からの響き、驚くべき恵み(アメイジング・グレイス)を告げる響きは衰えることなく続いている。
聴く耳を持つならば…である。
イエスも、「聞く耳のある者は聞け」と大声で言われたこともある。(ルカ8の8)
世界平和という壮大な主題において、そのだれでもが歩み始めることのできる最初の一歩は、こうした沈黙の中、静けさの中から人間の魂深くに語りかけてくる響きを聞き取ろうとすることである。
それには、特別な能力も、学歴や組織、あるいは知識、学問など不要である。
イエスの弟子たちも、漁師が4人いるが、彼らは文字も読めず、本も読めなかったと推察されている。二千年前の学問研究などきわめてわずかの人しかやっていなかった時代であり、そのような必要もなかった。ほかの弟子たちも、学問をしたなどということはまったく記されていない。そのような人であっても、イエスの深い真理を受けとるのに何ら妨げがないからこそ、選ばれたのであった。
神の選びー救いは、どんな無学な人でも、また学問的な人も、あるいは病気の人、重い犯罪を起こした人であっても(十字架でイエスとともに処刑された一人は、そのような極刑は自分がやったことの当然の報いと言っている)、イエスを信じるだけで、イエスからの「あなたは今日、パラダイスにいる」との救いの確約を受けたことがそのことを証ししている。
この救いの原理は、二千年間一貫して変わらない。
ただ、イエスの言われたように幼な子のような心で、この宇宙、世界を創造された御方に向って、
「しもべは聞いています。お語りください。」
(サムエル記上3の9)
と魂の目を向けるだけで足りる。
現代は、歴史上でかつてない危機にあるのは、核兵器やAI兵器の驚異的な発達だけでない。人間がその本質たる目に見えない部分の能力が、あまりにも過剰なテレビ、スマホなどの内容、また画面、写真等々によって、静まることがなくなっているからである。
私たちのこの体も地球のあらゆる生物もそのもとは、すべて人間がつくったものではない。そもそも人間が生きるには、太陽、酸素やまた植物の光合成、それら動植物を構成する化学物質や化学結合の力とそれによる化学反応のすべて、さらには万有引力、…等々すべて人間が存在する以前からあったのであり、人間がつくったものではない。
それは創造主の御手によるものである。そのような全能の神を信じないときには、単なる偶然で生じたということになる。
偶然とは因果関係がわからない出来事をいう。しかし、それは全能のしかも愛と真実の神を信じるならたちまち偶然というのはなくなる。
世界の平和といえども、世界は本質が人間という共通のものであり、その人間にはどのような民族であっても、愛や真実に敏感であり、目に見えないことをも感じ取る能力が与えられているという本質をもっている。それは、「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1の27)という記述の通りである。
世界の平和、それはまずその構成員たる人間そのものの内に魂の平和、平安がなければ、悪の力で欲望が増大し、権力欲、本能的欲望に支配され、動揺し、不満や怒り、憎しみ、絶望が渦巻いているような心の人間がいくら集ってもたちまちそこで混乱が生じることは確実である。
その逆に、与えられたものに感謝し、小さきものにも人間にもその人間の背後にある神にも感謝していく心には、他者をうらやんだり、憎しみや迫害、差別をもって対することも生じなくなる。
世界平和という途方もなく広い問題だからといって、まず防衛、軍備、核兵器共有などの方向に向うことは、ほんとうの平和に寄与することはあり得ない。それは脅迫し合うことで平和が来るのだなどということと同じである。 そもそも相手をこれだけの武力もっているから恐れるだろう、などと考える心がすでに問題である。刃物など武器を玄関口に目に見えるかたちで準備しておく家庭が、あちこちにできる、そんな状況に平和は感じられるだろうか。
そんな個々の人の平和とか感謝など、国際政治や戦争、国際的な平和などに何の関係があろうかと、考える人が大多数であるかもしれない。
しかし、そうした軍備の拡張で本当の平和は一体どこの国で歴史上で見られたことがあるのか、と問いたい。 むしろ日本においても、朝鮮半島や満州に軍事的圧力をかけて、支配権を奪い、さらに中国全体をも支配下に置こうとする野望を一部の政治家、軍人などが持ち、それを新聞、雑誌も煽りたてて、国民もそのような気持ちに転じていった。 しかし、それは平和の破壊であったことを、まもなく国民全体が思い知らされたのだった。
国家の指導者、そして国民の願うべきことは、軍備増強でなく、相手との話しあい、そしてそのために他国をもともにそうした話合いによってねばり強く関わり、日頃から、自分の国だけでなく、他国に対してもその災害や水、食糧危機のときに、国際的救助隊を設けて、臨機応変に世界のどの国、どんな小さな国にも助けを提供しようとする努力が、巨額の軍事増強より、はるかに安価で、かつ有効である。
大国を目指す必要はない。小さき国であっても、日本など、主食となる米作は数千年栽培しても連作障害も生じない、水も梅雨や台風、前線による雨は豊かに山野に注ぎ、恵まれた自然環境にある。
この現代のかつてなかった状況にあって、私たちが本当に頼るべきは何なのか。
それは、毎日入れ代わるような人間の評論、意見、思想などにこだわるのでなく、人間世界を超えたところからー天から響いてくる真実かつ永遠のメッセージに聞き入ることである。
西川 求さんは、2024年11月11日、召されました。
瀬棚(*)の最初の開拓者であった生出 正実さんに次いで開拓に入られた方です。
次に掲載するのは、2016年5月14日(土)〜15日(日) 徳島市で開催されたキリスト教(無教会)全国集会において、話された内容です。
(*)瀬棚とは、北海道南西部の海岸に面した地域。ほぼ奥尻島の対岸にある。
北海道 西川 求
私は静岡に生まれ、子供の頃は父の転勤で東京の荻窪や清水の折戸に住み、小学5年で実家のある静岡に帰ってきました。
中学を卒業すると山形県西置賜郡にある基督教独立学園高等学校に入学が許され、3年間、野山を駆けずり回り、農家の田植えや稲刈りを手伝い、合唱の楽しさを知り、「人の行かないところへ行き、人の嫌がることをしなさい」と教えられたのです。
そして、山深い自然の中で、 つぎの聖句に言われているように、神様の創られた自然の素晴らしさに心奪われた3年間でした。
『烏の事を考えてみなさい、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養って下さる。』
『野原の花がどのように育つかを考えて見なさい、働きもせず紡ぎもしない。
しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つ程にも着飾ってはいなかった。
今日は野に在って、明日は炉に投げこまれる草でさえ、神はこのように装って下さる。 まして、あなた方にはなおさらの事である。』(ルカ福音書12章24〜29)
3年生の夏休みにかけて修学旅行の行き先を14名の同級生で相談しました。みんなの行かないところへ行こう。北海道はどうだろうか。
1957年、60年も前の事ですが北海道と言えば、熊の出そうな鬱蒼とした原始林と開拓農家と言うイメージでした。そういう所へ行ってみたい、出来れば開拓農家で働かせてもらえないか。夢がどんどん膨らんで調べて行くと、先輩のお父さんが獣医さんで、根釧原野で働いているのを知り連絡を取り、開拓農家へ一人または二人に分かれて1週間お世話になって働くことになりました。
そこは荒漠とした未開の地といった印象で、所々にぽつんぽつんと家があり、隣の家まで1キロか2キロメートルくらい離れていました。裸馬か馬車で行き来して、僕たちも隣の家のドラム缶の露天風呂に入りに行きました。毎日大鎌を振るって牧草刈りをしました。
親方はまだ23歳くらいの独身青年でジャージー種の親牛2頭と子牛1頭を飼っていました。見渡す限りの原野が広がっており、夕日が沈むころ遠く地平線に雌阿寒岳と雄阿寒岳がうっすらと見え、「ミレーの晩鐘」を思い出させました。
実習を終え、学校に帰って来た僕に大きな変化が襲いました。それ迄は理科系の学校に進む道を考えていたのですが、あの根釧原野の開拓地が僕の頭の中を一杯にして、広大な原野を開拓してみたいという夢が膨らみつつありました。
若いとはいえ自分に開拓農家が現実に出来るのか、祈っていると不思議に力が湧いてきました。
『祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる。』 (マルコ11の24)
と示され、「祈ってなしたことは失敗してもそれは成功、神様が全て取り計らったことである」と父がいつも言っていた言葉と重なり心に響きました。そうだ神様に全てをお任せすればいいんだ。
鈴木校長先生に相談したところ、北海道にある酪農学園に樋浦誠先生という立派な方がおられるからそこへ行きなさいと。
入学が許された酪農短期大学は、広い牧草地の中にポツンと細長い校舎で教室と実験室が幾つか並んでいて150人ばかりの小さな学校でした。入学式をした翌日から3日間作業服にスコップを担いで圃場へ行き1メートル余りの深さの明渠を300メートル位掘る仕事を毎日続けました。
翌週の月曜日教室に入ってみると現場を取り仕切っていた先生が実は同級生であったり、一緒に働いて話していた同級生が実は先生であったり、全国から集まった仲間はここですっかり打ち解けて、先生と学生が同じYMCAの会員になり、学校行事やクラブ活動、対外的なキリスト者学生同盟の活動などの参加もこのYMCAの総会で決めて行くことを知りました。
半年後、生出正実さんはその会長に、僕は文化部長と選挙で選ばれました。この時生出さんとの出会いが無かったら、そして樋浦先生との出会いが無かったら今の瀬棚での農場経営や仲間との三愛活動はなかったと思い、神様が全て整えて下さり、祈りが聞かれたことを感謝しました。
そして次のみ言葉が示されました。
『測り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣業を受けました。』(詩編16の6)
実学と三愛精神
この学生時代に学んだことは実学と三愛精神であり、自ら農村に入って働く気持ちを益々強くしました。樋浦先生は「新しい農村の建設は、何としても農村に定住する青年の手によって遂行されなければならない。
…私は農村青年の前に立つとき、情熱の湧き上がるのを禁じ得ない。語りかけたいからである。言い聞かせたいものを持っているからである。」
我々は2年間、来る日も来る日もこんこんと諭され、時に口角泡を飛ばし、「無知からの解放」を、そして「理想なき人は人らしくない、理想とは何か、未来への夢である。
未見へのまぼろしである。夢なき人は人らしくない、幻なき人は人間の特異性を失っているといわねばならぬ」
と講義は延々と続き時間をオーバーすることしばしばでした。
もう一つが三愛精神です。「神を愛し、人を愛し、土を愛する」
これは、つぎの聖句と深く結びついています。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 (マタイ22の37〜39)
私が困難に出会った時、示される御言葉でした。
三愛精神の発祥地デンマーク
北欧の国デンマークは1864年にドイツとの戦いに敗れ、 国土の3分の1に相当する地域を失い国民を失い、残された国土は荒廃した僅かばかりの土地と絶望と貧困と飢餓の中に置かれました。 疲弊した国民に牧師ニコライ・グルドビー(1783〜1872)は当時80歳の高齢でしたが「神を愛し、人を愛し、国土を愛する」三愛の精神を提唱しデンマーク復興の思想を説き、明日の国民である青年教育の為に国民高等学校を創意したのです。
このグルンドビーの思想と精神に呼応した教育者クリスチャン・コール(1816〜1870)はフォルケ・ホイスコーレ(国民高等学校)を創設し民主主義教育の柱に三愛精神を据え青年教育に力を注ぎます。
また、エンリコ・ダルガス(1828〜1894)は国民の心をOutward Loss Inward Gain 「外に失ったものをうちに取り戻そう」、と説くと同時にヒース地帯に暗渠を掘り排水をよくし、樅の木を改良して何度も失敗を繰り返しノルウェー産の樅とアルプス産の小樅を交互に植える実験をし、徐々に不毛の荒野に緑の牧野が広がって行きました。
『剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。』
(イザヤ2章4〜5)
とありますが、まさにこれを実行したのでした。ダルガスの思いは長男フレデリック・ダルガスに引き継がれ親子2代にわたって、研究努力した結果、やがて森林を作り不毛の荒野は緑の大地に代わっていき国土を肥沃な農地に変えて馬鈴薯や牧草地を増やし酪農大国の基礎を作って行きます。
主に全てを捧げた信仰と並々ならぬ祈りとが働いて国の復興を成し遂げたのであります。
この事を内村鑑三が1911年に今井館で講演し、1923年に小冊子となり出版されています。
戦後間もなく岩波書店より「デンマルク國の話」として「後世への最大遺物」と一緒に再出版されました。(1946年 岩波文庫発行)
新規就農
酪農に目覚めて後、挫けそうになりながらも開拓の夢を持ち続けた10年間は私にとって必要な時でありました。
東京へ出てアイスクリーム工場で働き、八ヶ岳山麓の牧場で牧夫として働き、袋井市でデンマーク人がデンマーク式農業を教えるというのでその手伝いをし、又、北海道に戻って開拓地を探しましたがお金も信用もない若者に土地を世話してくれる人もなく、酪農学園の農場や農業高校で働き、祈って時の来るのを待ちました。
ある日、生出さんが来て瀬棚で一緒に酪農をやらないかと誘いに来ました。
瀬棚町や瀬棚農協が地域発展のため新しい人を求めていることを知り、生出さんが保証人になって下さり38ヘクタールの土地を与えられ営農に踏み切りました。 家内と1歳になる息子がいましたから周りの友人やお世話になった先生方は何も開拓地に行かなくても、ここで酪農後継者の教育に携わってもらいたいと引き止めましたが、私は自ら農民になりたい、そして信仰を共にする仲間を一人でも増やしその輪を広げたい。
まだ雪が残っている4月初め、乳牛の導入と放牧用の柵作り、牧草地への肥料撒き、農耕馬の購入と忙しい毎日でした。当時の作業は馬が全てで、畑に肥料や堆肥を運ぶのも、街まで買い物に行くのも、収穫した牧草を運ぶのも全て馬車でした。
冬になると雪に閉ざされ馬に橇を取り付け、搾った牛乳を一日おきに町まで二日分を運ぶのが日課でした。空いている日は山の高台に馬橇で堆肥を運び、馬も人間も汗をかきました。
就農して1か月が経った時、家内が腹痛を訴えて入院し危険な状態であるというので即手術をして一命を助けられました。子宮外妊娠でした。当時の農協組合長の奥さんは腹痛くらいと我慢して働き続け、同じ病気で亡くなったことを後で知りました。
その年の秋、その日は沢を挟んで隣の農家でデントコーンの収穫作業をしている時、家内が血相を変えて走ってきました。当時はまだ電話がありません。どうした、と言うと牛が倒れている。 熊が出たのではないか。若い数人の者とわが家へ走って行くと牧草地の真ん中で大きなお腹を膨らませて一頭の親牛が倒れていました。 恐る恐る近付いてみると牧草のクローバーを食べ過ぎて胃袋にガスがたまって食道を圧迫し窒息死した誇張症だと分かりました。
一番大事にしていた乳牛でした。その後も牛の事故は続きました。そのたびに、次の聖句を読みながら祈りました。
『あなた方のあった試練で、世の常でないものはない。神は真実である。
あなた方を耐えられないような試練に合わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである』(一コリント10の13)
私が酪農を始めたことを大変喜んで下さった独立学園の桝本忠雄先生が修学旅行生と共に1週間働いて下さいました。それから修学旅行生の実習は50年も続いています、
その中から新規就農した仲間が少しずつ増え、同じ志を持つ仲間が今は10軒余りになりました。
私が就農した1968年頃は北海道の酪農家戸数は4万1100戸が営農していました。現在6700戸が北海道の酪農を支えています。その中の10戸が瀬棚の仲間です。100頭200頭今や1000頭規模の酪農集団もいます。
しかし瀬棚では30頭か40頭くらいの規模で家族経営と地域の活性化や周りの農家との交流を大切にしながらゆとりある経営をしています。「300ヘクタールの土地を一軒で300頭の牛を飼うのに比べ、30ヘクタールずつ10軒の農家が30頭ずつ牛を飼うと地域は活性化され村は生まれ変わります。」
神様の成さることは目に見える時と見えない時があります。今考えると全てを神様が導いて下さり、苦しくて辛い時も泣きながら、どうしてこんな事にと思う時も、そして楽しい時、喜びを何倍にもして分かち合う時も、共に祈り神様のみ声に耳を傾ける信仰の友が近くにいることに感謝します。と同時に全国に全世界に「神を愛し、人を愛し、土を愛する」三愛の精神がみ言葉と共に伝えられることをお祈りいたします。
野中 正孝(北海道)
西川求さんが、11月11日夕方、天国に召されました。
西川求さんが突然大怪我をされたことを聞いてから、毎日西川さんのことを思っていました。この世では、お話しすることは叶いませんが天国で再びお会いする事が出来ます。私達も、求さんに続きます。
求さんは、力強く休む事なく走りきった人生でした。国中に友人がいて訪ねたり実に活動的です。とても私には、真似は出来ません。
求さんと出会った頃のことが甦ってきます。求さんが、長男の譲さんに経営移譲してから、とわの森三愛高校(旧機農高校)の教諭に復職した数年を除いて瀬棚の地でお付き合い頂きました。求さんは、独立学園の8期先輩です。
初めてお話ししたのは、妹さんのたえ子さんが独立学園の近くの橋の工事現場の側溝に落ちて亡くなられ、火葬する為ご遺体を一緒に雪道をソリでお運びした時に「4月より酪農大学に行くので、お世話になります。」と挨拶したのが始まりでした。59年前の話です。
酪農大では求さんと同じ学園内に住みました。いつも、たづ子さんが食事を用意してくださり、遊びに行っていました。私が大学2年の時、求さんが瀬棚町で酪農をすることが決まり、入植されました。その時、求さん、2歳の譲くんとたづ子さんに同乗して瀬棚に入りました。住宅は土壁がむき出しで触れると土壁が音を立てて崩れるような状態でした。
その夜、荷物からステレオを出してベートーベンの(田園)を聞きました。求さんと、たづ子さんにとって酪農を始める夢のスタートでありましたが、大きな不安のスタートだったと思います。
瀬棚での求さんは、生出正実さんとの働きを抜きには語れません。(徳島聖書キリスト集会で再販発行して下さった「砂漠にサフランの花咲く」を書かれた生出正実さんです。)生出さんの大きな働きも、西川求さんの酪農、地域の貢献も、お二人の友情、信頼無くして出来ませんでした。求さんと生出さんのお二人の瀬棚での働きによって、昨年亡くなられた木俣忠さん、河村正人さん、私、片桐哲男さんと願いが叶い入植する事が出来ました。そして現在は息子達世代が中心になって、新規就農者を受け入れる応援をしています。
昔は、三愛塾を3泊4日で年2回開催していて、其の準備の為のスタッフ会議を、生出さん宅で真知子さんの美味しい料理を頂きながら、朝まで熱く語り合いう楽しい時間をすごしました。今思い出しても当時の熱量はすごいとおもいます。
求さんとの思い出は尽きません。個人的な事を2つお話しします。
求さんは、エネルギーにあふれ、話し出すと一層熱をおびてきます。ある時、求さんが熱く話していると突然「何で野中君は、うなずくばかりで自分の意見を言わないのだ」と。求さんの勢いのもとでは、とても話し出す余裕は、私にはないのですが…。それからはなるべく話をするように努力しました。私が、色々なところで積極的に意見を言うきっかけになったと思います。
もう一つは、求さんが、至らない私を信頼して下さったことで成長する事が出来たとおもいます。学生時代に実習に行くと何でも任せてくれるのです。「朝は久しぶりにゆっくり寝るから頼むぞ。」と言って任せてくれます。それがうれしくて張り切って実習が出来ました。時には大学の掲示板に、求さんから電話する様にと連絡が来ることもありました。「牧草の収穫の手伝いに来い。」との事。
また、日高地方に牛を買いに行くので留守番を頼まれたことがありました。その時、山のてっぺんでお産があり、始めて一人で牛のお産を経験しました。牛の繁殖の本を見ながら必死でお産の介助をしました。
その後、無事産まれた子牛を肩車して(子牛のオシッコでびしょびしょになりながら)牛舎まで連れて来た事など楽しい思い出が一杯です。求さんが信頼して下さったおかげで「俺は酪農をやるぞ!」と決心したとおもいます。今の時代は、農業を始めるのに2年位は準備して就農しますが、私は大学の休みの期間位のみで殆どゼロで大学卒業と同時に酪農を始めました。求さんが色々任せてくれたので続けることがと出来たと感謝してます。
西川求さん、生出正実さん、木俣忠さんの働きを想う時、それぞれの奥様のお支えを思わずにはいられません。奥様が居て、子供達の家族があって、充実した人生がありました。何よりの最大の土台は、神様、イエスキリスト様の深い信仰があったことです。私共は、西川さん、生出さん、木俣さんを天国に送り、大きな柱を失い、残された私達に何が出来るか不安になります。私達は先人達のおもいを受け継いで信仰にかたくたつ者でありたいと願っています。
なお、長くなって書ききれませんでしたが、求さんは山を愛し、直前まで山登りをされていました。又、沢山の若者たちを育てられ、皆に慕われた教師であったことを書き添えておきます。そこで交わりのあった方々にも、求さんとの数えきれない思い出があふれていると思います。
神様から、永遠の命を頂き、生き生きとした求さんが見えるようです。
全ての時をご支配される神様から与えられる時が来た時に、またお会いできますね。私は、死ぬために生きるのでなく、生きる(永遠のいのちを頂く)為に、死へ歩みたいとねがっています。西川求さんのように。
さきに掲載した西川 求さんに関する記述にあった、瀬棚で、50年にわたって聖書集会が継続されてきました。コロナの蔓延以来、現地(北海道)と徳島での対面の集会とオンラインの合同の集会となっています。
瀬棚の野中信成さんからの連絡を次に掲載します。
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第51回 北海道瀬棚聖書集会
主催 瀬棚聖書集会
協賛 日本キリスト教団利別教会、キリスト教独立伝道会
主題 「イエスの語られていること」
私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ15の12)
世の中の混沌はますますひどくなっているような現状です。ウクライナ、ロシアの戦争は終わる気配もなく、イスラエルとハマスの戦争、から始まり、さらにそれは周辺地域にひろがり、そして東アジアでも不穏な空気が漂っています。
人同士の争いによって生み出されるのは苦しみ、憎しみ、悲しみなど目を背けたくなるような事ばかりです。
今年はイエス様の言葉が今も生きて働き続けられていることを 原点に戻って学びたいと言うことで 「イエスの語られていること」を テーマに掲げました。
共に学び、共に祈って分かち合いこの世を生きてゆく力を神様に与えていただきたいと思います。
日時… 2024年11月27日(水)午後8時開会
〜11月29日(金)午後3時終了
11月27日(水)20時開会式( 準備があるので19時半から オンライン Skype の接続開始となります)
なおスカイプSkypeというソフト名は sky(空)」と「peer-to-peer(ピアツーピア)peer とは友だち、同僚の意。それゆえ、空を越えての通信といった意味。
集会方法… せたなでは地元の利別教会会堂で集まり、遠隔地では Skype を利用したネット併用集会
(今年も Skype を使って集会をします。時間が前後する可能性があります。部分参加も可能です。具体的な接続のしかたや集会中の決まりごとは参加申し込みをされた方に必要に応じて都度連絡させていただきます。)
主な内容
1日目
開会礼拝20時〜 21時
(礼拝の後 自己紹介)
2日目 聖書講話、証し、感話第1講 10:30〜 12:00
講師 吉村 孝雄
(徳島聖書キリスト集会代表) 昼食後
第2講 12:40 〜 13:40 講師 金 鍾九
(今金利別教会牧師)
休憩後 証の時間 13:50 〜 14:30
感話 14:40 〜 15:30
3日目
特別講話 吉村孝雄
10:30 〜 12:00
昼食後 感話 13:00 〜 14:30
閉会礼拝 14:35 〜 15:00
会費は不要です。
申し込み、問い合わせ先
野中信成宛
締切 11月23日までにメール、またはファックスで
お名前、住所、電話番号、連絡可能な時間帯、メールアドレスを記入の上お申し込みください。
〇今月号は、北海道瀬棚地域の牧畜に、故生出 正実氏に続いて開拓に入った西川 求さんが召されたので、その特集号としました。
なお、私(吉村 孝雄)は、
2003年7月18日に初めて瀬棚聖書集会の講師として招かれ参加しました。瀬棚という場所すら全く知らなかった時です。 その時の瀬棚聖書集会の代表は、西川求さんの長男の 譲さんでした。そして、意外なことに、西川 求さんのお母様とは、静岡の集会で何度もお会し、ことに最晩年に車いすとなってもなお、熱心に、4人の男性の参加者に担ぎ上げられて2階の会場まで参加されたのが最後の機会でした。そのご長男と孫に瀬棚で出会ったので、不思議な神様の導きを感じたことでした。
〇 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン併用。
以下は、天宝堂集会だけが対面とオンライン併用で、あとは、オンライン(スカイプ)参加希望の方は、吉村まで連絡ください。
〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜7時30分〜9時
〇 家庭集会
@ 天宝堂集会…毎月第二金曜日 午後8時〜9時30分
A 北島集会…・第四火曜日午後7時30分〜9時、
・第二月曜日 午後1時〜
B 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12時