いのちの水 2024年 3月号 第757号
目次
・「人生の海の嵐に」 など北田康広CDの紹介 |
これは単純なことである。知識、教養、健康状態、年齢など何も関係なく、ただ自分の弱さ、罪深さを深く知る、そこからその罪の赦しを祈り願うだけで近くにきて赦しを与えてくださる。
このように、単純にしてだれでもできる道こそが、宇宙万物を創造したという途方もない神様が近くに来てくださる道となっている。
これは驚くべきこと、神のわざだと感じさせられる。
主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。(詩編34の19)
また、そのようにして近くに来てくださった神様にいつも心を寄せるだけでさらなる恵みが与えられる。
…味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、身許に身を寄せる人は。
主をおそれる人には何も欠けることがない。
主に求める人には良きものが欠けることがない。
(同9〜11節より)
ただ主の近くにとどまっているだけで欠けることがないと約束されている。
(以下は、2024年3月 3日の主日礼拝に語ったこ との一部です。)
唯一の神とはどういう存在であるか、それを知ることは人間の生涯にわたって決定的に重要なことになる。
日本においては、八百万神(やおよろずのかみ)と古事記の最初の部分で記されているほどで、「数の多き至極を言う」と本居宣長(江戸時代の国学者)も記している。
例えば、神話の人物、また信長、秀吉、家康等々のかつて武力で支配した人間や天皇、そして自然の事物―大木、有名な山、また狐や狸、人間の体の一部、さらには、戦争で、多くの人達の命を奪った軍人たちをも英霊(すぐれた神)として礼拝の対象としている。
そしてこうした事情は、外国においても似た状況があり、さまざまなものが神々として崇拝、礼拝の対照とされていた。古代のローマ、ギリシャ神話での神々というのは、まるで人間と同様な喜怒哀楽、嫉妬、復讐などをもっているように描かれている。
ローマ帝国でも皇帝を神として礼拝することを強要し、しないものを処刑するなど厳しい迫害もあった。これは、日本でも戦前までは、天皇を生きた神(現人神)として礼拝が強要され、天皇も普通の人間だと言えば、不敬罪で逮捕されたほどであった。
しかし、そうした世界的な状況において、宇宙そしてこの世界で唯一の神、しかもその神は全能で真実な愛に満ちた方であることを示された人々のことが聖書に記されている。そのなかで、とくに重要なのはアブラハムやモーセ、ヤコブ、ダビデといった人達であって、彼らによって唯一の神の存在を信じ、じっさいに体験する人達が歴史の流れのなかで、ずっと生じてきた。
(なお、アブラハムについては前月号に記したように、イスラム教でも信仰の模範とされている。)
そしてその子孫たちもその神を信じてきたが、しばしば歴史のなかで、人間がつくった像などを拝むとか、住み着いた土地の昔からの神々を信じるなど 逸れていく人達も多かった。それゆえに、過去を受けた人―啓示を受けた人々が現れてそうした状況に厳しく神からのメッセージを命がけで伝えたのだった。
そしてその旧約聖書に記されている内容も、それで完結したものでなく、部分的には、時代の状況とともに変化する内容があった。
例えば、旧約聖書のはじめの部分では、牛や羊などの動物を神に捧げることは必須のこととして記されているが、後の時代になって、そのようなことを神は求めていないという神からの啓示を預言者が受けるようになり、そのことも記されている。
他方、その旧約聖書の始めの書の一つ、出エジプト記では、神がどんな御方であるかが明白に記されている個所がある。
…主、主、憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみと真実に満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と過ちを赦す。(出エジプト記34の6)
このように、旧約聖書においてもすでに、神の本質が慈しみ(愛)と真実に満ちていることが神からの直接の啓示として記されている。
このような旧約聖書の神の愛と真実をそのままに与えられて地上に来られた存在がイエスであった。
イエスは、その神の愛と真実がどのようであるかを、地上に生きて実際に人々に示したのだった。
そしていろいろな動物を神に捧げて赦しを乞うとか清められるということでなく、ただ自分がいかに本当の愛や真実にそぐわないかを深く知って(罪を知って)、その赦しを主に祈りねがうだけで赦されることを示された。
さらに、人々から見捨てられたようなハンセン病や盲人、ろうあ者や、精神の重い病、また歩けないような人々をも愛を持って見つめ、癒された。
当時の人々はそのような人々をも宗教的に汚れたとか、神の裁きを受けたのだとか思っていたのであるが、イエスは、生まれつきの全盲の人を前にして、それは罪の裁きでもなく、「神のわざが現れるためである」と全く当時の宗教指導者たちも民衆も考えたこともない独自の視点ー神から直接に示されたことを話された。
このようなことゆえに、次のように教えられた。
…あなた方が私を知っているなら、私の父(神)をも知ることになる。…
私を見た者は、父を見たのだ。
私が父の内におり、父が私の内におられる。私が父の内におり、父が私の内におられることを信じなさい。(ヨハネ14の7〜11より)
このように、この世界や宇宙全体を愛と真実をもって創造し、導いている全能の神様とはどういう御方なのかは、地上に来られたイエスを見ることによってはっきりとわかると諭されたのだった。
そのためには、まず福音書におけるイエスの話されたこと、なされたことを学ぶことでわかる。そして、それを幼な子のような心で神の言葉として受けとる。ただそれだけで、本当の神様とはどんな御方であるかがわかると言われている。
イエスがなされたこと、それはまず病者、障がい者といった弱い人たち、また幼な子がくることを拒むなと言われたように、幼な子にもわかる愛をもってなされたこと、また、イエスの教えを聞こうと願う者には、ユダヤ人でない女性でも、立ち寄った家の女性に対してでも、真理を語られ、そこでもただ一心に耳を傾け、幼な子のような心で受けとることを慈しまれた。
そして、他方では、弱きを迫害し、差別し、またさまざまの欲望に満ちた宗教的偽善や、社会的、宗教的権力者たちの腐敗をも痛烈に指摘され、神に立ち帰るべきことを示された。
さらに、またイエスの来られたことを受けいれず、神に立ち帰ることなく、自分の欲望中心に生きるときには、国が滅びてしまうことも予見し、未来をも見通すことのできる御方であった。そして事実そのようにユダヤ人の国はローマ帝国によって滅ぼされて、世界に散らされてしまったのである。
さらに、この世界の最終的の状況まで預言し、霊的な新しい世界の到来をも預言するという、ごく身近なところ、絶望的な状況に苦しみ悩む人たちの側にきて助け、救いだすというこまやかな神の愛を持ちつつ、社会的な問題にも、世界や宇宙の未来という遠大なことにまで、深遠な洞察をもたれていた。
さらに、そのイエスが十字架で処刑されたことも、万人の罪を担って死なれたのであり、ただ十字架をそのように自分の罪を担って死んでくださった、ただそのことを信じるだけで自分の過去のあらゆる罪も赦されるという、人間の魂の根本問題についての解決の道を、みずから十字架で釘で打ちつけられて死ぬという激しい苦痛の伴うことによって開かれた。
さらには、その死から三日目に復活して、聖なる霊となって世界の至るところに存在して働くようになられた。
それは、聖なる風であり、泉のように湧いてやまない命の水でもある。
そして復活したそのキリスト(聖霊)は、使徒たちのかたる言葉により、そしてそれを受けとった当時の奴隷や身分の低い人たちからまず次々と語られ、伝えられてまもなく、ローマ帝国の重要人物の奴隷や高官にまで伝わっていくようになって、数十年のうちに、ローマ帝国の広い部分にキリストを本当の救い主、そして本当の神様を表している御方だという信仰が伝わっていった。
イエスとはどんな御方なのか、それをこうした人たちはイエスがどんな御方なのかを、福音書の内容を使徒たちによって知らされ、また実際にそのイエスの復活した姿である聖霊によって直接に示され、闇ばかりの奴隷のような生活から解放され、魂の平安と力を与えられたのだった。それは身分差別の甚だしい当時、また福祉制度や医療などもなく、さらにだれでも学ぶ機会などが与えられていない状況にあっても、その生きたキリストー聖霊のはたらきによってキリストの本質、当時の人々が受けいれてきた伝統的な神々とは全くことなる神様の姿、その本質を自らの体験によって魂深くに刻まれていったからである。
キリストが、「聖霊によってあなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14の26)と言われた通りのことが実際に無数のローマ帝国のとくに奴隷のような身分の低い人たちから浸透していったのだった。
このことは、現代に至るまで続いている。キリストは弱き者、病や人間関係の差別や迫害、孤独等々で悩み苦しむ人たちの側にいて常に力を与え、導いてくださるということを事実として体験した人たち、それがキリスト者であり、そうした弱きに泣く人は、ふとした聖書の言葉や友人、家族、また書物などからキリストを知らされ、そこから以後の生涯が根本的に変えられていった。
そしてそれは学問も家柄や年齢、職業、健康、病弱、障がいの有る無しとか一切関係なく、ただ信じるだけで与えられる。
神の聖なる霊を受けることで、そうしたこの世では大きな差別や待遇などに影響を持つことは関わりなく、最も大切な神様とはどういう御方であるかがわかるように導かれる。
私自身もその一人だった。キリスト教や宗教全般についてなにも知らなかったにもかかわらず、本当の神様のことを知ることになった。
さまざまの意味での自分の弱さ、また人間そのものの弱さ、罪深さというものを思い知らされて絶望的になっていた若き日、キリストの本質とそこから神様とはどういう御方なのかを、一冊のキリスト教の本のわずか一ページで知らされ、そこからそれまでの深い闇に輝く光を見出し、それから50数年を経た現在もその光はずっと私の魂の奥にて輝いている。
そのようなこの世のほかのどんなこともなすことのできない大きな力と慰めを与えた神の力、聖なる霊の力、それはイエスが語られたように、まさに、聖なる風でありそれが私の魂のうちに突然吹き込んできたのであり、また地下水のようにずっとこの世界を流れてきた水が私の内にも流れ込み、それが一つの泉となってそこから湧き出たものが、他者にも伝わっていくのをこの半世紀をとおして実際に見ることを与えられてきた。
自分自身がいかに弱く、また罪深くあっても、実際にいろいろな過失、罪もおかしつつも、なおそのような者を赦し、さらに受けとった福音が他者に伝わっていったこと、それはまさにその聖なる風ゆえであり、神様の業であった。
イエスを知ることは、この世界、宇宙を愛と真実をもって導き支えている神を知ることだと私自身深く知らされてきたことであった。
聖書における平和
ー旧約聖書から
現代のような各地で戦争が生じ、その影響が世界に及んでいるとき、聖書の内容の真実性、その永遠性がいっそう浮かび上がっている。
あらゆる書物のなかで最も世界的に広く読まれ、大いなる影響を及ぼしてきた聖書ーそれは平和に関してどのように語りかけているのであろうか。 ここではその聖書の大きな部分をしめるる旧約聖書について学びたい。
旧約聖書全体の基礎となっている、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記といった書物について、すでに繰り返し聖書を読んできた人にとっても、平和というイメージは少ないのではないかと思われる。
しかし、創世記においてすでに平和への道が暗示されている。第七日目を神がやすまれて、聖別したとある。
このことは、キリストの復活以降の時代において、主の復活を記念する日と結びついて、主の日となり、世界で礼拝が行なわれる日となった。
それによって、「主の平和」を継続的に与えられるための重要な場となっていった。
新約聖書には、私たちの救いを、「神の安息にあずかる」(ヘブル書四・3)という言葉で表現している箇所もある。
神の安息にあずかるということは、神の平和を与えられるということである。
そして、エデンの園においてすでに、平和への道と逆の不安への道が示されている。それは次の神の言葉である。
「 …善悪を知る(*)木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、必ず死ぬ」(創世記 2の17)
(*)以下のことは繰り返し記してきたことであるが、ここでもこの重要な記述の真の理解のためには不可欠なので繰り返しになるが記しておく。
エデンの園にあった、食べてはいけない唯一の木は、「善悪の木」と訳されているが、もとになっている原語は、単に日本語のように道徳的な善悪を意味するのではない。
これは、善と訳された原語は「トーブ」であり、「悪」と訳された原語は「ラァ」であるが、それらは、それぞれ口語訳では五十種類ほどの訳語が当てられている。例えば、トーブ については、愛すべき、祝い、美しい、麗しい、かわいらしい、貴重、結構、好意、幸福、高齢、ここちよい、財産、好き、親しい、幸い、順境、親切、正直な人、善、善人、宝、正しい、尊い、楽しむ、繁栄、深い、福祉、ほめる、まさる、恵み、安らか、愉快、豊か、喜ばす、りっぱなどと訳されている。
「ラァ」については、悪、悪意、悪人、悪事、痛み、いやな、恐ろしい、重い、害、害悪、悲しげな顔、危害、逆境、苦難、苦しい、苦しみ、汚れた、そしる、つらい、悩み、罰、破滅、不義、不幸な、滅び、醜い、物惜しみ、悪い、災いなどである。
それゆえ、「善悪の木の実を食べる」と訳された個所の意味は、通常の意味の善悪を知ることでなく、(神を抜きにして、神に背を向けて)人間的判断や直感、本能的に、自分にとって都合の良いこと、好ましいこと、逆に不快感のする好ましくないことなどの総体、 すなわち「あらゆることを(神抜きで)知る」という意味を持つことになる。
そのように「知る」ということを第一に求め続けていくならば、必ず死ぬ、ということなのである。
現代は、科学技術に関する知識が激増し、核兵器からAIを用いた兵器などさまざまの危険な兵器の開発ともなり、世界的に危険性が高まりつつあり、この創世記の言葉の意味の深さを思い知らされつつある。
それゆえに、聖書では、神を知り、その神が送られたキリストを知ることこそ、命の根源であると記されている。
そもそも、神が人を導かれるのは、何が神の御前において良い(善い)のか、を知らせ、その神の真実や愛に背く者を神に立ち帰らせることである。
それゆえ、真に物事の善悪を知ることで、放蕩息子のように神に立ち帰ることができる。
この世の根本的な善悪を真に知ることは、「必ず死ぬ」 のでなく、逆に本当の生きる道が示されることになる。
実際、神などいないという考え方に立って、科学的なこと、社会的、人間的なことを知り尽くしていこうとしてもますます将来への不安とか希望のない状態が浮かび上がってくる。その困難な状況を前にするならば、その人の精神はますます暗くなっていくであろう。
知ることを第一とするならば、「必ず死ぬ」(*) と特に強調されている。その木の実を食べることが、不安への道であり、動揺への道となるのを指し示す言葉となっている。
(*)原文では、死ぬという言葉が二回用いられて強調されている。それゆえに日本語訳では、必ず死ぬ というニュアンスになる。
アダムとエバが神が命じられたように、「さまざまのことを知る木」でなく、エデンの園にあるあらゆるよい木の実を食べることで満足していたならば、その後の動揺と不安、裁きはなかった。 このエデンの園からの追放によって、彼らの子供であるカインはその動揺と不安を受け継ぎ、そこからアベルを殺すという大罪を犯してしまう。
そのことが、カインの前途を預言したときに言われている。
「お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
(創世記4の12、14)
カインは主に言った。「…今日、あなたが私をこの土地から追放し、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すだろう。」…
カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。(創世記四章より)
この箇所を注意深く読むとわかるが、この短いところに何度も「さすらう」という言葉が出てくる。
これ以外にも「さまよい」という言葉もある。
神に背いた人間の特徴は、このようにたえず、さまよい、さすらい、動揺するということなのである。
現代においても、神の平和を知らない場合には、このように精神的にたえず、さまよい、さすらっていく。
他人がなにかを夢中になって始めるとおのずからそこへと引き込まれ、またそれが飽きると別の人に引かれていく、特別な事件が生じたり、病気になったり、あるいは死が近づいてくるようなときに、人間はどこに魂を安住させるか全く分からなくなる。
人間は、もともと「主の平和」を知らず、さまよっているものなのである。行く目的も定かでないなら、どこに向かって進むべきか分からないのは当然であろう。
こうした神に背くという罪は後の人間にも深く刻まれていくことになり、それが戦争にもつながっていった。
このように、聖書はその冒頭から人間に真の平和が与えられているのに、人間が神に逆らってその平和から追放されたことが記されている。
旧約聖書の言葉(ヘブル語)では、「平和」は、シャーロームという。(**)
旧約聖書のヨシュア記やサムエル記には、しばしば激しい戦いが記されている。 ヨシュア、ダビデなどの時代はたえず周囲の民との戦いがあった。そこでは戦いのない社会的な平和ということもはるか将来のことであり、霊的な平和ということもあまり記されてはいない。
つぎに引用する箇所も、イスラエル民族全体を「あなた」と言っていて、民族全体に与えられる平和を祈っている。
しかし、これは一人一人の個人にとってもあてはまる真理である。
この箇所で言われているのは、個人や民族、国家全体を問わず、その祝福は神によるのであり、私たちへの恵みや、平和も神から来るということである。
単なる人間の話し合いや自分の国を武力で守るなどといったことからは、神の喜ばれるような平和は決して来ない。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安(シャーローム)を賜るように。(民数記六・24〜26)
The LORD bless thee, and keep thee:
The LORD make his face shine upon thee, and be gracious unto thee:
The LORD lift up his countenance upon thee, and give thee peace.
旧約聖書のはじめの部分には、後の時代に現れるような深い霊的な平和ということは現れない。
これは平和の原語である、シャーロームという言葉は、創世記から申命記にいたる重要な五書にはあまり現れず、もっと後の時代の霊的直感の深く与えられた詩人、預言者がこの神とともにある平和を知らされていった。(**)
(**)シャーロームという名詞は、「平和」という訳語だけでなく、安心、安全、安否、穏やか、勝つ、幸福、親しい、栄える、繁栄、無事、平和、和解、やわらぎ、勝利、健やかなど、三十通りもの訳語があてられている。また、この動詞形であるシャーラムという言葉は、「完成する、栄える、成し遂げる、平和、平安、真実、正しい、全うする、満ちる」などやはり三十通りほどもの訳語がある。
これを見ても、旧約聖書でシャロームという言葉を私たちの現代の言葉のように、戦争がないという意味での「平和」という意味にだけ限定することができないのがわかる。こうした多様な意味の背後にあるのは、「完成する、全うする」という意味であって、そこから「平和」とか「安全、幸い、繁栄」といった意味が生じてきたと考えられる。神は完全な御方であり、神と結びつくとき何でも、完全への道へと導かれる。
なお、シャーロームという原語の使われている頻度は次のようである。
創世記12回、出エジプト3,レビ記1,民数記2,申命記5回であるのに対して、詩編27回、イザヤ書26回、エレミヤ書28回となっている。最初の五つの書物のうち、創世記はやや多いが、単なる挨拶的な意味で用いられていることが多い。シャーロームという言葉は、その内容が霊的、詩的な直感によって記された詩編や預言者などの文書に多く用いられているのがわかる。
イザヤ書の中から
…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・4)
この有名な箇所は、今から二七〇〇年ほども昔に生きた預言者イザヤによって書かれた。
イザヤの生きた現実の世界は、大国アッシリアが自分の国に攻めて来ようとしている危険な状況であった。 そこでは、このような剣を打ち直して、鋤とする、国と国がもはや戦争をしないなどということは、およそ考えられないことであった。 いつの時代にも、たえず強い国が弱い国を滅ぼしていく戦争はあった。
そしてそれから二七〇〇年経った現在でも、そのような状況は変わることがない。しかしそうした現実の世界のただ中で、この預言者は、ここに引用したような平和の状況が訪れることを知らされていた。
それは、政治や社会的な知識の分析や総合ではない。学問的な結論でもない。
ただ、必ず歴史はそのようになる方向に進んでいくという、神の国からのメッセージをこの預言者は聞き取ったのである。
…私は唇の実り(*)を創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。
私は彼をいやす、と主は言われる。
神に逆らう者は巻き上がる海のようで、静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。
神に逆らう者に平和はないと私の神は言われる。(イザヤ書五七・19〜21)
(*)唇の実りとは、神への讃美を表す。
このように、以前は国家や民族的な平和という意味でしか現れなかった平和(平安)という言葉が、イザヤ書の後半部では、霊的な平和、魂の平安といった意味でも現れてくる。そしてこの箇所の少し前に、つぎのように言われている。
…私(神)は、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書五七・15)
心が砕かれ、痛み、悔い改める心が神へのまなざしをしっかりと持つとき、神はそのような魂に神の命を与えられる。
その時初めて、その人は神の平和を持つことになる。 この世で与えられる真の平和とは、そうした苦しい戦いを通り、自我が壊され、神以外のどこにも救いがないことを知らされて、神への叫びと祈りをもって見上げるとき、初めて上より与えられるものなのである。
エレミヤ書の中から平和
…私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。
私を尋ね求めるならば見いだし、心を尽くして私を求めるなら、
私に出会う、と主は言われる。(エレミヤ書二九・11〜14)
これはイスラエルの人々が罪を犯して、神に逆らい続けた結果、遠いバビロンの地に捕囚として連れて行かれた。その絶望的状況にある人々にエレミヤがエルサレムから書き送った手紙の一節である。
バビロンという遠い地に捕らわれて行くというような民族解体、滅亡の危機にある人々に対して、神の御計画は決して、滅ぼすためでない、希望と平和の計画なのだと確信をもって告げている。
そうした神のご意志をエレミヤだけははっきりと聞き取ったのであった。
当時の状況は、人々の目には、最も平和とはかけ離れたものであり、このエレミヤの言葉は人々にとっては驚くべき言葉であっただろう。
預言者というのがその名の通り、神の永遠の真理の言葉を預かった者であり、その真理は当時の人々に当てはまるだけでなく、数千年の歳月と国土の制限を越えて、現在にいたるまで、私たちに呼びかける内容となっているのである。
私たちの前途にもさまざまの絶望的状況が生じるかも知れない。しかし、そうしたただなかにこのエレミヤと同じような、深い神の御計画が告げられ、そのような不幸にみえることも、決して災いのためでなく、シャーロームのため、平和のため、平安のためであること、将来には必ず神のもとによき結果となっていくのだと教えられる。
このように、聖書でいう平和(シャーローム)というものは、人間のあらゆる絶望的状況にもうち勝って、神から与えられるものである。そのことを知り、そこに希望を置くときに、人々はいかなる苦境にもうち負かされない力を与えられてきたのである。
旧約聖書では、神ご自身が武力による戦争を命じられることがしばしばあった。それゆえ、当然のことながら、武力による戦争が悪であるとは言われていない。しかし、それはすでに述べたように、ある時期までのことであって、「その時」という未来のある時点においては、あらゆる武器は廃棄されて、鍬(くわ)や鋤(すき)という、農耕具に変えられると預言されている。「その時」とはいつなのか、それは人間の予見することもできない時である。
そうした未来のいつかは分からないが成就する平和とは別に、社会的、また政治的な平和とは違った、心の深い平和(平安)への道がイザヤ書の終わりに示されている。
…彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎(とが)のためであった。
彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。
(イザヤ書五三・5)
ここで「彼」とは、はるか後に現れる救い主、メシアを意味している。
私たちが真の平和を与えられるためには、武力とか政治の変革、あるいは私たち自身の努力とか心の持ち方とかではない、まったく別の道が必要なのであった。 それはそれまで誰も考えたこともない方法によってであった。
それは愛の神、万能の神と同じ本質をもったお方を、傷つけ、苦しめ、刺し貫くといった驚くべき仕打ちを与えることによってであった。
こんな方法で平和がほかの人に来るといったい誰が想像したことがあっただろう。ふつうの人間をこのようにしたところで、他の人間全体、後世にいたるまでの世界の人間すべてに平和を与えるなど、考えることもできない。普通の人間なら、自分の心の平和すら保つことは容易でないからである。
混乱と憎しみ、そして飢えや貧困、抑圧などなど、平和とはまさに逆の状況が満ちているこの世界において、そうした闇のただなかに、神の国からの平和をもたらす道が示されたのであった。
このイザヤの預言からはるか七百年もの後、人の子であるとともに、神と同じ本質を持つという意味での「神の子」であるイエスというお方が神から送られ、そうしてそのイエスがこのイザヤ書にあるように、傷つけられ、砕かれ、実際に槍で刺し貫かれたのであった。
そしてさらにそれで終わるのでなく、その後二千年間、そのイエスの十字架の死を、私たちの罪を担って死んで下さったのだと信じるとき、実際に私たちの魂に平和が訪れることになった。
これは驚くべきことである。このような人間の魂に関わる最も重大な問題が、いまから二千七百年も昔に神の言葉として、一人の人が聞き取り、それを人々に告げて、文書として書き残されていったが、それがそのまま現実の歴史の中で、長い歳月を通して実現されていった。
そしてすでに預言者や詩編などにおいては、神からの平和を実感している人たちの経験がつづられている。
その一部をつぎに取り上げよう。
詩篇の中から
詩編では、神からの平和(平安)については多くの箇所にそれが見られるが、とくに詩編二十三編において、神から与えられる平和が、美しく表現されている。
…主は羊飼い、私には何も欠けることがない。
主は私を青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
私を正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それが私を力づける。
私を苦しめる者を前にしても
あなたは私に食卓を整えてくださる。私の頭に香油を注ぎ
私の杯を溢れさせてくださる。
この詩で言われている状況とは、主なる神が私たちを導くお方となって下さるならば、私たちには欠けるものはなくなるという実感を与えられる。それは、まさに主の平和が与えられていることである。
いかに神を信じていようとも、大きな苦しみや悩みは生じる。神の平和を与えられるとは、決してこの世の苦しみや困難が降りかかってこないということではない。
だれにも言えないような困難な問題も出てくる。そうした時にあっても、神がともにいて下さるゆえに、平和を実感する。
その平和とは、単に何も動揺を感じないという消極的な内容でなく、平和という原語(シャーローム)の原意である、「満たされた状態、完成された状態」を思わせるものがある。
「私の杯をあふれさせてくださる」とは、神が周囲の状況はいかようであれ、自分の魂の深いところを満たしてくださり、神の恵みであふれるようにして下さるということである。
また、預言者イザヤは大いなる預言者であるが、また稀なスケールをもって万物を見つめている預言者でもある。そのイザヤが最終的な平和とはなにかについてつぎのように述べている。
…ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。
荒れ野は園となり、園は森と見なされる。
そのとき、荒れ野に公正が宿り、園に正義が住まう。
正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。
わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。(イザヤ書三十二・15〜17)
このように、「平和」とは神の霊が天から注がれて初めて訪れるものであり、荒れた野は緑ゆたかな所となり、正義が宿る。 そこに永遠的な平和が訪れると預言されている。
イザヤの時代は、戦乱のただ中であり、ほとんどだれもそのような状況が訪れること夢にも思わなかっただろう。
しかし、まことに預言者は神の言葉を担う人間である。千年、二千年以上の歳月をもはるかに見つめ、必ずそのような時が訪れることを、神が与えられた視力によって洞察することができたのであった。
旧約聖書はこのように、武力による戦いの記事がいろいろ見られるが、それは決して最終的な姿でない。そのようなただ中にあって、聖なる霊が天より下って、平和、平安が訪れることを確かなこととして証言している。
それは、この世界は人間より成っているゆえに、まず一人一人の上に聖なる霊が注がれて、神からの平和(平安)が与えられるのが出発点となる。
じっさい、それは旧約聖書の時代においても、神に立ち帰った人達は、その平和を与えられたし、それはキリスト以降の時代には、民族や地域、また年齢や健康状況、また大きな罪を犯した人達…等々あらゆる人をも含むようになった。
そして、究極的な平和の世界とは、「新しい天と地」 という表現で表されている。
…見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 (イザヤ書65の17)
旧約聖書はそのように、私たちをキリストの時代へと、キリストの平和へと強力に指し示す力を持っている。
次の個所も、イザヤ書であり、そこには真の平和をもたらす御方が将来、神の御計画によって世界に現れることが預言されている。
…傷ついた葦を折ることなく、
消えかかっていく灯心を消すことなく、
真実によって公正をもたらす。(イザヤ書 42の3)
このようなあり方が完全に成就したのがイエスだった。
この世は、政治やスポーツ、芸術、テレビ、会社経営…等々、みな活躍している人、世間に知られるような人たちを重んじる。
しかし、イザヤが預言した救い主とは、傷ついた人々、病気や障害ゆえにその苦しみに耐えられなくて倒れそうになっている人達にとくに心を注ぐ御方だと記されている。
そして、人間はこの世のさまざまの場面でだれもが何らかの理由で傷ついていくものであり、病人とか障がい者のような一部の人を指しているものではない。 老年になるとたいていの人は、弱くなり、一人で生活できなくなり、傷ついた葦のようになる。
また、戦争や災害、飢えや病気で現実にその命が消えかかろうとしている人達も極めて多数存在するが、今健康で恵まれているよう名生活の人であっても、だれでも、死が一日一日と迫っているのであり、老年になるほど、病気ともなり、まさに消えかかる灯心のごときとなるのが多数となる。
そのようなときにこそ、主が一層顧みてくださる。
多くの人間が顧みないような弱さに追い詰められた状況にこそ、その救い主が近くにきてくださるのである。
このような救い主こそ、真に平安、平和を与える方であり、旧約聖書の後半部には、救い主を指し示すこのような個所がいろいろと見られる。
また、そのような心を神から与えられた人との出会いは、倒れかかっていた魂をも立ち直らせ、消えかかっていた灯火も再び力を得て燃え始めるようにするであろう。
しかし、戦争はそうした聖書の指し示す方向と決して相いれない状況を生み出してしまう。膨大な人々を傷つけ、生涯 取り返しのつかないほどの打撃を心身にもたらしていき、国土も荒廃させていく。
多くの人々には、旧約聖書など、現代の我々とおよそ関係がない、と思われているであろうが、実は、現在の戦争のニュースが毎日報道されている状況にあっては、この旧約聖書の後半部にあらわれ、新約聖書において完全な形で表されている弱き者、小さき者への愛こそが、主イエスもとくに強調されたことであった。
時間は、いつもより30分早く10時からの開会です。オンライン参加の方々は、通常の礼拝より早く接続の準備をお願いします。
また、クリスマスとイースターの礼拝は、年に二回の特別集会です。毎年のことですが、イースターメッセージ(特別講話)のほかに、感話(証し)の時間があります。感話は毎回の主日礼拝や家庭集会のときに常時行なっていますが、特別集会ではより多くの方々に、去年のイースター以来、何か特に心に残った出来事、あるいは聖句、書物や讃美歌などの歌詞、また心にある讃美歌、新聖歌などの讃美を一人または複数で歌うとか何らかの楽器などの演奏や歌との併用…等々を希望の方々ができるようになっています。(ただし、皆さんの感話を聞くことだけを希望される方は、パスすることも自由です。)
また、現在の日曜日の主日礼拝は、会場で10名ほど、オンライン(スカイプ)で県内外より40名ほどが参加しています。初めてオンラインで参加希望する方がいましたら、吉村孝雄まで電話または、メールでお知らせください。
去年は、北田康広さんの讃美CD「主の平和」が発売され、多くの方々が現在の世界の状況にあって、主イエスの約束された主の平和を祈り願いつつ、このCDをきかれた方も多かったようです。
いままでに発売されたCDのうち、以下のものは吉村の手許にありますので、ご希望の方にはお送りすることができます。
特に、「人生の海の嵐に」は東日本大震災の翌年に発売された讃美集で、多くの感想が寄せられています。 今年は、元日早々に能登半島で大地震が発生し、多くの方々が真冬の厳しさ中での災害ゆえに、その苦難がさらなる重荷となっている状況となっています。
このタイトルに用いられた讃美「人生の海の嵐に」は、大震災で多くの苦しみに遭遇した人達の心に届くようにとの祈りが込められていますので、今回の能登半島での被災者のことを覚えるためにも聞いていただきたいとおもいます。
そのため、少し詳しく内容紹介と、感想の一部などを掲載しておきます。
(詳しくは、北田さんの次のホームページ をご覧ください。
http://ykitada.com/musicpage.html)
〇CD「人生の海の嵐に」
・収録曲
1.ちいさなかごに 讃美歌第二編26番 2.朝 静かに 新聖歌334番
3.主のうしろ姿 山口博子 作詞・作曲 4.とびらの外に 讃美歌21-430番 5.主は教会の基となり 讃美歌21-390番 6.もしも私が 苦しまなかったら 新聖歌292番 7.人生の海の嵐に 新聖歌248番 8.紫の衣 谷有恒 作詞・作曲 9.二ひきのさかなと 讃美歌21-198番10.天の神、祈ります 讃美歌21-354番 11.あさかぜしずかにふきて 讃美歌21-211番 12.みどりもふかき 讃美歌21-289番 13.ガリラヤの風かおる丘で 讃美歌21-57番 14.われ聞けり かなたには 新聖歌471番 15.勝利をのぞみ 讃美歌21-471番 16.救い主は待っておられる 新聖歌188番
なお、発売以後、多くの方々がこのCDに感想を寄せていて、その中の三人の感想を引用しておきます。
〇今回の「人生の海の嵐」のCDを聞かせていただき、多くの讃美からよりすぐられた選曲で、どの曲もとてもよかったです。主の平安とよろこびを感じておられる北田さんご自身の霊的なものを受け、聞くものの心を癒してくださいます。
その中で「主の後ろ姿」と「紫の衣」の二曲は以前にコンサートで聞かせてもらった時に、とても心に残っていました。もう一度聞かせてもらいたいなという願いがあったので、今回このようにCDの中に入れてくださってとてもうれしかったです。特に「主の後ろ姿」は歌詞も深く心に受けつつ聞かせていただき、北田さんの讃美を通して改めてイエス様の痛みと苦しみ、そして十字架の愛を受け、罪赦されたものの新たな一歩をとのメッセージが伝わって感動しました。
また、「人生の海の嵐に」と「勝利をのぞみ」この2曲も東北の大震災のただなかに今も苦しんでいる方達の心に届きますように、そして多くの試練のなかにある人たちの平安と勝利を歌われているのがこちらに伝わってきて私自身も力を与えられます。
どうか、この讃美のCDを通して一人でも多くの人がイエス様の愛にふれ、闇から光に変えてくださる主の恵みに入れられますようにと願い祈っています。それから曲の解説のことですが、詳しく書かれていて、私にもその背景がよくわかるし、キリスト教のことをあまり知らない人にもわかりやすく伝道のメッセージになっていると思いました。
・CDを聴かせていただいて、 一番に思ったことは、信仰をもって歌うことの深い意味をよく知らされたことでした。
「主の後ろ姿」という歌に、北田さんの信仰が、特に滲み出ていると思い、引き込まれました。哀愁を帯びた旋律、そこからでなければ伝わって来ないイエス様のありし日の真のすがた、ありありと思わされました。
またあわれなわたしたち人間の姿も映し出されて…。でも、いつでも悲しみとよろこびは背中合わせ。そこに愛と救いを感じる不思議さがあり、何度も何度も聴いています。澄んだ声の、のびやかな歌いかた。
「朝しずかに」は信仰の広がりや、感謝、希望またよろこびに、しずかに満されていくような気がします。
「人生の海の嵐に」など、淡々と歌っているような中に、すごい真理があることを、歌を通して感じています。
「天の神祈ります」。歌を聴きながらわたしも祈ります。今のわたしたち個人の状態に、日本の状態に、世界の状態に、主よ、いま直ぐ来てくださいと。
伴奏も、素的です。他の曲も、いろいろ、聴くたびにちがうことを思わされています。真っ直ぐな、清い声。淡々と、余計な抑揚をできるだけ取去って歌っておられるのが心地よいです。それでも、深い心は充分に伝わってくるのだと思わされました。
〇本当に心にしみわたる賛美ですね。もう、何度も何度も聴いています。1枚は、悩みをかかえ、苦しんでいる友人にプレゼントしました。
「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)
とあるように、北田さんのたどってこられた多くの苦しみ、悲しみがあったからこそ、賛美を通して、多くの人々になぐさめと希望を与えることができるのですね。感謝ですね。
なお、加藤常昭氏(元東京神学大学教授、元日本基督教団鎌倉雪ノ下教会牧師。わかりやすい説教集シリーズでも知られている)がこのCDに次のような推薦の言葉を書いています。
…主に向かって喜び歌おう
救いの岩に向かって喜びの叫びを上げよう (詩編95)
北田さんはピアノだけではなく、こんなにすばらしい歌をも神に献げるカリスマを与えられている。すぐれた師匠たちに出会ったからでもあろう。
朗々と、のびのびと、神を賛美し、隣人に主キリストを紹介する愛と熱情が溢れている。
深い闇のなかにある悲しみを知っているのに、幼子のように賛美に生ききっている。私は驚き、感動している。私はここに神の愛の奇跡を見る!
・「アメイジング・グレイス」
収録曲名
. 驚くばかりの(新聖歌233番)2. 大波のように(讃美歌第二編171番)
3. 十字架より叫び聞こゆ(新聖歌120番)4. 幸い薄く見ゆる日に(新聖歌330番)5. おもえばむかしイエス君(讃美歌467番)6. いつかは知らねど
(新聖歌266番)9. 主から受けし 作詩:水野源三 作曲:武義和 10. 羊かい作詩:水野源三 作曲:竹田由彦 11. 空に光る星よ 作詩:水野源三 作曲:竹田由彦 12. 悲しみよ 作詩:水野源三 作曲:竹田由彦13. キリストにお会いしてから 作詩:水野源三 作曲:大堂二郎 14. 三色スミレ 作詩:水野源三 作曲:竹田由彦 15. GOD BLESS YOU(新聖歌198番) 16. 行けども行けども(讃美歌21 437番) 17. 如何に汚れたる(新聖歌376番) 18. 日暮れてやみはせまり(新聖歌336番) 19. 聖霊来れり新聖歌416番) 20. Amazing Grace(アメイジング・グレイス)
・「わが感謝の贈物」
・「主の平和」
なお、価格は、「人生の海の嵐に」、「アメイジング・グレイス」は定価3千円となっていますが、私どもの集会で補助をしますので、1枚千円(送料込)でお送りできます。最後の二つは最近のもので、定価は付けてなくて、自由協力費となっています。
高齢となって目がわるくなり、活字や書物が読みにくくなって負担になるという方々もふえていますし、入院、施設での生活で讃美を歌うこともできなくなっている方々もあります。 そのような場合でも、CDは一人で個室でも、また近くに人がいても、イヤホンで聞くこともできます。
また、そうした音楽を聞いてキリスト教に関心を持つかたもいますので、自分の安らぎとか好みと共に、伝道の一つの手段としても以前から用いられてきました。
あなた方が私の内にとどまり、私の言葉があなた方の内にいつもとどまっているなら、何でも求めなさい。
そうすればかなえられる。(ヨハネ15の7)