いのちの水 20244月号   758

私たちの本国は天にあります。…キリストは万物を支配する力によって

私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体とおなじ姿に変えてくださる。

                                                          (フィリピ書2021より)

 目次

 

・復活と永遠の命

・永遠に存在するもの

・弱さへの神の愛

イエスの死後与えられる

   パラクレートスについて

・信仰と愛 対馬秀夫(青森)

・お知らせ

   近畿無教会集会

 集会案内

 

リストボタン復活と永遠の命

 

 毎週おとずれる日曜日は、何をもとにして世界的に休みとなったのか、それは、単なる仕事を休んで、自由に遊び、楽しむ日ではなかった。

 それは、キリストの復活の記念として、その復活したキリストを礼拝し、その復活の力を新たに与えられるための礼拝のときとして始まった。

 それゆえに、キリスト教を信じる人も信じない人も、また日本の伝統に固執するという人であっても、みんな日曜日を休むというキリストの復活の記念日を休むということになっているのである。

 言い換えれば、それほど復活ということは、意識しない人たちにも大いなる力をもって歴史の流れにおいても影響を及ぼしてきたのである。

 キリストの復活とは、単なる昔の特定の宗教の信条ということでなく、今も世界を地下水のように変ることなく流れ続けている事実なのである。 

  イエスが神の力によって復活して、あらゆるものを呑み込む死の力に勝利された。

 その復活ゆえに、イエスは神の子であること、言い換えると、神の本質が完全に与えられていることが証しされ、その十字架上での死によりて、すべての罪があがなわれたのが信じられるようになった。

 それゆえに、復活はキリストの福音の中心にある。パウロも、「復活なくば、私たちの宣教もその信仰も空しい」といった。

        (Tコリント1514

 イエスが捕らえられるとき、イエスを知らないなどと言って逃げてしまった弟子たちであったが、その罪が赦され、聖霊を豊かに注がれて、命がけで福音を宣べ伝えるようになった。その福音伝道の出発点は、キリストの復活を伝えることであった。(使徒言行録22432

 イースターはその記念の日である。復活こそ、すべてを新しくする力がある。あらゆる闇の力を打ち壊していくことが復活である。

 聖書には、復活について多く記されている。イエスは復活し、今も生きておられる。そして、わたしたちと共にいてくださる。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(Tテサロニケ五・10

 日本や世界の情勢、どこを見ても光が見えないような状況がある。この世のことだけを考えていたら、闇に包まれてくる。しかし、イエスの復活を信じるとき、見えざる翼が与えられて、神の大いなる力の世界へと導かれる。

 イエスは言われた。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。

 このことを信じるか。」        (ヨハネ十一・2526

 この言葉は、世の終わりに復活することは信じているーと言ったマルタの言葉を修正するように言われたのであった。

 「世の終わり」まで復活しないのでなく、いまキリストを信じるだけで、決して死ぬことがないー永遠の命を与えられるのだと言われている。 復活したときの命は、永遠の命であり、神の持っておられる命である。その永遠の命が信じるだけで与えられるという、驚くべき言葉である。

 それゆえに、イエスは「このことを信じるか」と言われた。

 そのイエスの言葉を受けて、マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」と答えたのだった。

 それまでは、いつか分からない世の終わりに復活するということは知っていたと話したマルタ、ただ信じるだけでいまその復活して与えられる永遠の命が与えられるということは、まったく知らなかったと見える。

  世の終わりについては、聖書でもさまざまな意味をもって用いられている。それは、現在であり、また未来の時でもあると重なり合うように言われている。

 

 世の終わりということを、この地上の世界の終りとするなら、太陽の寿命の終りが地上の世界の終わりともなる。とすれば、それは遥か50億年ほども未来のことになってしまうし、地球の終りも当然それまでだということになる。

 そんな終りのときに復活するというのは、聖書の神の愛と真実の本質とは相いれない。

 愛とは、絶えず生きてはたらくものであり、人間を死んで実体のないまま、はてなき長時間放置しておくなどということは、考えられない。

 さらに宇宙全体の終りとなれば、そんな事態が存在するのかしないのか、そんなことは、人間の小さな頭脳で、しかもすぐとなりの人間の心のなかさえ分からないこの著しく限界ある人間の頭脳でそのような広大な問題を扱うことが可能なのか、それが正しいかどうか実験することもできないのであり、学問的にもいろいろと見方が分かれており、確たることは言えないし、いずれにしても途方もない未来のことになってしまう。

 

 未来のある時に世の終わりが来るということは、使徒パウロも自分が生きている間にやってくるというほどにすぐ近いと思っていたことが次のように記されている。

 

 …主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、その後、生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ…、 (Tテサロニケ417

 

 けれども、じっさいはパウロが生き残っているうちにキリストの再臨は起こらなかった。このように、この世の終わりに関しては、使徒パウロも十分な啓示を受けていなかったことを示しているし、主イエスご自身も、次のように言われている。

 

…「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。(マルコ1332

 

 このように、意外なことであるが、天使や神の子たるイエスさえ知らないと言われているほどであるから、使徒パウロも当然知らないはずである。

そして、神の国は遠いいつかわからない未来のことでなく、現在すでに存在しているとも言われている。

 

…ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。

「神の国は、見える形では来ない。…実に神の国はあなた方のただ中にあるのだ。」(ルカ172021より)

 

 ここで「あなた方のただ中」とは、あなた方の心の内、またあなた方の生きている社会のただなかに神の愛と真実の御支配はすでにある、という双方の意味が重ねられている。それは、次のイエスの言葉にもみられる。

 

…わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来ているのだ。(マタイ1228

 

 イエスはじっさいに悪の霊を追い出している(マタイ1222)ゆえに、神の国がイエスが来られたときにすでに到来していると言われている。

 聖なる霊の働きによって、悪の力が追い出され、神の愛と真実の力がはたらいているとき、すでに神の国は人々のところに来ているといわれている。

 時間の中で「いつなのか」と考えても問うても、その答えは与えられない。

 私たちにとって重要なのはそのような問いかけでなく、それは、「聖霊があなた方に、すべてのことを教える」(ヨハネ1426)とあるとおり、言葉や論理を越えた霊的な直感で教えられると約束されていることを信じていく道である。

 

 イエスは、福音伝道の最初に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4の17)と言われたが、その伝道の基本的精神をこの一語に総括されている。

 この原文は現在完了であり、単に近づいただけでなく、すでにそこに天の国はある、という意味が込められている。

 それは、言い換えると、すでに世の終わりはイエスの到来とともに来ているのだという意味を含むのである。

 ここで、「悔い改め」とは、日本語では、一般的に用いられている意味は、「以前に悪かった点を反省して、改めること」(日本国語大辞典)であるが、このギリシャ語のもとにあるヘブル語のこれに相当する語は、旧約聖書でとくに預言書で繰り返し用いられている重要語で シューブ shubである。

 このシューブは、「(神に)立ち帰れ」と訳され、魂の方向転換を強くうながす意味をもって、多くの個所にみられるがその一例をあげる。

 

 …主なる神は、こう言われた。

「あなた方は、立ち帰って、静まっているならば救われる。

安らかに信頼していることにこそ力がある。」

            (イザヤ3015

 ドイツの旧約学者のデリッチのヘブル語訳新約聖書は、イエスの最初の宣教のときの言葉「悔い改めよ」の個所においても その 方向転換を意味するシューブを用いている。

 「悔い改める」のギリシャ語の原語は、メタノエオー meta noeo であるが、この語もヘブル語同様に、以前の悪かった個々の点を反省して改める というより、魂の方向転換を意味している。

 前述の日本国語大辞典においても、悔い改めと訳される言葉について、「キリスト教で、神の恵みにより、罪の赦しを得るために、自分の罪を認め、それを詫びて心を神に向きかえること」と記している。

 それゆえに、英訳でも、repent(悔い改める)という一般的な訳語とともに、原語の意味を汲んで、心の方向を変える(a change of mind)と訳しているのもある。

 

 イエスからの直接の言葉によってマルタはただちに、復活の命ということは、いつか分からない世の終わりに与えられるのでなく、いまイエスのその言葉を信じるだけで与えられることに目が開かれたのだった。

 現在の私たちにおいても、さまざまの学者や人間の意見、感想などによっては、復活や十字架による赦し、あるいは真理の永遠性や普遍性、悪の最終的な滅びなど、いくら繰り返し読んでも聞いても、そうした根本的に重要なことは だからといって信じるようにはならない。

 直接に生きて働いておられるキリストからの語りかけによって、その恵みによって信じることができるようになる。

 私自身、人の説明だけでは到底信じるようにはならなかった。主の力が、そのわずかの聖書の言葉とそれについての短い説明を通して私に働いたから信じるようになったのであった。

 パウロというキリスト教史上最大の働きをすることになった人物も、キリスト教の真理をまったく受けいれられずに、キリストを信じる人たちを迫害しつづけていたのだった。

 しかし、復活したキリストの光とその直接の語りかけを受けて、ただちに回心した。そしてキリストの最も大いなる働き人となった。

 死んでも死なない、これはすべての人間を取り巻く死の力にうち勝つということである。

 さまざまの事故、災害、あるいは犯罪や戦争によって断たれるようなはかない命であっても、全能の神を信じ、それゆえにその神のわざである 復活を信じるだけで、そうしたあらゆる死の力に勝利して、永遠の命を与えられる。それゆえに、勇気を出せ、とイエスは最後の夕食の時に言われた。過去にどんな罪を犯そうとも、どんな病気になろうとも、永遠の命の世界にうつしていただけるのである。

 イエスは、井戸端でたまたま出会った女に言われた。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 

 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ四・1415

 復活されたキリストが、私たちの心の内に住んでくださるとき、そのキリストから活きた水が湧き出てくる。キリストを信じて集まるとき、そこに復活したキリストがいてくださる。ここから、命が湧き出ている。

 それゆえに、その永遠に至る水を求める必要がある。じっとしているのではなく、求め続けていくのである。

 日本の万葉集、方丈記、また平家物語等々には、人間世界のこまやかな情や自然への共感などはさまざまに記されている。それとともに、しばしば世の中の移り変わりの空しさが記されている。 そこでは、未来における確固たる希望の光はない。

 私自身、若き日に、漱石、?外、芥川、島崎藤村等々の日本の代表的な文学とされるものを次々と読んでいったが、それらによってはまったく永遠の光というものを感じることはできなかった。

 そこには、人間を超えた存在ー天地万物を創造した神への魂の叫び、そしてその神からの愛と真実な語りかけというものをそうした文学からは全く知ることはなかった。

 それと全く異なっているのが聖書の世界である。聖書全巻二千ページにわたって、いたるところで、神からの語りかけが記され、その愛や真実が記され、またとくに詩篇には、人間の側からの真実な叫びや祈りとその応答が豊かに記されている。

 それは、単に人間の感情に留まらず、その背後におられる愛の神が語らせているのが感じられる。それゆえに、聖書の詩は、人間の感情の記述のように見えながら、実は、神の言葉だとして聖書に含まれているのである。

 この世界が、いかに闇と混沌であろうとも、そこに光あれ、と言われたらそこに光がある。

 その光は幼な子のように、信じるだけで、与えられるのである。神とキリストを信じるだけで、永遠の命が与えられる。

 どんなに一人になっても「あなたは、ひとりではない」と言ってくださる神。人間に求めても、限界がある。しかし、神が共にいてくださるとき、それは、限界はない。共にいればいるほど、その良さがわかる世界である。

 この世の、目に見えるものばかりみていたら、霊の目が閉ざされていく。日常身近に与えられている自然のなかで、また、御言葉に触れて、日々目を開かれる必要がある。

 すべての人が、キリストの復活の命ー永遠の命をいただくことができますようにと願いつつ、わたしたちも常にその復活のいのちを求めていきたい。

 そのために、 毎週の日曜日の礼拝、それこそはこの復活の記念として世界の人々に与えられてきた日であり、その礼拝を重んじて歩むことは、復活の力をさらに与えられることにつながっていく。

 

リストボタン永遠に存在するもの

 

 日本の名高い物語、平家物語もその巻頭には、次のようにある。

「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり」(*

 

*)祇園精舎とは、釈迦が説法を行った寺院。「諸行無常」とは、世の中のいっさいの造られたものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ。(日本国語大辞典)

 

 これは、寺の鐘の音の響きは、それ自体がすべてのものは移り変わっていくことを実感していた人の言葉である。

 このような屈指の長編文学の最初の言葉を何とするか、よほど考えた末のことであったろう。この類まれな文学的能力に恵まれた人も、その能力が見据えたのは、万物が無常(常無し、永遠で常に変わらぬ永遠のものなどは無し という意味)という、仏教の根本主張の一つであった。

 これに対して、聖書が与える根本的真理は、万物は永遠の存在たる神の創造によるということであり、永遠的に変わらないものは厳然として存在する ということであり、重要な違いがある。

 聖書においては、すでに今から三千数百年も昔のモーセの記事のなかに、神とは、「存りて在るもの」(出エジプト3の14)ーすなわち永遠に存在するということがその本性なのだと記されている。

 そしてこのことは、キリストによっても、引用するかたちで言われている。

 

…私が「在る」 ということを信じないなら、あなた方は自分の罪によって死ぬことになる。(ヨハネ8の24

 

…「私は在る」ということをあなた方が信じるようになるためである。

            (ヨハネ1319

 聖書は、その永遠の存在者のご意志が記されている書であるゆえに、その主たる内容は、永遠である。

 キリストご自身、次のように言われた。

 

…天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタイ2435

 

 そして、この世のあらゆるものは、衰退し消滅していくが、唯一そのようにならないのが、神であり、その本質をうけているキリストも同様であり、さらには、そのキリストを信じて、キリストを自分の内に住むようにしていただいたキリスト者もまた、肉体の死とともに滅びるのでなく、永遠の存在としていただける。

 

…私たちは皆、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく。これは主の霊の働きによる。

      (Uコリント3の18より)

 

…キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい(*)体を、ご自身の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。         (ピリピ3の21

 

*)「卑しい」と訳された原語(ギリシャ語)は、タペイノーシス tapeinosis で、これは、旧約聖書のギリシャ語訳にも多く用いられていて、misery(見るに忍びないほどの悲惨な状況、)、苦しみ、圧迫といった意味で、例えば distress (詩編11950 affliction (同11992)などと訳されている。

 もともとこの原語は、低くする という意味。それゆえに、現在の訳、私たちの「卑しい」体、などという言葉は適切とはいい難い。卑しいとは、身分や地位が低いという意味を持つが、それだけでなく、蔑視するとか、下品、欲望的…等々の意味でも使われるから、多くの人は用いることは少ないと思われる。

 

 「私たちの卑しい体」と訳されているがその意味とは、私たちの肉体はちょっとした病気でも死んでしまうし、長く生きても百年も生きられないし、死後はたちまち虫が発生し、悪臭のなかで、腐敗し骨ばかりとなっていく、そうしたみじめな、弱い状況を意味している。

 そのような死によってたちまち腐敗するみじめなものだが、それが全能の神の力によって永遠のキリスト、神と同じキリストと同じような栄光の形、すなわち、腐敗することなく、完全な清さ、愛や真実に包まれた存在となるといわれている。

 

 現在、世界で、権力者が武力で攻撃し、そのため自分が住んでいる土地から国内外に逃げ出したり、追放されたり、迫害や飢饉を逃れるために移動せざるを得ない難民、避難民の人たちは、一億人を超えている。(UNHCR 国連難民高等弁務官事務所による)

 それらの人たちは自分の国といえども、安住することもできず、国内外に避難しても、居住に適当なところならすでに人が住んでいる。そのため、難民たちは、まともに生活できない水も電気もないようなところに逃げ込むしかないという状況の人もたくさんいる。

 そうした状況で、極度の飢えや渇き、病気、あるいは銃弾や暴行によって命を奪われていく人たち、その人たちはどうなるのか。

 それは、もし永遠かつ愛と真実の神が存在しないなら、死して、その体は動物に食べられ、あるいは腐敗し、それによって一部は気体となり、空中や地中に入っていく。さらに、気体にならない物質、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、カルシウム等々は、地中に溶け込んでいってしまう。

 火葬となっても、燃えて気体になるものは空中に飛散し、気体にならない金属化合物は灰となって残り、多くは捨てられ大地に帰っていく。

 このようにして、人間を構成している物質的側面は大気中、また大地のなかへと拡散、あるいは溶け込んでいって跡形もなくなってしまう。

 けれども、永遠の神が存在し、かつその本質が愛であるのならば、その神は憐れみの神であるゆえに、そうした難民として死していく人たちをも、御国へと復活させることを信じることができる。

 難民たちは、祖国にては住めなくなるほどの貧困や治安の荒廃の犠牲者であり、祖国というべき国もなくなる。

 しかし、愛の神、永遠の神のおられる天の国こそが、そうした人たちをも迎えてくださるであろう。

 私たちにとっても、現在の国とかその境界などは、人間が人為的に決めたものであって、歴史のなかでしばしば変えられてきた。

 東北、北海道地方なども、もともとはアイヌの人たちが住んでいた。それを武力で攻撃し、滅ぼし、あるいは追いやってついには彼らの居住地や仕事まで制限して、その結果現在のようにごく少数の人しか残っていない状況となったし、沖縄にしても、いまは日本という国に属しているが、それも江戸時代初期からの、武力による弾圧を経てそのようになされたのであった。

 このように地上の国というものは、ごく一部の権力を持った者たちの命令によって武力によって境界が作られていく。それゆえに戦争が発生して強力な武力を持った国によって国境が変更されていくことは常に生じていたし、民族そのものが混血して消滅していくこともあった。このことは、世界のさまざまのところで生じてきたことである。

 地上の国は、武力で守り、あるいは失われることもある。

 しかし、それと全く別の国があるし、民がある。

それが、神の国であり、神の国を国籍とする民である。

 

 …我らの国籍は天にあり             (フィリピ3の20

 そして、神の国の住民たちは、皮膚の色、身分、経歴など全く関わりなくともに兄弟姉妹であり、キリストを霊的な王として仕える人たちとなる。

 キリスト者は、それぞれ属する国を持ちつつ、あるいは属する国が失われた難民の方々であっても、神の国を国籍として、神の真実、神による希望、そして神の愛といういつまでも続くものを与えられている。

 それと共に死後も、天にあげられ、キリストと同じ栄光の姿とされて永遠の存在とされる。

 そして、キリストが言われたように、信じる者は、死ぬことがない存在として、神とともに天において永遠的存在となる。

            (ヨハネ1126

 

リストボタン弱さに対する神の愛

 

 ああ、幸いだ。弱きを顧みる人たちは!

主は、苦難のときに、そのような人たちを逃れさせてくださる。

主は、その人を守って命を与え、

この地で、祝福された者とされる。

そして、敵の手に渡さない。(詩篇41の2〜3)

 

 「幸い」と訳される言葉の原語は、アシュレー で、これは詩篇の最初にあるのが、このアシュレーという言葉でもあり、この一言は、詩篇全体を象徴する役目をになっている。

 この世は、さまざまの時代にあって、どのような国であっても、なお、その一生において耐えがたい苦しみや悲しみに遭遇することは数多くある。苦難は人間にとって普遍的なものである。

 ことに、現在自分の住んでいる国や地域でいることができず、国内外での避難民、難民となっている人たちは一億人を超える状況にあり、その人たちにおいては、ああ幸いだ、でなく、ああ苦しい! とか悲しい、空しい、寂しい!というのが非常に多くの人達の心の叫びとなっているであろう。 また、経済的には世界的に豊かな日本であっても、以前から自ら命を断つ人は非常に多く、その未遂までふくめると年間数十万人とも言われる人たちもそうした苦しさと孤独のゆえと思われる。

 昔は、日本でも、また世界においても、干ばつや大雨などの災害、また戦争などで、食料危機、病気、怪我、貧困等々は現代よりはるかに深刻なことも多かったと思われる。

 

 それにもかかわらず、今から数千年前に作られたこの詩集の冒頭が、「ああ、幸いだ!」という言葉であることに驚かされる。

 ここで幸いと言われているのは、「弱きを顧みる人」である。その弱きを顧みる心はどこから来るのか、一時的に弱い人を顧みるのは多くの人たちにもともと神が与えてある心情である。とくに、自分の子供とか家族を大事にするのは動物でも持っている本能として与えられているが、関係なき弱い人たちを顧みる心情はほとんどないか、あってもごく一時的である。

 それは、戦争という事態になるとはっきりしてくる。弱い人を顧みるどころか、弱く苦しむ人を大量に作り出してしまうような人間になってしまうし、背後の国民もまた敵国とされた人たちがいかに苦しみ嘆くことがあろうとも、そのような事態をむしろ大喜びするという状況になる。

 それゆえに、この詩編で言われているような弱き者を顧みる普遍的かつ持続的な心は、どこからそのような心を与えられるのかということになる。

 この弱き者に関することはさまざまの弱さが聖書全体にたいして書かれてある、これは人間が本質的にいろんな意味でどこから見ても実に弱い存在だからである。そうした状況の人間に対しての神のお心が、はるかな古代からはっきりと言われている。

 

…ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。

「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神…」(出エジプト34の5〜6)

 

 モーセに直接に神が告げた言葉、神の本質をはっきりと初めて告げたのがこの個所である。主は、主の御名を宣べた。聖書において、「名」とは、単なる名前のことでなく、その本質を意味している。どこの世界でも、あがめる神々はたくさんあった。しかし、このモーセに告げられた神こそは、唯一の神であり、その本質はヤハウェという名のように、永遠の存在者であるということがまず繰り返され、それから具体的にその本質の内容が宣言されている。

 そのヤハウェなる神の本質とは、まず、憐れみ深くとある。それは、弱き者に対する愛を言ってることであり、それが最初に置かれている。

 人間は、本質的にいろんな意味で弱いからこそこのように言われているので、そして忍耐強くと言われているのはそういう愛の神様に立ち返ろうともせずにたえず自分中心に生きている。そのような人間に対して神は、見捨てることなく、その憐れみゆえに忍耐を持って臨んでくださる。

 恵みという言葉は日本語ではいろんな意味で使われる。聖書の世界においては人間の根本問題である真実や無差別的な愛(隣人愛)なき人間の状況ー罪を赦すということが、とくに中心的な内容として言われている。

 神のそうした恵みにより、忍耐をもって見つめてくださり、罪深き人間も救われる。恵みにより信仰によって私たちは救われる。人間はそうした何らかの罪を互いに指摘して裁きあうことを繰り返している。小さな子供のときから互いに悪口を言いあったりする。

 しかし、神はそれをすべて見抜いたうえで赦してくださる、そういう意味でこの恵みということは赦しということといつも関りを持っている。

 それゆえに、すでに引用した節のすぐあとに、その憐れみ深く恵み深い神は、第一に罪を赦す神だと記されている。

 こうした正しい道を歩めないという意味の弱さ、それが根本問題である。そしてそれ以外にすぐに病気とか怪我で動けなくなる、少し食物を摂らないと衰弱してしまう、何か悪口言われると憎み、自分の親がいろいろと乳児のときから実にさまざまの配慮をして育てても感謝もしないで当然と思う、また老年になるとみな体力、知的能力も衰え、何もできなくなっていく…人間の弱さというものは、肉体的な弱さから精神的な弱さまで、だれにでもどこにでも見られることである。

 さまざまの犯罪や人間関係のあつれき、私たちの苦しみや悲しみ…それは戦争という事態になれば、何万、何十万という人たちに及び、大国同士の戦争では数千万という人たちが殺傷され、前途ある生涯が断ち切られ、また残された兵士たちも生涯その大きな罪に苦しんだり、家族とも心身に永続的な闇がつきまとうようになることも多い。

 結局、こうした戦争のおびただしい犠牲も、突き詰めると、人間の弱さが根源にあるゆえだと知らされる。

 しかし、健康で親も家庭もよくて学校でも成績が良かった場合には自分がほんとうに弱い者という深い感じは持つことができない。5060歳になっても病気もまったくしない、ずっと健康だという人も相当数いると思われるが、そういう人は自分の弱さを思い知らされることはなかったという人もいるであろう。

 そういう人は、神の憐れみ、といわれても何か深くは感じないということが残ると思われる。あるいは、自分はほとんど罪を犯していない、正しく生きてきたと思ってる人であれば、罪を赦すのが神様の愛だということもよくわからない。

 私たちは、病気や事故、災害などで苦しみ、また自分が正しい生活を本当の意味でできてなかったー罪がある存在なのだと、身体的、また精神的な弱さを思い知らされて初めて、神の憐れみ、その慈しみ、愛を実感するようになるままとなる。

 神がそうした人間の弱さを深く顧みてくださるゆえに、神を信じてそのような心を少しでも神から与えられてはじめて、「憐れみ深い」という心が生まれる。そうして与えられた他者の苦しみや悲しみに共感し、そこに神の愛が注がれるようにと祈る心が憐れみの心であり、それゆえに、神は祝福される。

 単に、弱い人を大事にする人は幸いだ、と言われても だれでもその人自身が弱いので、自分自身が病気が非常に苦しくなったら他の弱い人のことを考える余地がなくなる。その弱さや痛みを神様助けてくださいと詩編でもよくあるように、だからほんとうに弱い人を思いやるということは神様の愛を深く受けていなければできない。

 そういうことで、この詩編にある「ああ幸いだ、哀れみある人…」と言われている背後には、まず神様が無限の憐れみのあるお方だと、自分の肉体、あるいは霊的な部分において両方弱いということを知らされ、罪赦されまた憐れんで見捨てないで力付けてくださるのはそのような神様だけなのでそこで初めて神様の憐れみ、愛は真実だと分かる、そういう人は、以前はまったく無視するか気づかなかった弱い者に関心を自然に抱く、その弱い人が神様を知って強くなるようにという願いが自然に出てくるということになっていく。

 そういう意味で聖書全体は弱い者の世界それを赦しまたそこに力を与える神様ということを全体として書いてあることが分る。

 聖書の最初の創世記の巻頭において、この世界が 真っ暗闇であり、かつまったくの空しさで覆われていたことが記されている。

 

*)新共同訳では「混沌」と訳しているが、外国語訳、例えば英訳の40種以上ある中で、caos(混沌)と訳しているのはごくわずかであり、圧倒的多数は、formless and empty (NIV他) without form, and void (KJV NRSNJB)のように、原語に則して訳されている。それは、この個所の原語がトーフーとボーフーという二つの言葉であり、ともに、vacantとかempty、空しい、空虚、何もない、という意味だからである。それゆえ、日本語訳でも口語訳は「形なく、空しい」新改訳は「茫漠として何もない」と訳されている。新共同訳では「混沌」と訳されていたが、混沌とは意味が異なる。例えば現在の政治 世界情勢が混沌としてる、それはどの方向へいくのか、まったく分からないといった意味であり、辞書でも「漠然とした広がりの中に何かが雑然と入り混じっている状態」と説明される言葉である。それゆえに、空虚、何もない、というのとは異なる。そのため、新たにその改訂版としての聖書協会共同訳では、別訳として「形なく、空しく」と書き加えた。

 

 聖書の巻頭にある言葉ゆえに、その理解はより原語に沿ったものであるべきで、空しく形なく、そうした空虚そのものであって、かつ完全な闇だった。これは人間の心にもそうした状況に陥ることがある。

 人間の弱さのゆえに、盗みや不正なことをして表ざたになったら犯罪として知られたりする。

そうでなくても、人間関係の中でもそういう弱さが出てきて人間関係も壊れていくことがいたるところで生じている状況である。

 そのようなことからも、人間の心も闇に包まれていると言えるし、空しさ、また荒涼とした状態がある。それは弱さから生じている。何らかの分野で力があるように見えても、事故、病気、または親族や親しい人が犯罪に巻き込まれるならたちまちその弱さゆえに大きな影響をうけていき、力のなさが明らかになる。

 人間がそういうものだからこそ、神が「光あれ」との言葉によって実際に光が生じた、真っ暗闇だったのに、光をしっかり見るに至るというのは、これこそが、弱さの中の力、強さになる。 心の中が本当にまっ暗な状態になるなら、生きていけなくなる。戦争していなくて、表面ではとても平和な日本でも年間2万2千人ほどもが自ら命を断っている。

 それゆえに、外部から責めてきたらどうする…などといって巨額の費用を軍事費に投入するより、本当に人間の闇をなくすることに力を注ぐことこそが重要である。

 防御だと称して戦争をはじめることによって、さらに比較にならないほどの計り知れない深い闇を自国と敵対する両方の国に生み出し、さらにそれに関連する国々にも波及することになっていく。

 国民の命と財産を守るための防衛費増強だとよく言われるが、現実に数万人も毎年自ら死んでいくことに対して、そうした命を守るために、どれほど政府や教育関係の機関が力を入れているだろうか。学業成績やスポーツ、またIT関係の教育などには力を入れているが、肝心の若い世代の魂の闇に光をあてることにはあまりにも無関心である。

  弱き者と創世記の混沌と光のことは一見あまり関係なさそうな気がする人もいるかも知れない。しかし、聖書はじつに驚くべき書で、表面的には歴史や地域の特殊なことのように見えることが、じつはあらゆる人間に根本的な重要なことが含まれている、私たちに関係のないことのように見えても、実はその意味や指し示すものは、どこまでも奥行きがある。

 人間の心の弱さ、それがひどくなっていくと、心は空虚となり、荒涼とした心になっていき、心は闇に覆われていく。そしてそれを忘れようとして、さまざまの空しいこと、悪しきことに入っていく。それはネットなどでも不正行為、また酒に溺れるとか麻薬、男女の不正な関係、いじめ、…等々。

 そうしたあらゆる弱さとそこから派生するさまざまの悪事への根本的な解決の道こそ、神がその闇に送っておられる光を受けとることであり、そのためにみずから心の扉を開くことである。

 そしてその神からの光は、日常生活の中でも、大空の澄んだ青さ、花々の純粋な美と清い姿、また海の広大な広がり…等々の身近な自然のなかにも神の光を指し示すものが毎日のように私たちの眼前に現れる。

 そうしたことも、私たちが人間世界のさまざまの汚れから脱して、清いこと、美しいことの根源たる神に立ち帰り、その光と力をうけることへとの呼びかけに他ならない。

 

 

リストボタンイエスの死後 与えられるもの(パラクレートス)について

 

 主イエスが十字架で処刑されたのち、三日目に復活し、そのあと、父なる神のみもとに帰られて、そこで永遠の存在となり神と等しき御方となった。

 その天にかえったキリストが生前に約束した言葉がある。

 

…わたしは父にお願いしよう。父は別の「弁護者」を遣わして、永遠にあなたと一緒にいるようにしてくださる。

 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。(ヨハネ141619

 

 キリストは死んでそのままになったのでなく、復活してそのことが記念されるようになり、その日が日曜日であったので現在に至るまでキリスト教の礼拝は日曜日にされている。二千年続いている大きな意味がそこにある。

 そして生前にイエスは、自分が処刑されて地上からいなくなっても、父なる神は別の「弁護者」を送ると言われた。それは人間でなく、真理の霊であり、目に見えない存在であり、後に聖なる霊、聖霊といわれるようになった。

 しかし、生前にイエスが用いられた言葉は パラクレートスというギリシャ語であった。それはパラ(そば)、クレートス(呼ばれた者)から成っている言葉であり、そばにきて、相談、助言、励ましなどのために呼ばれた者 というのがその言葉の意味するところであった。

 しかし、この言葉は聖霊を意味しており、聖霊は呼ばれて初めて来るのでなく、聖霊のほうから風のように神のご意志にしたがって吹いてくる。訪れてきて、さまざまのはたらきをする存在である。

 それをどのような言葉でもひと言では足りないために、この訳語もさまざまである。

 新共同訳では、この重要な存在を「弁護者」という訳されているが、これはこのとくに重要な言葉の訳語としてはその本来の意味が伝わりにくい訳語となっている。

 なぜかというと、イエスが復活して来られる、聖霊として来られるその存在は、神と同じ存在として来られるのであり、完全な愛、力、命をもって来られる御方である。

 そのような御方を、法律的な文脈でしか使わないような 弁護者 という訳語では、たいていの人が、弁護士を連想するであろうが、弁護士は法律的な問題の処理という 多くのひとたちに特別の問題がしょうじないかぎり、日常生活には ほとんど関係のない職業の人達である。

 そのうえ、弁護者といっても何を弁護するのか? とすぐに思われる人も多いのではないかと感じる。人は罪深く、その罪の裁きを受けるのでその弁護する存在ということになる。

 しかし、すでにキリストの十字架による罪の赦しを信じたものは、神に義とされ、裁かれないというのが福音である。

 それゆえに、まだ信じても赦されていないかのような弁護者となってくださる、といわれても十分に納得しがたい。

  日本語訳では、長く用いられてきた口語訳や新改訳はともに「慰め主」と訳している。文語訳は「助け主」。

 この弁護者と訳された重要な言葉の本来の意味は、私たちの側に来てくださって、深い悩み、苦しみをも解きほぐすように慰め、そこから立ち上がれるように力を与え、励ます存在であり、だれにも言えない悩みや圧迫をも訴えて助けを求める相手でもありーそれゆえに、大いなる カウンセラー Counseor とも訳される。

  また、Comforter これは人間ではできない慰め、また力を与える御方であるゆえにこのようにも訳される。もともと comfort とは、com fort(力を意味する語で、fortress 砦 )から成っているように、力付けるというのが本来の意味であった。

 また、Helper ヘルパー  とも訳されるが、日本語では職業名として広く知られていて、そのイメージが強くなって聖書の意味としては適しない感じを持つ人もいるかと思う。しかし、これもこの訳語は、大文字のHelper であり、万事に付けての助け手であり、困難や苦しみ、またいかに生きるべきかの道に迷ったとき、病気で苦しむとき、人間関係で深い傷を負ったとき…あらゆるときの助け手という意味が込められている。

 日本語訳の助け主ーこの訳も同様に多くの意味を含むものとなる。「聖霊はあなた方にすべてのことを教える」と言われているように、学問も経験も知識も決して教えることのできてい霊的真理を教え、助けるのが聖霊のはたらきでもある。

 それによって霊的な悩みや問題の解決を霊のことばで教えられることになる。

 また、そうした多様な意味を持つゆえに、原語のままにしておく訳もある。

 私たちは、イエスが地上からいなくなっても、そのイエスが神と等しい存在である聖霊となって、この二千年ずっと世界に風のようにご意志にかなったところに吹き続け、またいのちの水として、人の魂の深みに入ってくださって泉となってそこから湧きあふれるほどのいのちが与えられるようになっていることを深く心にとどめ、求めよ、さらば与えられるという言葉にしたがって、つねに求め続けていきたいと思う。

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 ここに説明を付した 英語訳の一覧。

Paraclete,(NJB)Counselor, (NIV)Comforter (KJV)Advocate (NLT)Helper (NKJMoffat )Comforter (KJV)

 

 

リストボタン「信仰と愛」 T.H.        (青森)

 地球温暖化の時代は終わり「地球沸騰」の時代が到来した、と国連のグテーレス事務総長が昨年記者会見で言った。異常気象である。

 青森県は雪が目に見えて降らなくなった。今シーズンの家の前の雪かきは昨年の2回だけ。例年少なくなっていたものの、それでも20回以上はあるのに。次の冬もこれが続くようだと、事柄がよりハッキリすることになるだろう。

 世の終わり、キリスト再臨について、黙示録などを通して語られることがある。

 でも私はずっと前から次の2か所がいつも気にかかる。

 ルカ18章8節「言っておくが神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」

 マタイ24章12節。その時は「不法がはびこるので多くの人の愛が冷える。」この愛はアガペーで神の愛である。

 神からの呼びかけにたいして、聞いて応答する人間の側の信仰。また自分を中心にして拡がって行く人間の愛ではなく、神から人間に対して与えられる恵みとしての愛、そしてそこから拡がって行く隣人愛さらには敵への愛としての祈り。

 この信仰と愛が、わたしにとっても課題なのだ。 

 

 

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〇近畿無教会キリスト教集会

・2024年5月11日(土 )13時開始 (受け付けは12時頃から)〜12日(日)12時半まで。希望者にはその後昼食。13時半解散

・主題  キリストの言葉 「敵を愛し迫害する者のために祈れ」、「悪に手向かうな」(マタイ5章より)

・講師  坂岡隆司、小舘美彦(春風学寮長)、吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)

 坂岡さんについては、ネットでの紹介文を引用しておきます。

 1954年、鳥取市生まれ。早稲田大学法学部卒。公務員、高齢者福祉施設勤務を経て、2005年社会福祉法人ミッションからしだねを立ち上げ、障害者福祉施設「からしだね館」を開設。
特に地域で暮らす精神障害者の支援に取り組む。社会福祉士。精神保健福祉士。社会福祉法人ミッションからしだね理事長。『落ち穂を拾う 福祉と福音』より

 

 


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