いのちの水 2024年 5月号 第759号
いちじくの木に花咲かず ぶどうの枝は実をつけず、田畑は食物を生ぜず…しかし、私は主によって喜ぶ。…我が主なる神は、わが力。聖なる高台をあゆませられる。 (旧約聖書 ハバクク書3の17〜19より) |
目次
・平和の源 ー神の前の沈黙 |
||
平和の源ー神の前の沈黙
ー詩篇 62篇
… わが魂は沈黙して、ただ神に向かう。(*)
神に私の救いはある。
神こそ、わが岩、わが救い、わが砦。
わたしは決して揺らぐことがない。 (2〜3節)
どの時代にも、人間にとっていつ何時、どのような運命に陥っても、人々に捨てられ、病で苦しむとき等々、いよいよ孤独な状況に置かれてもなお、さらに必要となること、それがこの詩編にある神の前に沈黙しての祈りである。この大切なことは、教育においても全く語られず、マスコミなどにおいても触れられることはほとんどない。
祈りとは、私たちの力の源たる神の前に、沈黙して神を待つこと、神に心を注ぎだすことである。それによって神の力を与えられることである。
祈りということは、学問や経験や知識、健康、富…等々何もなくとも本来だれにでもできる単純かつ重要なことであるにもかかわらず、私たちが日常の雑事に追われ、また目先の変化のある出来事や安易な方向に引っ張られる傾向などにまどわされて無視していることだと言えよう。
聖書に記されている神は、その神の心と一つであったイエスの生き方に実際に目で見えるかたちで表されている。
それは完全な愛であり、いかなる欠けたところもない正義と真実な御方であり、それゆえに、人間のどんな弱いところも、苦しみも悲しみもみな見つめ、真剣に求める者に、力を与えようとしておられる。
この詩は、ダビデのものと伝えられている。ダビデとは、今から三千年ほども昔の政治家であり、王であり、詩人である。
そのような人物が書いた詩が、三千年の歳月を越えて現代に、強い光を投げかけている。
私たちは、神様の前では、どんな努力をしても汚れ果てているが、罪人で弱いからこそ力を頂こうとする。
…我が魂は黙して神に向かう。
神にのみ、救いがある。
神は不動の岩。(2節)
…お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。
亡きものにしようとして一団となり
人を倒れる壁、崩れる石垣とし
人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。
常に欺こうとして口先で祝福し、腹の底で呪う。
(4〜5節)
この詩の作者が直面していた状況がここに記されている。襲いかかろうとする敵(悪)の力は、神を信じる人を滅ぼそうとして迫ってくる。
目に見えるような攻撃をしかけてくると共に、悪しき考えをもって霊的に誘惑しようとする。
口先で良いことを言いながら欺くなどの悪意、そのただなかにあって祈る。
相手に対して嫌悪感が湧き、必死で反論を考えたり、相手への非難の言葉を思い、迷い悲しんだりしていると私たちの心もからめとられてしまう。そして報復しようとしたり、自分自身の心に傷を残したりする。 しかしこの詩の作者は、人に関わらないで、まっすぐ神様を見つめると言う姿勢がある。
… わたしの魂よ、
沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている。
神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは動揺しない。
(6〜7節)
再び、冒頭に言われた言葉が繰り返される。押し寄せる敵対する力に対して、ただ神にのみ向おうとする魂の姿がここにある。強固な精神的な基盤がなければ、世の中全体が間違った方向に流されていく時には、たいていの人たちがそれに呑み込まれる。
戦前の日本の状況を見るとそれはよくわかる。
そうした厳しい試練のときにも、この詩の作者は、そのただ中から神に向かい、神のみを見つめ、そこに希望をおく。神こそ我が岩、救いであるからだ。
…わが救いと栄光は神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神は我らの避けどころ。 (8〜9節)
神は岩ーこれは、ほかの詩篇でもしばしばこのように言われている。
… 常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 (詩篇 71の3)
… わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえに我が岩、
私に与えられた分。(73の26)
… あなたは我が父、我が神、救いの岩、と。 (89の27)
…主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。(95の1)
これらは一部である。こうした記述を見て、いかに旧約聖書の詩人たちが、神の揺るがぬ本質を岩のごときものとして信じて受けとっていたかがうかがえる。
そしてそのような信仰こそは、現代の動揺してだれも予測できない状況が世界を取り巻いているなかにあって、いっそう必要なものとなっている。
どんな政治学者も、経済学者も哲学者、あるは科学者、技術者、そして芸術家たちも、あるいはこの世の動きに敏感な大会社の経営者たちも、いかなる人たちも、明日のことさえ予見できないほど、現代の世界は流動的であり、確たるものを提示することはできない。
こうした現実は、三千年ほども昔に言われた次の言葉が、まさにあてはまっている。
…人は空しいもの。
人は欺くもの。
秤にかけても、息よりも軽い。 (10節)
人間全体は、空しく、真実を語らない。息よりも軽いーこれは無に等しいほどの軽さ、実体がないことを言おうとしている。
どんなに世の中の状況が腐敗と混乱とに満ちていても、そのような状況を造り出している人間は、息よりも軽い。秤にかけても全く重みがない。
真理とは、いかなるものによっても吹き飛ばされたり、滅ぼされたりしないものであるゆえ、無限の重みを持っている。
それゆえに、真理を持たないものは、軽くなる。風に吹き飛ばされるようなものとなることは、すでに詩篇の第1篇で言われている。
…神に逆らう者はそうではない。
その人は風に吹き飛ばされるもみ殻。(詩篇1の4)
悪しき力に頼るな。奪い取ったものを誇るな。
力(*)が力を生むことに心を奪われるな。(11節)
(*)力と訳された原語(ヘブル語)は、ハイル。この語は、富、軍勢といった意味にも用いられるので聖書協会共同訳では、富 と訳されている。
この世の力は、他者、他国を圧迫し、欺き、その国の物質ー資源や農産物、また人間や土地すらも奪い取ろうとする。 そのようなことを戦前は日本もやってきた。
力(軍事力)が力を生む、力は「富」とも訳されるので、富が富を生み…。
ここから、さらなる奪い合いが生じ、大規模となると国家間の戦争とまでなる。
こうしたことから、力や富を持つ者がさらに貯えて貧富の差が拡大して、弱き立場のものが苦しむということを是正しようとして、社会主義が生まれた。
しかし、その主義に沿ってソ連や中国も起こされたが、そこにもスターリンのような独裁的な人物がみずからの権力欲によって、弾圧、迫害を行いおびただしい人たちが殺害された。
その後の第二次世界大戦とくに日本がかかわった太平洋戦争なども、そうした大規模な力が力を生み出した結果の産物であった。
とくに軍事的な力の極限ともいえる核兵器によって相手を脅迫し、欲望をとげようとするようなことが現実に行なわれようとしている。
イスラエルとハマスの対立も、自分たちが何らかの力を増やすために暴力、武力をもってするという双方の姿勢(*)が原因となっている。
(*)かつてエルサレムを中心とするパレスチナ地域においてもアラブ人やユダヤ人たちは共存していたが、第一次世界大戦中に出されたバルフォア宣言で、イギリスが、ユダヤ人のナショナル ホーム(国民的、民族的故郷)を建設することに賛意と支援を約束したことによってユダヤ人がパレスチナに彼らの国を作る機運が高まっていった。
しかし、その宣言の後半に、すでに住んでいるアラブ人に関して言われていたことが無視されて、その地域に以前から住んでいたアラブ人が追い出され、苦しい生活となったことなどに遠因がある。
なお、無視されたバルフォア宣言の後半部というのは次のような内容である。
「…パレスチナに現存する非ユダヤ人諸コミュニティー(主としてパレスチナに住むアラブ人)の市民および信仰者としての諸権利が 侵害されることは決してないと明確に理解されている。」
また、パレスチナ人においても、一部の真理をわきまえた、古くからエルサレムに生まれ育った学識ある指導者は、「暴力によってよいことは何一つ生じない」と述べて、武力報復の害悪を主張して対話の重要性をパレスチナの人たちに力を尽くして説得していたが、受けいれられず、全体としては、イスラエルの強行なやり方に対して、パレスチナ側が、武力で報復、抗議するという状況となった。
これらは、いずれも、この詩編ですでに三千年も昔から、言われている真理ー武力でなく神の力に頼るというあり方に背くことであり、今日に至る大いなる悲劇、混乱はこの真理の言葉に双方が従おうとしなかったゆえに生じていることである。
そして、このことは、ウクライナ、ロシアの戦争においても同様で、武力で解決しようとすることによって、この二年余りにおいておびただしい人たちが故郷を追われ、また殺傷され、多数の住居、施設が破壊され、豊かな農地であった国土は地雷が広範に埋められ、その修復には、多くの人たちがその地雷のために手足がもがれたりする悲劇も伴い、今後何十年かかるかわからないという悲しむべき実態となっている。さらにその戦争の影響は、世界的に軍事力を増大させ、対立が険しくなり、全体としての危険が増していくことになっている。
そのような社会的状況にあって、この三千年前の詩人は、それをも見通す確信を述べている。それは神から受けた啓示だからである。
悪しき力は、また悪しき力を生むが、逆に、神からくる良き力は、さらに良き力を生む。
…彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神と出会う。(詩篇84の7)
主イエスも、「求めよ、そうすれば与えられる。」と、言われ、力の源である聖霊が与えられると約束された。 (ルカ11の13)
シナイ山に限らず、雨量が少ないイスラエルでは、草が生い茂るということもなく、岩ばかりが目立つというところも多い。
その岩ばかりの荒涼とした光景であるが、そのような命のないとみられる岩において、揺るぎなき力を感じ、詩の作者は、神の無限の力をあらわすと感じたのであった。
私たちが追い詰められた時には命や希望が見えなくなってくる。 殺意や憎しみ、破壊、飢え、辱しめ、痛めつけるものすべてを含んでいるのが戦争である。
それは、緑が象徴的に示している命が断たれ、おびやかされる暗黒の状況である。
しかし戦争や迫害のような中でも、この詩篇の作者のような確たる信仰を与えられていた人たちが常に起こされてきた。
そして彼らもまた、この詩の作者のように、神の前に深く黙することによって、岩のごとき力を受け取ることができたのであった。
神の民は、そうした砂漠地域に見られた不動の岩山を見ていたゆえに、そうした山々の岩石のただなかにあって、動くことなき神を思った。これらの強固な岩こそ、神の力を象徴的にあらわしていると知らされた。
この詩の作者は最後の部分で次のように述べている。
…ひとつのことを神は語り
ふたつのことをわたしは聞いた。
力は神のものであり
慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と
一人一人に、その業に従って
あなたは人間に報いをお与えになる、と。(12〜13節)
真の力に関する真理を、神が常に語りかけてくださっている。それを、一つのことを語り、また二つのことを聞いたという特別な表現によってその重要性を強調している。
この詩の冒頭において作者は、「私の魂は、沈黙して、ただ神に向う」と書いた。その結果、最後の部分での、「一つのことを神が語り、二つのことを私は聞いた」のであった。
神は、沈黙しているように見える。いろんな災害や悲劇がこの世には次々と生じる。一人一人の生活においても、思いがけないこと、苦しみや悲しみにうちひしがれることが生じる。
そして祈っても何も変化が生じない、聞かれないーそのようなことはキリスト者といえども、さまざまに経験していく。それゆえに、神は沈黙しているだけでなく、神など存在しないのだ、と思う人もとくに日本人には圧倒的に多い。
しかし、この詩に見られるように、実は、神は絶えずいろいろな方法で語りかけているのである。
周囲につねに広がっている大いなる自然の姿によって、またさまざまの出来事においても、真実な祈りにおいて、静かにその意味を尋ねる者には、主からの応答を与える。
日常生活においても、何かの集りで、誰かが話していても、また、学校の授業や社会人対象の講演などでも、聞こうとしていなかったら、耳に入らない。
道を歩いていても、心して見ようとしなければ、そばにある樹木や花も目に入らない。
同様に、神からの語りかけも、聞こうとしていなければ聞こえない。キリストが生きておられたとき、奇跡を行い、イエスご自身がわかりやすい譬えをもって教えても、聞こうとしなかった律法学者やパリサイ派の人たちは、憎み、殺そうとまで考えたほどである。
神が愛であり、宇宙を動かす力、悪の力をも倒すほどの力は神にこそあるーそうした語りかけをこの詩の作者は、沈黙のなかで神に向って耳を傾けるときに聞き取ったのである。
このようなことは、同じく詩的作品であるヨブ記にも見られる。
…神は一つのことによって語られ
二つのことによって語られるが、
人はそれに気がつかない。…
神は人の耳を開き
その魂が滅びを免れ、
命が死の川を渡らずにすむようにされる。
(ヨブ記33の14〜18より)
…まことに神は、このようになさる。
人間のために、二度でも三度でも、
その魂を滅びから呼び戻し
命の光に輝かせてくださる。 (同29〜30節)
詩的直感の与えられた人であるからこそ、このようにとくに神からの語りかけや神からの助けの道に敏感だと言えよう。
人生の重大事において、このように直接の語りかけはある。稀な語りかけもあるが、毎日の生活においても、ここに言われているように、神は私たちに絶えず語りかけ、この世のなかに埋没することなく、永遠の命の光を受けるようにされている。
祈りとは、このように神の前に静まり、そこからの語りかけを聞き取り、神の愛と力を受けることであり、そこから神の国が来ますようにと祈り、とくに、苦難にある人々に命の光を与えられ、滅びから救われるようにと祈ることである。
それゆえ、私たちは、戦争の停止のために何もできない、ということでなく、老若男女、健康、病身を問わず、またいつでもどこででもできる祈りを深めることが期待されている。
それが、「主の祈り」に含まれる、「御国を来らせたまえ」であり、まず神の国と神の義を求めよ、というイエスの言葉に現れている。
神は、目に見えない霊的な存在であるが、何にも増して確たる存在者でしかも真実と愛そのものであり、しかも今も生きて働いておられるゆえに、私たちの真実な祈りは、必ずどこかで何らかのかたちで聞いてくださっているのであり、それによって何らかの良きことをどこかで、誰かに、またその時はいつか分からないが、主の御計画の時にしたがってなされることを信じることができる。
開かれた目ー主の導き
早朝に目覚めた。美しく晴れた東空には下弦の月が私を見つめていた。背景には数日ぶりの青く澄んだ大空が広がり、所々に雲がうっすらとかかり、それがゆっくりと流れていた。折々に小鳥が驚くべき速さと巧みさで横切って飛び去っていった。
そして遠くには、青く澄んだ山々のなだらかな稜線が見えた。そうしたすべては広大なキャンバスに描かれた絵画であり、またハーモニィであり、メロディーでもあった。それだけではない、それらすべてが、何か清きもの、美しいもの、そしてさらにそれらを支え、描かせている力を語りかけている。そして地上の人々に生きたメッセージを語りかけているものである。
まさに、月からも大空からも、雲の姿からも、透明かつ永遠的なものを汲み取ることが与えられた朝であった。
私は、若き日に、学生運動の激しい渦中にあり、さらに科学技術と人間の前途という問題、健康や家庭の問題…等々深い悩みと苦しみゆえに下宿でいることができず、ふと自転車に乗って北へ北へと京都の大原付近まで行き、とある山道があったのでそこから登り始め、夕暮れにもかかわらず京都北山の天ケ岳頂上(標高788メートル)にたどりついた。
そこで初めて山の持つ深い語りかけに接したのであった。その静かなるたたずまいの中から、心に直接に届く言葉にならない言葉を聞いた。
それが、今日に至るまでも山ーとくに東北や北海道の人の少ない山々が最もこの地上で行きたいところであり続けるきっかけとなった。
そして人間の手をわずらわせていない大いなる自然の持つ美と力と清さに今日に至るまで魅されてきた。
その後、私はプラトン哲学に深く心動かされ、さらにキリスト教へと導かれたのだった。
プラトンからは美そのもの、善や正義そのものの存在を知らされたが、それが天地を創造した神によることが示され、そしてその神の本質をうけて地上に生まれたキリストこそ、この世界に人間として生きた最も完全な存在であり、私の内で生きてはたらき、私の心の目を開いてくださったのだった。
そして日毎の生活の力となり導きとなり、暗闇の光であり続ける存在となっている。
そしてその神の英知そのものであるキリストは、そのゆえに二千年の世界歴史の中で、大いなる影響を及ぼしてきた。
世界の英知と生活に及ぼしたキリスト
過去二千年の世界歴史上、最も深く広い意味での知性に満ち、かつ人間の生(日々の生活、命、また生涯)に比類なき影響を及ぼしてきたのは、キリストである。
これは、美術、音楽、文学、建築、そして平等、差別撤廃、男女平等、病者、障がい者への配慮、等々を見ても、その大きな流れの源流にキリストがいる。自然科学の分野においても、パスカルやニュートン、ファラデー等々の著名な人物も神を信じる深い心があった。
私自身、目先のことだけでなく、過去、現在、そして未来にわたる広い範囲の領域に関心が喚起され、外から働きかけ、かつ内にいて慰め、力を与え、自然や人間の活動領域のさまざまの分野において、つねに生きた関心を与えてきたのは、活けるキリストであった。
そうしたキリストの深い影響は、美術において、レオナルド・ダ・ビィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ、ミレー、ルオー…等々全世界で知られている人たちは現代においても広く親しまれ、精神的な意味においても、世界の多くの人々の心に近い存在となっている。
また、音楽においても、バッハ、モーツァルト、ベートーベン等々は、日本のようなキリスト者がわずか一パーセントほどしかいない国であっても、これらの人たちの音楽は、いまも至る所で演奏され、聞かれ、力や感動を与えている。毎年の十二月には、各地で、第九が演奏され、1万人もの人たちが出演する催しも四十年を超えて続けられている。これほど、大規模な演奏が毎年行なわれているということは、いかにベートーベンの影響が大きいかを示すものとなっている。
また、ベートーベンの荘厳ミサは、キリスト教信仰と音楽の深い関連を示すものである。また、その第九交響曲で用いられているシラーの詩の、「星空の彼方に、愛する父なる神は必ずいます(uber'm Sternenzelt Muss ein lieber Vater wohnen.)」という言葉が繰り返されて強い気持ちが込められており、神への讃美と人間が神から生まれた兄弟姉妹であり、互いに愛し合うべき存在であることが主題となっている。
文学においても、ダンテの神曲は科学、芸術、そして人間の愛や信仰、さらに信仰からいかに深い喜びや力が与えられるかを指し示すものである。
それとともに、神の正義は悔い改めようとしないかたくなな魂には裁きを下すということも地獄篇にてさまざまのかたちで示している。 これは、三行目ごとに韻を踏む膨大な音楽的作品でもあり、またその内容そのものに深い音楽性を持っている。
これについてカーライル(*)は、ダンテの世界は「さらなる深みに行け、そうすれば至るところに音楽がある」(Go deep enough there is music everywhere.)とその深い音楽性を強調している。
(*)イギリスのスコットランドの歴史家(1795〜1881年)有名な著書に、『英雄と英雄崇拝』(この書で言われている英雄とは、通常の意味でなく、歴史的に重要な影響を及ぼした精神的な指導者があげられている。)、『フランス革命史』など。
非戦、非暴力での戦いを実践した古代ローマの迫害時代を背景に描いたクォ・ヴァディスや日本の江戸時代のキリスト者たちの途方もない拷問などを生きた姿を記し、「沈黙」という映画ともなったように、今日に至っても、深い感動を与えるものとなっている。
イエスの非戦、非暴力の精神は、歴史において注目されてきたが、19世紀においてロシアのトルストイがそれを深く受け止め、そのことを公に著作で発表した
その内容に生涯の精神的な方向づけをされるほどに心を動かされたのが、ガンジーであり、彼の強いリーダーシップによって、イギリスの強固な支配から、インドは独立に至った。
彼の戦いとは、深い祈りを根底にし、非暴力のデモなどで戦う精神であった。
これは、祈りが、政治、社会的な大きな問題にも大きく働くという歴史的にも特筆される出来事となった。
そのガンジーの精神は、さらに、アメリカのマルチン・ルーサー・キングによって受け継がれ、黒人差別撤廃の大きなうねりとなった。
こうした社会的な大きな働きの根底には、一人一人の人間を奴隷であっても、主にある兄弟だとして尊ぶキリストの心があった。
逃亡奴隷がキリスト信仰によって回心したゆえに、その持ち主に、兄弟姉妹としてうけてほしいとの使徒パウロの愛のこもった書簡が新約聖書のフィレモン書にも見られる。
そこには現在でもなお続くような民族差別を二千年も昔にすでに超えた生活の根源に与える人類愛が具体的なかたちで見られるし、男女平等ということは日本においてはとくに政治や社会的な働きにおいては、制度的に世界の多数の国々よりはるかに遅れているが、すでに聖書の世界では、女性の重要性が、さまざまの個所で記されている。
キリストにに関する最も重要な十字架による処刑と、その死からの復活の場面で、共にいて主に仕えたのは男性の十二弟子でなく、悪霊にとりつかれて精神の崩壊していたような女性を含む女たちであったし、復活という歴史上で極めて重要な出来事を直接に体験する意味深い経験を最初に与えられたのは、それもまた十二弟子でなく、女性の弟子であったように、人間の深い霊的部分においては、男女の区別なく働くのだということが、示されている。
また、障がい者に対しての愛、ハンセン病という恐るべき病の人への愛等々も、キリスト教信仰の深い人たちにおいては、その人たちを差別するのでなく、深い愛と真実を持って対する生きざまが具体的に記され、その精神は現在に至っても続いている。
赤十字というシンボルは、スイスの国旗の赤とと白を逆にしたもので、それもそのスイスの国旗のデザインも、キリストの十字架が元になっているのであって、それは今日でも日本のようなキリスト者のごく少ない国であっても、代表的病院として広く浸透している。
生活を根本的に変える、絶望から大いなる光へと導かれて日本、そして世界に大きな影響をもたらしたヘレン・ケラーや、ライトホーム、光の家と言った障がい者の施設を創設する力となったのも、キリストの福音であった。ヘレンは次のように言っている。…
…聖書の中に発見した喜びを何と言って表現してよいかわからない。今日まで、久しい間、ますます広がっていく喜びと霊感によって聖書を読み、それをいかなる他の書物よりも愛しています。(「私の生涯」118頁 角川文庫1966年刊)
政治社会的な分野においても、民主主義という個々の人間を大切にすること、人権といった考えはキリスト教と深い関連がある。
ソクラテス、プラトンは、民を主体とする民主主義の限界を明確にのべて、目に見えない正義や真実そのものを愛する人が国家を導くのでなければ、最終的にはよき国にはなり得ないことを喝破していた。
民主主義とは、民、人々の考えを主とするが、その民の考えは時代状況によって大きく影響され、ときには非常な闇の力に支配されてしまう。
それは、第二次世界大戦や太平洋戦争のときの、ドイツ人がユダヤ人六百万人を殺害したヒトラーを崇拝し、日本人が中国や東アジア諸国への侵略戦争を聖戦と信じ込んでしまったこと、それはその戦争を鼓舞した天皇や政治家、軍人、あるいは教育家…等々の誤った考えに支配されていたゆえであった。
神の叡智に沿った生き方、広義の知性的に生きることは、ただちに日々の生活にかかわる。周囲の出来事、また我々をとりまく自然の多様な姿、そして人間の様々の生み出したもの…そうしたものに適切な理解、感受性、判断をもってそれらが我々に投げかけているメッセージを汲み取ることは、きわめて重要なことである。
生きるとは、まさにそのような日々のいとなみである。 宇宙のような広大無辺の自然やこの複雑な世界、そして自分自身に生じるさまざまの問題からのメッセージをさまざまの視点から受けとる。
さらに、長い歴史のなかで、様々の偉大な人物たちが残してきた知性とその歩みも、それらに接するとき私たちをより、知性的な生き方へとうながし、導くことになる。
現在、世界に大きな影響と不安、動揺を与え続けている、ロシアとウクライナ、イスラエルとガザの戦争など、それにいかに対処すべきなのか、その指針もまた、過去の歴史、そして大いなる人物の霊性、知性と生きざまが、闇に輝く光となる。
ある人物の知性が本当のものかどうか、それは戦争に対する考え方からうかがうことができる。
戦争とは、人を大量に大怪我をさせ、さらに殺害し、人間の住む家々、マンション、貴重な施設などを破壊する、広大な畑におびただしい地雷を埋め込み、そこで働き、あるいは歩くだけでも、爆発し、片足を失う、あるいは死にいたる重症を負う…家族を分裂させる、職業も失い、飢餓状態ともなる…このようなことによって、どれほど多くの人が苦しみ、悲しむのか、それを理性的に、また、自分がそうした人になったことを想像することでそうした状況になっている人々の途方もない苦しみ、悲しみを知るーこれも広義の知性、霊性が深いほど、より切実に感じ取るであろう。
一人を殺しても大罪となるのに、多数の人を殺傷し、またそれを命令する人たちがかえって誉められるなどということは、知性の混乱以外の何ものでもない。
そうした戦争が間違ったことであることは、キリストによってはるか二千年前から、明確に言われているし、中国の古代思想家、墨子も同様なことをのべている。
歴史上で最も知性的であったと言えるアリストテレスは、倫理学、政治学、動植物学、また天文学等々、その全集に接して初めて彼の知性がいかに広大な分野に広がっていたかがわかる。
だが、アリストテレスにおいても、その師でもあったプラトンも、弱きものー肉体や精神の病などの弱き者、あるいは、幼児とかの幼い者への愛が欠如していた。 知性というのは、広義では感覚的な知覚作用をも含めた人間の認識能力をさすゆえに、音楽のハーモニィやメロディーを感じ取る能力もまた、知性の内に含まれる。人間の悲しみや苦しみを感じ取る能力もまた、広義の知性に含まれる。
また、キリストは聖霊であり、そのキリストはイエスとして地上に生まれる前の存在は、天地創造にもかかわったと聖書で記されている。
それゆえに、日々見える大空や星空、あるいは大海原や対照的にごく小さく弱い野草の花などに関心を持ち、あるいは音楽の良さ、その魂を動かす力などを知るということも、聖霊たるキリストの霊を受けるほどに広がり、深まることになる。
自然のさまざまの姿こそは、広義の霊性、知性を高め、深め、かつ大いに広げていく力を内蔵している。
この世にいかに闇や混乱が満ちていようとも、この世の奥深くの天なる存在に導かれて進むときには、そこに魂の奥に響いてくるうるわしき音楽がある。
ダンテの神曲は、当時の科学的な知識、また当時の政治や社会的状況を厳しく批判し、かつ人間の深い心情の世界にも分け入って、信仰の奥深い世界をその著作に刻み込んだ類まれな著作である。
しかも、そうした罪深き人間同士の愛や欲望が、一時的にいかに快楽、喜びをもたらそうとも、あるべき道を誤るときには、大いなる苦しみや悲しみが裁きとして伴うことを、またそのところから魂の方向転換をして神を仰ぎ、導かれて歩むときには、清められて大いなる永遠の神の愛のもとに導かれることを多方面から歌った詩作はほかに見られない。
神曲において最初の地獄篇の中で、地獄への扉には、「あらゆる希望を捨てよ」と記されていたが、地上の罪清められる煉獄への入口にあっては、うるわしい音楽とともに、讃美の歌声(Te Deum Laudamus 私は神を讃美する)が響いてきて、その音楽とともに入っていくことが記されている。
そのためには、だれにでも可能な道が開かれている。
それは幼な子のような心で神を信じ、その御言葉を信じて歩むことであり、そうした心で、キリストの十字架による罪の赦しと死の力にうち勝つ復活を信じるだけで、そのような清めの門を入り、新たな世界へと導かれていく。
…イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、
あなたをほめたたえます。これらのことを(この世の)知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
(ルカ10の21)
…神は知恵ある者に恥をかかせるため(*)、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
(Tコリント1の27)
(*)ここで「恥じをかかせる」とは、何らかの悪意で人をおとしめるためといった意味でなく、この世で認められている学者的な人物あるいはこの世のさまざまのことを広く知っていると自他ともに認めるような人物たちに、彼らの霊的無知、その限界を知らせ、その傲慢を砕くためという意味。
ダンテが神曲の最初で記しているように、彼は人生の半ばで道を失い、絶望的な状況に陥り、そこから辛うじて導き出されたとき、それを思いだすさえ死ぬほどだと記した彼の霊的な暗夜、それはだれもがその程度の多少はあれ、人生の中で、体験することでもあろう。
しかし、そのような深く苦しい暗夜があったからこそ、彼は以後七百年にわたって、世界に多大な影響を及ぼす大詩人となったのだった。
私たちの出逢うさまざまの精神の暗夜にあっても、そこにも主の御手の働きを望み、希望を持つことを聖書は語りかけている。
…私たちは絶えがたいほどひどく圧迫され、生きる望みさえ失った。そのため、自分を頼りにするのでなく、死者を復活させる神を頼りにするようになった。
神はそれほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださると、私たちは神に希望をかけている。(Uコリント1の8〜10より)