いのちの水 2024年7月 第761号

(主にあって)常に喜べ、絶えず祈れ。すべてにおいて感謝せよ。これこそ、キリスト・イエスにあるあなた方に対する神のご意志であるゆえに。                  (Tテサロニケ5の1618

目次

イラスト

・恵みと平和

・二種の方向転換

・思い起こすことの重要性

・主は備えたもう

            H.M.(神奈川)

・一つになる  K.K.

編集だより

 ・集会案内

 

恵みと平和(平安)

 

 現在の世界的状況を知るにつけても、平和への願いはいっそう強められる。

ここでいう平和とは、戦争がないことである。

 他方、日本は戦後80年近く、戦争に加わらない状態が続いている。それは平和の時代が続いているということになる。

 しかし、そのような平和が長く続いているからといって、日本人の精神がより真実になったか、神と隣人への愛が増大してきたであろうか。

 新約聖書で平和と訳されている原語(ギリシャ語)は、エイレーネーであるが、そのもとにあるヘブル語の平和、平安を意味する言葉は、シャーローム(*)である。

 ここでは、新約聖書において「平和」と「恵み」の深いつながりを受け止めたいと思う。

 

*)正確にはこのように母音は長音だが、現在ではシャローム とはじめの母音を短く発音している。これは一般的に古代原語はヘブル語だけでなくギリシャ語、ラテン語も長音が非常に多いが、現代語はそのような傾向が失われ短い発音となっている。古代言語のゆったりとした音楽的響きを持つ傾向が、次第に短く簡略化されていく傾向にある。

 

 このヘブル語は、一時的な別れや朝の挨拶にもごく普通に用いられるのを私もじっさいに以前イスラエルの旅で実感した。

 しかし、本来のシャーロームという言葉は、「完全さ、完成された状態」という意味であり、そこから健康、平和、繁栄等々のさまざまの意味をも持つようになった。 

 ヘブル語辞典として広く知られている  BrownDriverBriggs 編纂の辞書(百年以上用いられてきた)には、completeness(完全性)、 soundness(健全)、 welfare(豊かさ)、 peace(平和、平安) とその語彙の説明の最初に記されている。

 「完成する」という本来の意味では、「こうしてソロモンの神殿は完成した。」(列王記上925)のように用いられている。

 日常生活で、シャーローム!との挨拶は、健やかであるように との願い、祈りを込めた意味があった。

 

 使徒たちの手紙には、最初、あるいは最後のところで、繰り返し次の言葉がみられる。

 

…私たちの父なる神と主イエス・キリストから、

恵みと平和(平安)があなた方にあるように。

           (ローマ1の7)

 新約聖書に残されている使徒たちの書簡で、このような言葉が常に用いられていた。それは何を意味するのか。

 現在の私たちの生活の中で、恵み といえば、天候に恵まれるとか、田植えのころの恵みの雨、また恵まれた才能を発揮…というように、偶然的に与えられた良きものを意味する。

 しかし、キリスト教、聖書においては、そのような日常生活のいろいろな良きものでなく、全く異なるものを意味する。

 すでに引用した言葉、神とキリストからの「恵みと平安(平和)」を祈る、ということは、新約聖書におさめられている使徒たちの手紙でほとんど常に最初に、あるいはさらにおわりの部分でも、繰り返し言われている。(*

 

*)Tコリント(1の3)、Uコリント(1の2)、ガラテヤ書(1の3)、エペソ書(1の2)、フィリピ書(1の2)コロサイ書(1の2、ここでは、「私たちの父である神からの恵みと平和があなた方にあるように」とある。)T、Uテサロニケの手紙、フィレモンへの手紙、 そしてTテモテ、Uテモテでは、「…恵み、憐れみ、平和があるように」と、憐れみという言葉が付加されている。また、T、Uペテロの手紙にも、「…恵みと平和がますます豊かに与えられるように」とある。 

 この「恵みと平和」の祈りがないのは、ヘブル書、ヨハネの手紙だけである。

 

 これは、この 恵みと平和 がいつも使徒たちの他者への祈りにあったことを示している。

 これは、決して、この最初の内容のタイトルにあるような「挨拶」という言葉で連想される内容ではない。

 挨拶というと、単なる導入のための形式的な言葉であり、なくてもいいどころか、かつての卒業式や入学式などで、しばしば県会議員とかが現れて不要な挨拶をしていたのを思いだす。

 

 そのように多くの新約聖書において、その手紙の最初に、「恵みと平安があるように」という祈りがあるのには、新約聖書の真理の本質とかかわっている。

 それは、新約聖書で現れる「恵み」とは、通常の日本語での用法と大きく異なって、最も人間にとって重要なことーすなわち魂の救いの問題に深くかかわることであり、私たちが正しい真実な道、愛の道を歩むことができないことー罪と深くかかわっている。

 私たちが本来あるべき姿から大きくはなれていること(罪)は、人間の根本問題であり、歴史上で最大の影響力を持ち続けてきたキリストが、こられたのもその解決のためだった。

 

…人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。

このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(ローマ3の2126より)

 

 このように、私たちが罪深くあっても、その償いのためにいろいろな良き業をすることはとてもできない。

 純粋によき業など、罪深いからこそできない。そのよき業とは何なのか。困っている人に何かすることであろうか。それも含まれるだろう。

 しかし、病気、家族問題、貧困、迫害、戦争の惨禍にある人々…無数にいる。ほとんどはその個別の実態は、人間の知るところはごくわずかであって、ほとんどはわからない。家族や職場、学校でのいじめなど、そこによきわざをするといっても、そもそも本当に苦しい状況にあれば他の人には言えないことが多い。

 罪の赦しとか罪からの清めということは、人間的な手段では到底できない。

 それゆえに、そうした人間のあらゆる弱さや限界を知っている御方、神はイエスを地上に送り、目に見える純粋な良き業をする力を与え、導き、最後に耐えがたい苦しみを伴う神の定めた良き業へと導かれた。

 それは、万人の罪を担って十字架で大きな釘を打ちつけられ、恐ろしい痛みに、「神様、神様、どうして私を捨てたのか!」 との全身からほとばしるような絶望的叫びをあげざるをえないほどの苦しみであった。

 神は人間に対して深い慈しみ、愛をもっておられたがゆえに、神のすべてのよきものを与えられて地上にこられたイエスに、人間的な普通の愛ならば、到底あり得ない恐ろしい苦しみを与えたのだった。

 人間の愛は、愛する人に極力苦しみを与えないようにする。しかし、神の愛は、恐ろしいばかりの苦しみや悲しみを与えることがある。

 それがいかにして愛なのか、まったく分からないような苦しみが数知れない人たちに降り注いだのが、ローマ帝国や、日本の江戸時代における厳しい迫害であった。

 罪の赦しこそ、「恵み」の最たるもの、それは聖書に繰り返し記されている。

 

…私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによる。(エペソ書1の7)

 

 それゆえに、祝祷として用いられている祈りは、その深い恵みの意味を受けて、最初に出てくる言葉となっている。

 

…主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(Uコリント1313

 

 この祝祷として用いられる祈りの冒頭に、主イエス・キリストの恵みーとあるが、それは罪の赦しの恵みこそは、出発点となるからである。

 人間として地上に来られたイエスは、十字架上での極限の苦しみを受けて、万人の罪のあがないをされ、信仰によって神様から罪を問われないものとしていただく、という他にはあり得ない救いの道を歴史のなかで示された。

 そしてそのキリストの十字架によって罪の赦しを与えられた人は、それまでの世界と本質的に異なる、霊的世界へと導かれる。それが魂の再生であり、霊的復活であった。

 こうしたすべては、罪の赦しという大いなる恵み、そしてそこから新たな魂として復活させていただいたことも、みな主の恵みによることを繰り返し記している。

 

…あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。 …

罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、ーあなた方の救われたのは、恵みによるーキリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださった。…

 あなた方は、恵みにより、信仰によって救われた。

   (エペソ書2の1〜8より)

 

 そのような万人の魂の根源に救いを与える働きをなさしめたのが、神の愛であり、そして十字架の苦しみを経て復活したキリストが聖霊である。

 人間に本当に必要なのは、イエス・キリスト、神、聖霊ーこの三つであり、この三つは本質は同じであり、これさえあれば、どのようなことも超えていくことができる神の約束である。

 


 

リストボタン二種の方向転換

 立ち帰れー数千年前からの天来のメッセージ

 

 現代の状況は、世界の多くの国々が、AI、ドローンなど新たな技術も取り込み、軍備増強へと大きく方向転換しつつある。そうした動向の行き着く先は何であるのか。人類の前途にとって暗雲が立ち込めている。

 現代のそうした傾向を直視するとき、それと根本的に異なる方向転換の重要性が浮かび上がってくる。

 それは、聖書に記されている神への方向転換である。その神とはいかなる神なのか。

…主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。…        (出エジプト記34より)

 そしてこの神への方向転換はだれでも本来はできるようになっている。病気や障がいの有無、学歴や貧富、あるいは年齢、民族や国家等々一切関係なく可能である。それゆえ、ローマ帝国時代の多くの奴隷や日本のキリシタンなども含め、社会の底辺で生きていた人たちにも広く伝わったのだった。

 旧約聖書の預言者たちは、共通して神に立ち帰ることの重要性を繰り返し説いている

 イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を始めたが、その悔い改めとは、個々の罪を悪かったと反省する意味ではなく、この本来の意味は神への方向転換を意味する言葉である。

(ヘブル語では、シューブ shub、これは、著名なドイツの旧約学者のデリッチ訳のヘブル語訳の新約聖書にこのシューブが用いられている。ギリシャ語ではメタノエオー。

 デリッチ(18131890年)は内村鑑三もよく参照したのがその著作からうかがえる。 

 

「星の王子さま」という子供から大人まで親しまれてきた本に、次のような個所がある。

…砂漠が美しいのはどこかに井戸が隠してあるからだ。

 何も見えない。 何も聞こえない。 それでも、静かに何かが光る……。

…星であれ、砂漠であれ、それらの美を生み出しているもの自体は目に見えない。

 

(…des etoiles ou du desert, ce qui fait leur  beaute est invisible!

 

 プラトンは、目には見えない真理そのもの、善そのもの、美そのもの…が存在すると述べているが、こうした考え方が、さらに深められたのが、聖書の世界であって、美そのもの、善や真理そのものは、活ける神として示されていて、この真理は思索や研究して得られるものでなく、直接的に神からの啓示として与えられる。

 現代の私たちに最も必要なのは、目に見える世界、数量化できるものに世界がとらわれているただ中で、この数量化ができない永遠の神の愛、真理、善そのもの、美や清らかさそのもの、しかも今も生きて働いている存在に魂の方向転換をすること、心の目を向けることである。

 神が宇宙万物という広大無限のものを創造し、他方、失われた一匹の羊さえも大切にされるその神が愛そのものであるとわかるとき、私たちはその神の愛の刻印が、自然の風物の至るところに存在するのを感じる道へと導かれる。

  イエスは、栄華をきわめたソロモン王も、野の花の一つにも着飾ってはいなかったと言われ、だれもが見過ごすような小さき野の花にも込められた神のお心を知っていた。

 こうした小さきもの、ささやかなものの重要性も、目に見えない神がその愛を込めて創造されたと信じることから知らされていく。

 以下に引用するのは預言者の一人イザヤの受けた啓示の内容の一部である。このような愛と真実の神の切実な語りかけは、現代の私たちの一人一人にも語りかけられている。

 

…主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。私たちの神に立ち帰るなら、豊かに赦してくださる。

     (イザヤ55の1〜7より)

 

…地の果てのすべての人々よ、(この世のものから心を方向転換し)私を仰ぎ望め、そうすれば救われる。          (イザヤ書4522

 

 さらに、別の預言者も次のように言っている。

 

…ぶどうの枝は実をつけず、

オリーブも収穫なく、田畑は食物を生ぜず、羊も、牛もいなくなる。

しかし、私は主によって喜び、救いの神によって喜ぶ。(ハバクク書3の17-18より)

 

 こうした預言者が聞き取った神の言葉は、この世がいかに苦しく、また闇ばかりであっても、何も良いこともなくよきニュースはなくとも、もし、私たちが神への心の方向転換をするならば、なおその闇のただなかに静かに光り、音もないのに何か聖なる響きがあるのを示している。 

 いかなる困難や絶望的状況であっても、なお光と力を与えられるために、万人に与えられた道がある。

 それが祈りである。 第二次世界大戦のとき、ヒトラーの迫害によって殺害された無数の人たちのなかで、パウル・シュナイダー牧師は、次のように、死を前にした獄中という完全な闇の中から家族に書き送っている。

「愛する妻よ、何にもまして、祈りが大切だと思ってください。

 祈りなしには何事もしないことにしよう。

 あなたの最初の手紙で、いかなる状況にあっても、キリスト者がいかに守られているかということが書かれてあった。

 その通りで、私が神を求め、神に祈るとき、すべての妨げは消え去ります。」               1937.10.31

 La°  Dir, Liebste, immer das Gebet fr alles das Wichtigste sein und la°  uns immer nichts tun ohne Gebet. Wie sind wir Christen in en Lagen so wohl geborgen, schriebst Du mir in Deinem ersten Brief nach hier. Ja, so oft ich ruf und bete, weicht alles hinter sich...*

 

 魂の神への方向転換―祈りにより、このような魂の確たる平和が、万人に与えられるようにと願っている。

 

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 *)従来から必要に応じて、英語や、一部にフランス語やドイツ語の原文を記しているのは、現在は、インターネットでさまざまの辞書を用いて単語の意味も調べられるようになり、またいろいろな外国語の文も翻訳ができるようになり、それらの外国語を全く知らなくともネットを効果的に用いることによって原作者の  生の声、そのニュアンスを少しでも受けとる道が開けているからです。

 とくに一語一句が重要な意味を持つ内容のときには、訳し方によって大きくそのニュアンスが変化してしまうことがあるので、原語、原文のニュアンスが少しでもわかる助けになればと記しています。)

 


 

リストボタン思い起こすことの重要性について

 

 主の愛の内にあって、この世から憎まれるときー迫害を受けるとき、「僕は主人に勝ることはないと私が言った言葉を思い起こしなさい。」

         (ヨハネ1520

 と主は言われた。

 さらに、最後の夕食のときにさまざまのことを語ったのは、弟子たちが来るべき苦難に出逢ったときにもその苦しみゆえに、信仰から離れないようにとのためであり、「その時が来たときに、私が語ったということを思いださせるためである。」と繰り返されている。

                  164

 苦難ーそれがイエスが言われたような命にかかわる厳しい迫害のとき、神から捨てられたと思う。じっさいに、その後の歴史で、キリスト信仰ゆえに、激しい迫害を受けて重い傷を受け、苦しみながら死んでいった人たちも数知れずある。

 神が愛なら、なぜそのようなことを許すのか、とだれもが疑問に思う。

 戦争によっておびただしい人たちが傷つき、生涯仕事もできないほどになり、家族からも周囲の人たちから厭われて生きなければならなくなり、死んでいたほうがましだという状態に置かれてしまう人たちは数知れずいる。

 神の愛は、どこにあるのかという疑問は、はるか昔から現代に至るまで、繰り返しなげかけられてきた。

 しかし、死が迫って、非常な苦しみのただ中にあっても、その弱きところに復活のキリストー聖霊は来てくださるというのが聖書の約束するところであり、最初の殉教者となったステパノにおいて、それははっきりと知らされる。

 彼が、ユダヤ人のいろいろなまちがい、神に従わなかったことを指摘したとき、ユダヤ人から激しく憎まれ、石を打ちつけられて、死に瀕したとき、天が開けて死して復活したキリストが神の右におられるのを見た。そしてその主に、「主よ、彼らの罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びつつ、息絶えた。(使徒言行録7の5560より)

 イエスご自身は、十字架で釘付けられた言語に絶する苦しみに遭遇したとき、「神様、神様、なぜ私を捨てたのか!」と叫んだのだった。

 しかし、その苦しみの際立ったことのなかに、神の力は働き、十字架の死が私たちの罪からの解放のため、赦しのためだと信じるだけで、罪の赦しというかけがえのないものが与えられる道が開かれた。

 さらに、その死からの復活をされ、聖霊となり、万民に吹きつけ、また渇いたところに湧き出る泉ーいのちの水として求めるものに与えられる道が開かれた。

 これは、弱さの中に神の力があらわされるという最大の出来事だった。

 

 だから、苦しみを受けるときでも、そうでないときも、常に、主の愛にとどまり続けよと言われる。イエスの内にとどまるのでなく、この世の人間の考えやつながりにとどまるとき、

「枝のように投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15の7)

 このような驚くような表現のなかに、現実にこうしたことが至るところで生じているのにきづかされる。

 主イエスのような永遠の真実、愛、清さに結びついていないなら、この世のさまざまの汚れや欲望、権力それらに結びつく考え方などに結びついているなら、たしかに、清いものに感じる心は枯れて焼かれてしまう、というほどに失われてしまう。

 青く美しく広がる大空やそこに浮かぶ真っ白い雲、その姿、色合い…、夜空の星々、また海や山々が持つ限りない奥深さなど、日常的に眼前に繰り広げられていても、それらにまったく気付かないなら、それはそうした自然に込められた神からのメッセージや神の生きて働く姿にも感じない枯れた心というものになってしまうであろう。

 こうした清い、かつ無限大の奥深さを持つ自然のたたずまいは、たえざる私たちへの語りかけでもある。

 その語りかけに敏感になるためには、「(霊的に必要な)すべてを教える」(ヨハネ1427) と約束されている聖なる霊をうける必要がある。

 そしてその聖霊は、迫害という生死をも分からなくなるほどの苦しい状況においても、すべてを教えるといわれたとおり、いうべきことも教え、語りかけてくるのが、記されている。

… 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。           (ルカ1212

 

 苦難のとき、また深い悲しみのとき、そしてそれが長く続くとき、そうした苦しみがなぜ自分に降りかかってくるのかと疑問がふくらみ、信仰から離れていく人たちが多い。

 それゆえに、苦難のときには、「聖霊がすべてのことを教え、私が話しておいたことをすべて思い起こさせてくださる。」(ヨハネ1426)との御言葉どおりに、聖霊がイエスの言葉を思い起こさせてくれること、またあらたに教え、語りかけてくださるのをも待ち望むように導かれる。

 

 真理とは、しずまって主に向うとき、どこか思いだすというほのかな感じを持つ。

 そうした魂の状況は、すでに旧約聖書から記されている。

 このことは、プラトンも 想起 アナムネーシス(ana-mnesis)という言葉を用いて 真理は 単なる学習でなく、「想起」によって獲得されることを説いている。  なおこの語は、すぐあとで触れる 思いだす(ムネーモニューオー mnemoneuo)と語源的に共通しており、英語の リメンバー remember のように、思い起こす、覚える という意味をもっている。

 

・ああ、私は床の上であなたを思い出し(*)、

 夜ふけて私はあなたを思う。           (詩編63の6)

 

 古代においてはーというより日本でも150年ほど前までは、電気もなく、一般の人々は、みな夕暮れとともに窓の明かりの乏しい茅葺き家では、たちまち暗くなってしまい、長い夜の時間となる。

 現代のように、一晩中でも、明るく保つなど考えられないことだった。そのような古代から近年に至るまでの庶民は夜には何をすることもできず、朝は夜明けとともに起きて仕事、ということだったであろう。

 しかし、この聖書の民は、神への生きた信仰を与えられた人たちは、夜となると、祈り、神との霊的対話、交流のときとなったのがうかがえる。

 次の聖句にも、困難なとき、信仰から落ちていこうとするようなとき、思い起こすことの重要性が記されている。

… あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して(*)、それを守りとおし、かつ (神に)方向転換せよ(悔い改め)(**)。

 もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来る。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。

           (黙示録3の3)

*)思い起こす ムネーモニューオー mnemoneuo これは、英語のmemory と語源的には同じである。

**)ヘブル語訳新約聖書では 方向転換の意味である シューブ shub が用いられている。

 

 そして思い起こす ということは、そうした苦難のときでなくとも、毎日の生活のなかで、同じ信仰を持つ人たちの状況を思い起こして祈り、そこに御国がきますように、との祈りが生まれる。

…あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。 (Tテサロニケ1の3)

 

 祈りとは絶えることなき想起ー思いだすことでもある。 神様の愛と真実な導き、そしてそれは現在も生活のいたるところで、その愛とそのまなざしを感じ、静かな語りかけを感じること、そして他者のことも主にあって思い起こすこととつながっていく。

 人知れず、主イエスに心を注ぎだしたこと、聖書のなかには、高価な油をイエスに注いだ女のことが記されていて、主は、 「世界中でこの女のしたことは、記念として伝えられる。(記憶として残され、思いだされていく)」( マタイ2613)と言われていて、その通りになっている。

 

 日曜日もイエスの復活の記念をする日であり、それは同時に私たち自身が死の世界、枯れていたものから命あるものとしてよみがえらせていただいたことを新たに思い起こす日である。

 復活がいかに重要であるのか、いかに人間の歴史にとっても死に勝利することが絶大な勝利、真理であるかを思いだすことのためである。

 使徒パウロは言う。

「復活がないなら、あなた方の信仰は空しく、今なお罪の中にいることになる。  復活を信じないで、キリストに望みをかけているだけなら、すべての人のなかで もっともみじめな存在だ。(Tコリント151719より)

 復活ー死にうち勝つ神の力を信じることは、信仰の生死を分ける重要なことである。

 それゆえに、たえず復活の重要性を思い起こし、その復活の力を新たに受けることのために、イエスが復活した日曜日が主の日となり、礼拝が世界でなされてきた。

 それはまた、聖書の最初の部分で言われているように、神が天地創造を終えて、第七日を聖別して祝福した(創世記2の3)という御言葉の精神をも受け継いでいる。旧約聖書では第七日は土曜日であったが、それを復活の特別な重要性から日曜日に変更されたのであった。

 また、「いつも感謝せよ、絶えず祈れ、いつも喜べ」(*) と言われていることも、やはり過去から現在を静かに祈りの内に思い起こすことによって、さまざまのことが主の生きた愛の導きだと感じられるようになり、自然に感謝が生まれてくる。

 

*)(Tテサロニケ5の1618、コロサイ3の1517など)

 

 このように、私たちの心がさまざまのこの世のことで動かされ、動揺し、疑念にとりつかれようとするとき、静まって神がなされてきたことをひとつずつ思い起こす、それは本来学問や多様な知識、健康、特別な能力、年齢…等々不要で、だれでもが、主を仰いで静まるなら与えられる道である。

 そのような万人に開かれた道をすでに旧約聖書の預言者は啓示によって知らされていた。

 

…見よ、私はあなたを練った。

苦しみの炉をもってあなたに試練を与えた。

          (イザヤ4810より)

 …山は移り、丘は動いても

わが慈しみはあなたから離れることはない。(同5410

 

 主を信じて仰ぎ続けるときには、このように語りかけている神の声、聖霊からの語りかけが魂の深いところから湧き出るように思いだされてくる状況がこれらの言葉が指し示している。

 


 

リストボタン主は備えたもう

   心に残っている御言葉から  

       H.M.(神奈川)

 

「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる。)」(創世記2214)(*

 

 1961年夏。18歳の私は下宿を探して暑い学生街を歩きまわっていました。一週間、探し回ったが、条件に合うところはYMCAの学生寮しかありませんでした。

 朝晩二食付きで月額7200円。

 ここなら空腹の心配なく、東京大空襲の仕返しにアメリカをやっつける新兵器の開発研究に没頭できると思った。応募倍率が約4倍、クリスチャン優先とのことでした。

 キリスト教は、当時の自分にとっては、空襲で親の命を奪った憎いアメリカの宗教で好感を持てませんでしたが、背に腹は代えられない。なんとかここに入りたいと思いました。

 応募資料に保証人の名前を書く欄がありました。親のいない自分は叔父の名前を書くしかありません。これが問題です。叔父の本間誠は、元帝国陸軍大佐。北京のBC級裁判で死刑を求刑された戦争犯罪人です。キリスト教の保証人には一番相応しくないと思いましたが、大変迷った挙句、正直に叔父の名前を書いて提出しました。

 面接は教授と寮監の二名でした。最初に一番恐れていた質問がきました。

「叔父様のお勧めで応募されたのですか」

「いいえ、叔父に知られたら大反対されると思います。」「そんなことはないでしょう。叔父様は偉い先生ですよ。」これは嘘だと思った。戦犯の叔父を褒める人はいない。「違います。叔父は右翼です。」

「またまたそんな冗談を言って。」

「本当です。叔父は筋金入りの右翼です。」

寮監は怒りだした。

「お黙りなさい。それ以上、叔父様の悪口を言ってはなりません。」

 黙って聞いていた教授が口を挟んだ。「これはもう決まりですね。寮に入れて性根を叩き直す必要ありません。明日にでも入寮しなさい。」それで面接が終わりました。

 気がつくと、大勢のライバルを尻目に合格していました。夏休み明けの9月1日、せんべい布団一枚を抱えて入寮しました。これが我が人生の転機となりました。

 実は叔父と同姓同名の教授がおられて牧師をかねていました。その偉い先生の甥御さんと間違えられたのです。その大先生はすでに亡くなっていたのに面接官は知りませんでした。

 本間誠先生の長男しんいちさんはNTTの幹部でした。後日、NTT聖書研究会でお会いしており、この事情をお話すると「親父は死んでからも伝道していたんですな。」と感心しておられました。

 テロリスト志願の少年を主が直接YMCAの学生寮に導いてくださったことが今はっきりと分かります。以上です。ありがとうございました。

 

*)編者注

 ヤハウェ・イルエについて

 この言葉は「アドナイ・エレ」という訳語で親しまれてきた。(口語訳、新改訳)ヘブル語のヤハウェと記される4文字の言葉は、読むのが畏れ多いとして別の「主」を意味するアドナイで読み替えられてきたからである。

 英訳では、次のように主は備えたもう、の意味で訳されているのが多い。

The LORD Will Provide

                    NIV

Yahweh provides NJB

 

 


リストボタンひとつになる

         K.K.

 ヨハネ福音書17章には繰り返し、信じる者がひとつになる、ということが書かれています。

 

 …聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。 (11節)

…父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(21節)

 

 …あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(22節)

 

… わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。(23節)

 このように、2123節と続けて、繰り返されているのを見て、イエス様が信じる者が一つになるということを、強く願われていることを思わされました。 

 そして、イエス様は、わたしたちが一つになりイエス様の内にいることによって、この世の人たちが、わたしたちが神様から遣わされたということがわかるようになる、ということも、繰り返し書かれています。

 信じる者がひとつになるとき、そこに神様の力が働いて伝道になるのだと思わされました。

 いま、こうして、共にあつまり、共に賛美し、祈りをあわせることのできる

 この恵みを心から、神様に感謝します。

 6月に咲くアジサイ。7月になった今も咲いています。

わたしたちも、小さな花ですが、イエス様という、ひとつの木でつながって

集まってひとつになって

晴れの日も、また、雨の日にも、いっそう、雨にぬれながら共に咲くことができますようにと願います。

アジサイという歌を前につくりました。

歌詞を読みます。

 

♪ あじさいは

6月に咲くエクレシア

小さな花が 一つになって

あじさいの花のように

主に結ばれて

きよい歌を共に歌おう。

(ヨハネ1711212223

 

( なお、この内容は、2024年7月7日の主日礼拝 前講の予定原稿です。当日朝に貝出さんが右手を怪我して運転やパソコンなどの操作もできなくなり、病院に夫君の車によって行くことになり、礼拝に参加できなくなりこの前講はなされないままとなりました。)

 


リストボタン編集だより

    読者からのお便りから

〇私の信じる神さまは、私たちに目に見える形で(キリストの十字架)神が表して下さり、その愛はまことに、正義、真実、完全で、欠けたところのない愛であることを、「いのちの水」誌のメッセージから新たに確信が与えられました。 この愛なる神様に信頼してこそ、現在の心痛む世界状況にあっても希望が与えられます。

 神こそわが岩、我が救い、私は決して揺らぐことがない。岩を見ても神さまのメッセージを聞き取れたダビデの信仰に頭下がります。

            (近畿地方の方)

 

〇アルプスの少女ハイジ」小さいころに知っていたハイジと全く違うハイジに出会うことが出来ました。

ハイジの常に人を慰めようとする姿が心に残りました。

この文章を物語が好きな友達と一緒に読もうと思います。

 きっと喜んで聞いてくれると思います。(九州の方)

 

〇「いのちの水」誌に書かれていたハイジのお話しには、主人公ハイジの新しいことー信仰のことを知らせていただきました。

 私は、ハイジの物語は、テレビ放映のとき見ていましたが、テレビからは知らされなかった信仰の面からのハイジを知りたいと思い、あらためて原著の邦訳を読みたいと思っています。 (中部地方の方)

 


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主日礼拝  毎週日曜日午前1030分〜1230分 その他の家庭集会はホームページ参照。 

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