いのちの水 2025年1月号   第767号

 

私たちは落胆しない。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、

私たちの「内なる人」は日々新たにされていく。               (Uコリント 416"

 

   目次

小さきものへの祝福

報告とお知らせ

集会案内

 

 

リストボタン小さきものへの祝福

 

 大きいものを求めるこの世の現実

この世においては、大きいものが人々の目に触れるし、大きいほど注目を浴びるという傾向が強い。

 オリンピックにおいても、勝利の数が大きいほど注目され、それが最大になるのは金メダルということである。同じように一生懸命に競技をしても、記録や点数が小さなものであれば、入賞もできず、メダルもとれないから全く注目されず、無視されてしまう。

  そして金メダルを取るためには、国家が莫大な資金を投じて選手を養成していくから、アメリカ、ロシア、中国といった大国が当然メダルを多く取ることになる。

 こうした何らかの意味で大きいものが重要視されるということは、私たちの生活の至る所で見られる。

 収入も多額ほどよい、家や車も金額の大きいものがよい、成績も点数が大きいのがよい、会社も大きいのがよい、能力も大きいほどよいし、治療にいく病院も大きい病院ほど信頼できる…等々。政治においても、まず数が求められ、支持率という数が小さければ退陣することを余儀なくされる。

 また数をもとに、特定の政党の都合のよいように決めていくことも多く見られる。東アジア・太平洋戦争においても、国民に対して天皇が現人神であるとか、侵略戦争を聖戦であると教育の場でも徹底的に教え込んで、戦争を正しいものだという多数の人間を作り出した。

 太平洋戦争が始まってすぐに真珠湾攻撃で圧倒的な勝利を得て同時に南方にも進撃していったが、そのころに多数決をとっていたら、圧倒的に戦争に賛成という人たちが多くなったであろう。しかし、その大多数が大いなる誤りを犯していたのだった。

 このように、多数であるから正しいということは決してあてはまらない。

 民主主義というのは、多数決で決めていくために、多数が正しいという錯覚を起こしやすい。しかし、真実がわかっていない人たちがいくら多数いても、ごく少数の真実を知っている人たちには及ばない。真理よりも数の多いほうを重んじるなら、真理でないものを重んじることになる。

 こうした民主主義的な手法の弱点をすでにプラトンは今から二千四百年ほども昔から鋭く見抜いて、彼の主著「国家」ではその問題点をかなり詳しく論じている。

 そのなかに次のような個所がある。

 

 …多数を重んじるために、多数の機嫌をとるということが広く行われるようになる。民衆に対して「ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば、尊敬するようになる。」

    (「国家」五五八C)

 現代の政治もまさにこのように、大衆の一時的な好意を得ようと、力を注いでいる。

 そのために、最も直感的に「大きなもの」としてのカネをちらつかせている。

 また今後も重大な問題をはらんだままであり続ける原発大事故も、もとはと言えば、多額のカネの力で反対する人たちをおさえていって、バラ色の未来があるなどと偽りの宣伝をした結果、生じたことなのである。

 また、教師は、生徒に対してやはり多数の生徒の人気を得ようとして、生徒の機嫌とりのような姿勢が多くなっている。このことについても、プラトンは次のように書いている。

「…このような状態の中では、先生は生徒を恐れて機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。

 一般に、若者は年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者をまねて機智や冗談でいっぱいの人間になる。」(同五六三A)

 

 これは、今から2400年ほども昔の時代と現代の状況とが余りにも似ているのに驚かされる。

 数が多いほどよい、という考え方は、子供から大人まで、ごく普通に見られることである。

 それゆえ、小さきものに深い意味があるとか特別な祝福がある、などといったことは考えることもしない傾向がある。

 

 

まず神に聞く

 こうした一般的な見方に対して、聖書は全く異なる見方をしている。

 聖書には、最初から大きいものほどよい、といった考え方は全く見られない。

 聖書の最初は 闇と空虚であって、それは世界がそのようなものであるということを暗示している。

 そして大切なのは、この世の闇の中にあって、神からの風をうけるかどうか、また、その闇の力に打ち勝つ光を与えられているかどうかこそが根本問題とされている。

 また、もう一つの世界の創造に関する啓示は、創世記の二章にあるが、そこではこの世界は、渇ききったものであって、そこに命を与える水が流れているのであり、その水に気付いてそれを受け取るかどうかこそが根本問題であるということが暗示されている。

 このように、聖書でははじめから、大きいものに執着するという人間の本性とは異なる道を指し示している。

 聖書で唯一の神を信じる信仰の基本的な姿を示しているアブラハムにおいても、彼が大きいものに価値を認めたというようなことは全く記されていない。彼の生涯の決定的な分かれ目は、神からの語りかけを聞いてそれに従って未知の遠い地へと旅立ったということである。

 ここにも、財産が大きいものとか少ない者とか関係なく、神からの語りかけを聞き取ったかどうか、そしてその神の言葉に従うかどうかがもっとも重要とされている。

 彼は何か大きいものにあこがれて郷里の人々や財産を捨てて出発していったのでなく、場合によっては自分の命すら危ない状況があるだろうし、途中で何が生じるかわからない、また神が示す地に到着したとしても、すでにそこには別の民族の人たちが住んでいるのであって、生きていく保証もないのである。

 現代では、大きな(上位の)得点、優勝、メダル、よい成績、有名大学、有名会社、多額の報酬、…等々、小さいころから、「大きなもの」を目指すのがよいことだという考え方は、あらゆる社会のなかにしみ込んでいる。

 そうした状況を考えるとき、大きいものを目指して歩みをはじめるということとは全くことなる原理で聖書の代表的人物はその歩みを開始しているのがわかる。

 

神の力を信じ、小さくされることの重要性

 このように、神に従うことが根本とされているから、そして神は愛であるゆえに、小さきもの、壊れかかったものを大切にする。

 そのことは、旧約聖書のもっとも重要な預言者とされるイザヤ書にもみられる。

 

…傷ついた葦を折ることなく、

暗くなってゆく灯心を消すことなく、

真実の内に正義を生み出す。(イザヤ書42の3)

 

そのことをはっきりさせるために、あえて少数を選ぶということも記されている。

 今から三千年以上も昔、イスラエルのギデオンという指導者が、神によって呼びだされて敵との戦いにあたることになった。そのとき、三万二千人ほどの兵士がいたが、それでは多すぎるということで、その百分の一にあたる三百人ほどにまで選別したということが書いてある。

 しかもその選別にあたっては、兵士をまず、恐れているものを帰らせたのち、小さな水の流れへと残りの兵士を連れて行き、そこで水を自由に飲ませた。その飲み方によって三百人ほどにまで少なくした。

 およそ、戦いということにおいて、三万二千人よりも、三百人のほうがよいなどと考えるものはまずいないであろう。しかし、神はあえてそのような少ない人数にすることを命じられた。

 このことは、まず数の力を求めるのでなく、まず神の力を信じることの重要性を示している。

 旧約聖書の創世記に現れる最も重要な人物の一人である、ヨセフは末っ子であった上に、特別にすぐれた能力を持っていたこともあって、父親に特に愛されたが、兄弟たちから憎まれて殺されそうになり、そのあげくにエジプトへと売られていく。そしてそこでも無実の罪で牢獄に入れられたり、苦しいことが重なることもあったが、そうしたことをも忍耐と希望をもって受けいれていった。

 そして彼の預言的な能力が用いられて、エジプトで起きる長い飢饉を神の啓示によってあらかじめ知ることができ、それによってエジプトは飢饉に備えて国の安定を確保することができた。それゆえに、ヨセフは国王に次ぐ地位まで上がることになった。

 このようなことも、もしヨセフが苦難に遭遇しなかったら自分の能力を自慢し高ぶる人間になっていたであろう。

 神はそのようなヨセフを打ち砕き、小さくすることによって神の祝福が豊かに流れ込むようになさったのである。

 また、やはり聖書のなかでも特に重要な人物であるダビデは、若いときからすでに並ぶものもないほどの武力を発揮して、どのような兵士も対抗できなかった敵軍の巨人ゴリアテを石投げだけで、いわば素手同然で倒したし、楽器の演奏や詩作の才能も与えられていた。そして羊飼いの少年にすぎなかったダビデは王の側近のようになり、さらに王以上の働きをするようになって民衆からも支持された。

 そのように類まれな実力を発揮していくとき、王によって妬まれ、憎しみを受けて命をねらわれる。そしてダビデは砂漠地帯をあちこちと逃げていく。そうした苦しい状況において詩が作られたがそれらは貴重なものとなって伝えられた。

 そうした苦難の歳月ののちに、王は戦死する。そしてダビデが王となった。王となったダビデは次々と周囲の国々を平定していき、王国は広大となっていった。このように王として頂点に立ったとき、ダビデは甚だしい罪をおかすことになった。夫のある女性に心を奪われ、自分のものとしてしまった上に、その女性の夫を激しい戦いの前線に送り出して戦死するように仕向けた。

 このような悪事は神によって厳しく罰せられることになり、それ以後ダビデの家庭には醜い争いや混乱が生じ、兄弟同志の憎しみから命を奪うことや、父親のダビデに向かって敵意をむきだしにして王位を奪い取り、殺そうとまでする息子まであらわれた。ダビデはその息子アブサロムから逃れようと王宮を出て砂漠地帯をさまよい苦しみの日々が続いた。

 このようなこともすべてダビデの犯した重い罪のゆえであった。

 こうした苦難は単なる罰だけではない。それは若くして王の側近のように取り立てられたとき、そこからの傲慢が生じないようにとの目的があった。

 また王となって最も広大な領地を獲得した絶頂期にあってそこで彼は神の絶大な力、偉大さを忘れ、自分の武力や権力の大きさに魂の目がくらんだといえよう。

 そのような増大していく自我、自分の力に頼ることを根底から打ち砕くために、神は厳しい罰を与えたのであって、大きくなったダビデを小さなものに過ぎないということを徹底的に思い知らせるためなのであった。

 人間はだれでも何も苦しいことや悲しむべきことが起こらないときには、神の無限の大きさを忘れ、自分がひとかどの者であるかのように錯覚していく。

 神は小さきものへとするために人それぞれに思いもよらないようなことを起こし、その苦しみや悲しみの中から、小さくしていかれる。そして自分というものがいかに小さきものであるかを、思い知ったときに初めて神からの祝福が豊かに受け取れるようになる。

 

詩篇

ー小さくされたものの叫び

 旧約聖書においてとくに重要な内容を持っている詩編においても、困難や苦難における圧迫された状況から、みずからが砕かれ、小さくされ、そこから神への叫びをあげ、神との深いつながりを持つようになっていく例が多く記されている。

 

主よ、あなたを呼び求めます。

わたしの岩よ

わたしに対して沈黙しないでください。

あなたが黙しておられるなら

わたしは墓に下る者とされてしまいます。

嘆き祈るわたしの声を聞いてください。

至聖所(*)に向かって手を上げ

あなたに救いを求めて叫びます。(詩編二八・1〜2)

 

*)至聖所とは、神の最も重要な言葉(十戒)を記した板を納めていた可動式の幕屋。(一種のテント)

 

 ここには、もし神が自分に答えて下さらないなら、滅んでしまう、という追い詰められた心がはっきりと感じられる。自分はもはや何ものでもない。ただ神の答えを待ち望むだけだという気持がある。

 このような魂の状態こそ、小さくされた姿である。そして神を全面的に信頼し、ただ神だけをまっすぐに見つめるというその姿勢は、主イエスが言われたような「幼な子」のような心である。

 神を讃美し、神に心からの感謝を捧げるという心は、自分が大きいのだ、自分こそはほめたたえられるべき人間だなどといった思いを持っている人には到底できないことである。

 キリスト教世界は、この二千年の間に無数の賛美歌、聖歌を生み出してきたが、それは神の前に自らがいかに小さいかを知らされた魂からの叫びであり、また感謝なのである。 

 

キリストと小さきものへの福音

 主イエスの教えとして最も広く知られている次の言葉もまさにこうした小さくされることのなかにある祝福を指し示すものである。

 

…ああ、幸いだ、悲しむ者たちは。

彼らは(神によって)励まされ(慰められ)るからである。

ああ、幸いだ、霊において貧しき者たちは。

天の国は彼らのものだからである。(マタイ五・34

 

 私たちが深い悲しみや苦しみに追いつめられたとき、自分の小さいことを思い知らされる。心貧しいとは、自分のなかに誇るべきもの、頼るものが何もないと深く知らされた心を言う。

 また、次の言葉は、一見柔和な人が土地を受け継いでいくという意味に受け取られる。

 

「柔和な者は幸いだ、その人たちは地を受け継ぐ。」    (マタイ五・5

 

 しかし、この聖句は、旧約聖書の詩編三七編十一節の引用である。そこでは、

 

「圧迫されている人は地を継ぐ。」(詩編三七・11

 

であって、これが本来の意味である。(*

 貧しく圧迫されているような人がかえって、神の約束の地を与えられるようになるという驚くべき神のなさり方がここには記されている。

 日本語においては、「柔和な人」というのと、「貧しい、あるいは圧迫された、しいたげられた人たち」というのとは全く意味が異なる。柔和な人、というと一般的には、やさしい、物柔らかな態度を連想するのであって、貧しいとか落胆しているとか苦しんでいるといったニュアンスは全くないからである。

 この詩編の言葉のすぐ前には、

 

「主に望みを置く人は、地を継ぐ。主に逆らう者は消え去る。」(詩編三七・9〜10)

 

とあるので、「貧しい人が地を継ぐ」ということも、よく似た意味を表現を変えて言っているのだとわかる。

 

*)この「貧しい人」と訳された原語(ヘブル語)は、「圧迫された、曲げられた」といった意味を持つので、ドイツの注解シリーズとして有名なATDは、これを die Gebeugten ((圧迫され)曲げられた、意気消沈した人たち)と訳しているし、英語訳にも、the oppressed(圧迫された、しいたげられた人たち)と訳している(NET)。 また、Oppressed people と訳しているのもある。(GWN

 

 このように、主イエスの教えとして、最も広く知られている「幸い」についての教えは、その中心に「心の貧しい者、悲しむ者、圧迫された者たち」といった者へのメッセージが込められているのがわかる。

 このような人たちは、自分自身の小さきことを深く知らされている魂の人たちである。こうして新約聖書の最初の書であるマタイ福音書では、山上の教えのなかで、小さき者たちが受ける祝福をそのはじめに置いているのである。こうした配置も、聖霊が導いてなされたゆえである。

 

 それに対して旧約聖書ではどうであろうか。

 旧約においては、まず人間の基本的なあり方として、神に聞く、そして従うことが一貫して述べられている。すでにあげた信仰の父とも言われるアブラハムの生涯の記述は、彼が神の声に聞いて従うところから始まっている。

 そして、アダムとエバが理想的なよき場所から追放されたのも、闇のなかの光のように、神によって完全に備えられたエデンの園にあって、神の言葉に聴こうとしなかったからである。ノアのはこ舟の記事も、また神に聴いて従った人と、聴こうとしなかった人たちが受ける運命が共に対照的に描かれている。

 従おうとしないということは、神などいないとみなすか、自分は神の罰や裁きなどないし、また神からの罰などなんでもないとみなすほど自分というものを大きく見ているということである。

 旧約聖書の預言者たちも、つねに神に聞くこと、従うことを語り続けてきた。

 それは神にすべてを委ねることができるほどに、小さな者となれ、幼な子のように神をまっすぐに見つめよということであった。

 神に聞け、という単純なことをもとにして、旧約聖書は書かれているといえるほどである。神の前にその正義の力を畏れないほどに自分を大きいものとみなしてはいけないということなのである。

 

 新約聖書において、主イエスはすでに述べたように、心貧しき者、悲しむ者、圧迫された者をとくに配慮された。それはそのような状態に置かれたものはおのずから小さきものとなっているからである。

 キリストがとくに心を注がれたのは、すでに述べてきたようなさまざまの意味において小さくされた人たちであった。

 当時の世界で、生まれつき目が見えないとか、ハンセン病、あるいは足が立たない、耳が聞こえないがゆえに言葉もわからず、言葉を発することもできないような人たちは、周囲からの差別によって圧迫され、貧しく、また深い悲しみにある人たちであっただろう。福音書でも主イエスがまずそのように小さくされた人たちのところに出かけ、あるいはそのような人たちの必死の叫びを受けいれられたのであった。

 そして、実際に幼な子を側に呼び寄せて言われたことがある。

 

 すると、イエスは幼な子(*)を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。

  この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。…

 あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。

(人の子は、失われたものを救うために来た。)(**

 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。

  はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。

そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ福音書十八・2〜10より)

 

*)幼な子と訳された原語(ギリシャ語)は、パイディオンで、この語は、乳児のような幼な子、あるいは一般的な子どもをも意味する。例えば、新共同訳ではこの言葉を「子供」と訳しているが、イエスの誕生のときに東の博士たちが会いに来たイエスについては、「幼な子」と訳している。ヘブル書では生まれて三カ月の乳児であったモーセについても使われている。   (ヘブル書十一・23

 

**)この節は、四世紀ごろのシナイ写本やバチカン写本にはない。しかし、五世紀のベザ写本やワシントンにある写本その他もいろいろな写本にもみられるので、カッコを付けたり、新共同訳ではこの福音書の巻末に付加しているが、古くからこの節も伝えられてきた。なお、この節は、ルカ福音書の1910「人の子は失われた者を救うために来た」と同じである。

 

 この箇所は、小さき者への主イエスの特別な関心を示すところである。このような小さきものへの深い関心は、深い英知を持っていたはずのギリシャ哲学の代表者ともいうべきプラトンの著作にも見られないことである。

 自分を低くするとは、自分の罪を知るということである。そこからすべてが出発する。たしかに自分がいかに弱く、正しい道を歩けない小さな存在なのかを知らないなら、神に助けを求めることもしないし、救い主など不要とみなすことになる。

 また、能力もなく仕事もできないような人、それは幼児はまさにそのようなものであるが、大人であっても、病気等のゆえにそのような状態にある人も多い。この世ではそのような人を軽視し、見下すことになる。しかし、そのような小さき人をも、主が愛されているのだ、主によって深い意味をもって存在しているのだと受けいれるときには、イエスをも受けいれることにつながっているという。

 大きなものー地位や名声、あるいは芸術、スポーツなどで有名な人は、多くの人たちが受けいれる。それゆえにオリンピックのような競技は世界中が注目する。しかし、小さきものを受けいれるということは、神と結びついていなければ難しい。

 小さきものには、特別に神と近い天使がついていると主イエスは言われた。

 

この世では人から無視され、捨てられることが多いが、神は決して見捨てないで、かえってそのような特別な天使がいると言われている。

 

…「これらの小さな者を一人でも軽んじないように心せよ。

私は真実を言う。彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ1810

 

 「幼な子のような者にならなければ、天国に入れない」という。天国とは、ほかの福音書では神の国と記されていることで、本来の意味は神の王としての支配(愛、真実をもって導く)というものである。その神の支配が及んでいる領域も意味するようになって、死後の霊的な世界も含むことにもなっている。

 幼な子のような心、それは幼稚な心というのではなく、幼な子が、母親に心から信頼するように全面的に神に信頼するということである。そしてそれは、主イエスが山上の教えで話された、「心の貧しい者」でもある。

 新約聖書でよく知られた放蕩息子のたとえがある。父が生きているうちから、自分がもらうことになっている財産の分け前をもらって仕事もせずに遠いところに出かけ、遊び暮らしていよいよ生きられなくなったとき、ようやく自分の罪に気付いて、父のもとに帰ろうと決心した息子のたとえである。

 ここには、自分がどんなに遊んでも義務を果たさなくとも、罰を受けることもない、と、神の裁きなど全く気にも留めない態度があった。しかしそうしたいわば大きな態度が、根本から砕かれる必要があった。その息子は、自分の罪に気付いてから、「もう息子と呼ばれる資格はない。使用人の一人にして欲しい」という気持になった。

 これは、自分が小さなものに過ぎないということに初めて気づいた、そのような意識へと変えられたということである。

 そのように変えられたとき、父親は遠くから走り寄り、抱きしめ、今までにしたことのないような最大限の歓迎をしたと記されている。それは、いかに、そうした小さきものへと変えられた魂を神が愛しておられるかということを表している。

 しかし、それまでずっとまじめに働いてきた兄のほうは、そのような遊び暮らしてきた弟が帰って来て、父親が高価な子牛をも調理して食べさせたりするのを見て、なぜそんなことをするのか、自分はずっと長い間、父親に従って働いてきたのに何一つそのようなものはくれなかったではないかと、父親に向かって不満を述べ立てた。

 これは、自分はひとかどの者だ、自分こそ立派な者なのだ、という高ぶった意識が心の深いところにあったのを表している。このような自分が大きい者なのだという意識を持っているならば、そこには神の祝福はないということを、このたとえは示そうとしている。

 

 小さきものの重視と愛

 私たちが自分は大きい者である、と思い込んでいるとき、それは罪を知らない姿である。自分がいかに正しい道や、真実な愛の実行が困難であるかを思い知らされたとき、また病気の苦しさや人間関係の解決がいかに困難であるかを知らされた者は、自分がほんとうに小さな存在であることを知らされる。

 今の自分という存在そのものも、数年あるいは数十年、せいぜい六〇〜七〇年ほどののちには必ず朽ち果てて病気となり死んでいく。そのことを考えただけでも実に小さなはかない存在である。

 こうしたことを静かに思うとき、キリスト教の内容とか関係なく、理性的に考えても、自分が小さいものだと実感することこそ、ごく当たり前のことだと知らされる。その当たり前のことを深く知ることからあらゆるよきものへと通じる道が開けていく。聖書はそのことを詳しくさまざまの方面から記している書物だといえよう。

 人間はどんなに大きいように見えても実に取るに足りない。それは死が近づくとだれもが思い知らされることである。学者も、天才もあるいはマスコミをにぎわしたような芸能人でも、老年となり、病気になり、死が近づくとき実に小さきものとなっていく。

 そのような小さい存在になるとき、周囲の人間は多くが関心を持たなくなる。

 しかし、神はいっそう心に留めてくださる。

 

 キリスト教の中心となる真理は、イエスの十字架の死は、人々の罪を身代わりになって受けたこと、そのことを信じるだけで私たちの罪が赦されるということ、そして、万物を覆っている死の力に勝利すること、復活を信じて死の力に勝利し、永遠の命を与えられることである。。

 これらはみな、人間は無に等しいような小さき存在であるが、それを神の前で大きい存在として下さるための道であると知らされる。 罪赦され、清められて私たちは日々新たにしていただき、最終的には、復活を与えられ、主イエスの栄光と同じ姿にまで変えられるという。

 主イエスの栄光とは神の栄光であり、それ以上に大きなことはない。それは、信じがたいほどの大いなることである。

 

…わたしたちは皆、…栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく。これは主の霊の働きによる。    (Uコリント 3の18

 

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〇1月4日(土)〜5日(日)の二日間、徳島聖書キリスト集会所を会場として、冬期聖書集会が開催されました。

 この冬期聖書集会は、ずっと以前に、キリスト教独立伝道会主宰で、以前は、伊豆半島、ついで神奈川県のやや山間部に入った「森の家」また、奥多摩のキリスト教施設で開催されたこともありました。

 いずれも関東地域であったので、去年から、四国の徳島で開催されるようになっています。

 今回の主題聖書箇所は旧約聖書の預言書の一つ、ミカ書全体でした。

 第一日目は、ミカ書は7章あるので、7人の会場やオンラインの方々に担当していただき、それぞれ15分ほどで、担当の個所について、現代の私たちへのメッセージとして語っていただくことでした。

 去年からこうした形でなされていますが、このような方式は長い無教会の歴史においても、初めてのことと思われます。

 各自の自由時間に、家庭で一人で通読する、あるいは聖書講習会といった合同の集会で特定の講師が全体をピックアップしつつ、大事なところを詳しく時間をかけて講義、あるいは講話する、というのが普通です。、

 それぞれに恵みを受けるのですが、今回のような形は、それぞれの受け止め方の若干の相違はあっても、全体として2700年ほども昔の書でありながら、現代にも流れているアモス書に込められた神の言葉の流れの中に浸されるという幸いなひとときを与えられたことです。

 聖書を中心とした集会は、一般的な研究会や講演、また討論などと異なり、礼拝であり、それゆえに、研究討議、質疑応答が中心ではありません。

「二人三人私の名によって集まるところには私はいる」    (マタイ 1820

という主の約束どおり、二人三人であっても主を信じ、仰ぎつつ集まるところに主はともにいてくださる。それゆえに、そのキリストご自身を受けることが根本的な目的です。

キリストご自身とは、聖霊であり、神と同じ本質ーすなわち永遠の愛、変ることなき真実、美そのもの、また清らかさ…言い換えるとそれらすべてを含めての神の力を受けることです。

 キリストが捕らえられたとき、弟子の筆頭株のペテロさえ、その場から逃げ出し、その後、あなたもイエスの仲間だったといわれて、あんな人は知らないと強く繰り返し言うほどの弱き弟子たちが、見違えるように再生して、命がけで福音伝道に生きるようになったのは、思索や議論、研究、いろいろな知識などでは全くなかった。

 それはキリストの本質でもある、聖なる霊を受けることによってでした。

 今回の二日間の冬期聖書集会によって、確かにそのあいだ、冬期聖書集会所に集められた方々とともに、北海道から九州までの各地のオンライン参加者も合わせ たしかに主の約束どおり、そこに主がいまして、参加者一人一人にその聖なる霊を与えてくださったと実感したことです。

第二日目は、吉村孝雄の二回の聖書講話、参加者全体の感話などで次号掲載予定です。

 

4日(土)の参加者31

(会場12名、オンライン19名)

5日(日)主日礼拝 

 参加者63

(会場18名、オンライン45名)

〇なお、この冬期聖書集会の全内容の録音CDが作成されています。希望者は、左の数度 勝茂さんに申込してください。MP3形式で1枚のCDに収録されています。代金は500円(送料込)。

(切手でも可。)

アドレス

〇今月号に同封した「野の花」文集、同封されていなかった方、また、さらに希望あれば追加送付できます。

 追加分に関しての代金は、一冊500円(送料込)です。集会案内

 

〇 主日礼拝 毎週日曜日 午前1030分から。徳島市南田宮1丁目の集会所とオンライン併用。

以下は、天宝堂集会だけが対面とオンライン併用で、あとは、オンライン(スカイプ)参加希望の方は、吉村まで連絡ください。

〇 夕拝…毎月第一、第三火曜日夜730分〜9

〇 家庭集会

@ 天宝堂集会…毎月第二金曜日 午後8時〜930

A 北島集会…・第四火曜日午後730分〜9時、

・第二月曜日 午後1時〜

B 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時〜12

 

 

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 集会案内

 http://pistis.jp (「徳島聖書キリスト集会」で検索)