福音 №413  202210

「孤独は神に達する恩恵の道」

「隣人を自分のように愛しなさい」というイエス様のお言葉を思っていると、何が欠けていると言っても、私に一番欠けているのは愛だと心底分かってくる。

人の誕生日とかを覚えるのも各別苦手だが、これも人に対して愛のない証拠ではないかとふと思った時、誕生日を覚えて必ず電話をくださったYさんを思い出した。そしてYさんの内村鑑三「続一日一生」には、毎日のページの余白に、その日が誕生日の人の名が何人も記されていたのを思い出し、そうだ、それで毎日「続一日一生」を読んだ後、その日に記された人を覚えて祈り、「今日はあなたの誕生日、おめでとう」と連絡することもできたのだと気づいた。この年になってでは遅いような気もするけれど善は急げ、それにしてもYさん「一日一生」ではなくてなぜ「続」の方だったのだろうと思いながら本棚を探して、見つけてアッと驚いた。表紙の裏に、美しい毛筆で「天にあるふるさと めざして ともに Y」と記されていた。

ある時は姉のように、ある時は母のように気にかけてくださったのに、そのお心に何も応えないうちに急死されて、申し訳なかったなあと思いながら今日、1012日を開いてみた。

 

 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。(詩編27:10)

 人は相互をいやがり、また相互にいやがられる。しかし神のみ、ひとり人を愛したもう。しかして人はみな孤独であって、神を侶伴(とも)として持って初めて孤独でなくなるのである。

 われ独(ひと)りあるにあらず。父われと共にあるなり

とは、イエス一人に限らない、すべて深く人生を味わう者のひとしく発する言である。しかして独りこの大いなる侶伴と共にあるに至って、人は何びとも他をいやがることなく、かえってすべての人を愛するに至るのである。

 されば人は何びともまずまことに一人となるべきである。「真正の無教会信者」となるべきである。しかして独り神と共にあるを得て、すべての人を愛して、神の宇宙の教会にいるべきである。

 孤独!余輩に限らない、人はすべて孤独である。しかして孤独は神に達するの恩恵の道である。人は団体をなして神に達することはできない。神にいたるの道は個々別々である。人は個々別々、独り死して神の国にいたるように、個々別々、人と離れて、独り神を意識し、彼と深き愛的関係に入るのである。 「続一日一生・1012日」

 

 Yさんに読み聞かせられる思いでこの文を読み、そうか、人はまず「独り神と共にあるを得て、すべての人を愛する」ことができるのだと心に落ちた。キリスト教ではよく愛が大切、交わりが大事、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」1ヨハネ4:20と言うけれど、真に人を愛するためにはまず、孤独の中で、神と共にあることが先なのだ。

 

人はすべて孤独である。しかして孤独は神に達する恩恵の道である。

 

確かに、福音書の中でイエス様を求めた人たちは、みな孤独だった。

「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。・・・悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」と大声で言って、子供をいやされた父親の心も、それまでどんなに孤独だったことか。ルカ9:38

イエス様にライ病をいやされた10人の人、しかし、癒されたことを喜び、イエスの足もとにひれ伏し感謝したのはたった一人だった。ルカ17:15

四人の人に運ばれてイエス様のもとに連れてこられた中風の人、この人は友人がいて孤独でなかっただろうか。イエス様の「子よ、あなたの罪は赦される」との一言に、この人の孤独がにじみでている。マルコ2:5

 

人間に頼ることをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。イザヤ2:22

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、この心が主を離れ去っている人は。エレミヤ17:5

神を信じること、罪を赦されること、天に名を記されること、人間にとって肝心かなめのことは、神の前に独り立つよりほかにない。花婿を迎える大切な時に、ともし火が消えてしまった乙女が「油を分けてください」と仲間の人に頼んでも、「分けてあげるほどはありません」自分の分は自分で買ってきなさいと言われたことを思い出す。

 

人はすべて孤独である。しかし、孤独は神に達するの恩恵の道である。

 

今日の水曜集会で学んだ「天国のたとえ」マタイ13:44-46でも、畑で宝を見つけた人は、その宝をみんなで分け合おうとはしなかった。高価な真珠を見つけた人も、何人かで共同購入したわけではない。ここでいう、宝・真珠とは、キリストの救い、十字架による罪の赦しという驚くべき神の恵みであるが、その恵みを見つけた人は、自分一人で「持ち物をすっかり売り払って」それを買ったのである。

 

独りであることを恐れまい。私たちはみな「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とひとり人神に祈ることができる。何ができなくても、ありのままの自分を差し出すことができる。主よ、あなたのものにしてくださいと明け渡すことができる。その時にこそ、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに、喜んで従えるに違いない。