福音 №406 20223

「天のお父さま」

 

てんにいます

おんちちうえをよびて

おんちちうえさま

おんちちうえさまととなえまつる

いずるいきによび

入りきたるいきによびたてまつる

われはみなをよぶばかりのものにてあり

      八木重吉

 

天のお父さまと

声を出して

お呼びしたい

 

声を出さないで

お呼びしても

お聞きくださると

信じているけれども

 

やはり

天のお父さまと

声を出して

お呼びしたい

     水野源三

 

神さまを「天のお父さま」と呼んでいいのだと、

神さまは「あなたの父」なのだと

教えてくださったのはイエスさまだった。

 

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」マタイ3:17と、

父なる神さまのお声が天から聞こえたイエスさま。

このイエスさまだけが、神さまのお心にかなう神の御子。神の独り子。

なのに、わたしの父はあなたがたにとっても父なのだと、

「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」マタイ6:6と教えてくださった。

 

「天におられる私たちの父」

天に・・・そう、天に

おられる・・・「わたしはある」と言われるお方

私たちの・・・神様に祈ろうとするすべての人の

父・・・「天の父」とはどのようなお方であるか、誰にでもよく分かるようにイエスさまは話してくださった。

 

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」マタイ7:9-11

「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。ルカ11:13

 

どんなに科学が進んでも、文化的な生活をしていても、戦争を止めることのできない私たち。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と知っているのに、人が人を殺して幸せになれるはずがないと、誰だって分かっているのに、父なる神さまに背を向けて、地上をさまよい、さすらい続ける私たち。

 

ルカによる福音書15章、「放蕩息子」のたとえには、父なる神の愛が完璧なまでに語られ、描かれ、奏でられている。神を離れてさまよい歩く人間の悲惨な姿、その人間を待ちわびる父なる神、

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と、ボロボロになって帰ってきた息子を、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ」と喜び祝う父の愛。

 この愛は、十字架の上で「お父さま、あの人たちを赦してやってください。何をしているか知らずにいるのです」(塚本訳ルカ23:34)と、自分を殺そうとする人たちのために祈られた、キリストの十字架の愛だと、私たちは知っている。

 

主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。

わたしは貧しく、身を屈めています。詩篇68:1

主よ、憐れんでください、絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。3

主よ、わたしの祈りをお聞きください。6

主よ、あなたの道を教えてください。

一筋の心をわたしにお与えください。11

主よ、わたしの神よ、心を尽くしてあなたに感謝をささげます。12

主よ、あなたは必ずわたしを助け、力づけてくださいます。17

 

いつ読んでも、これは私の詩!と胸に迫る詩編86編。だが、この詩を詠んだダビデも、主なる神を、「お父さま」と呼んでいいのだとは、知らされていなかった。

「多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」ルカ10:24

 

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と、「わたしたちの天のお父様」と祈るようにと「主の祈り」を教えてくださったイエスさま。

 

「われはみなをよぶばかりのものにてあり」

「天のお父さまと 声をだして お呼びしたい」

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ロマ書10:13・ヨエル3:5と、

今も御言葉は、全地に響きわたっている。