福音 №406 2022年3月
「天のお父さま」
てんにいます
おんちちうえをよびて
おんちちうえさま
おんちちうえさまととなえまつる
いずるいきによび
入りきたるいきによびたてまつる
われはみなをよぶばかりのものにてあり
八木重吉
天のお父さまと
声を出して
お呼びしたい
声を出さないで
お呼びしても
お聞きくださると
信じているけれども
やはり
天のお父さまと
声を出して
お呼びしたい
水野源三
神さまを「天のお父さま」と呼んでいいのだと、
神さまは「あなたの父」なのだと
教えてくださったのはイエスさまだった。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」マタイ3:17と、
父なる神さまのお声が天から聞こえたイエスさま。
このイエスさまだけが、神さまのお心にかなう神の御子。神の独り子。
なのに、わたしの父はあなたがたにとっても父なのだと、
「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」マタイ6:6と教えてくださった。
「天におられる私たちの父」
天に・・・そう、天に
おられる・・・「わたしはある」と言われるお方
私たちの・・・神様に祈ろうとするすべての人の
父・・・「天の父」とはどのようなお方であるか、誰にでもよく分かるようにイエスさまは話してくださった。
「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」マタイ7:9-11
「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。ルカ11:13
どんなに科学が進んでも、文化的な生活をしていても、戦争を止めることのできない私たち。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と知っているのに、人が人を殺して幸せになれるはずがないと、誰だって分かっているのに、父なる神さまに背を向けて、地上をさまよい、さすらい続ける私たち。
ルカによる福音書15章、「放蕩息子」のたとえには、父なる神の愛が完璧なまでに語られ、描かれ、奏でられている。神を離れてさまよい歩く人間の悲惨な姿、その人間を待ちわびる父なる神、
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と、ボロボロになって帰ってきた息子を、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ」と喜び祝う父の愛。
この愛は、十字架の上で「お父さま、あの人たちを赦してやってください。何をしているか知らずにいるのです」(塚本訳ルカ23:34)と、自分を殺そうとする人たちのために祈られた、キリストの十字架の愛だと、私たちは知っている。
主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。
わたしは貧しく、身を屈めています。詩篇68:1
主よ、憐れんでください、絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。3
主よ、わたしの祈りをお聞きください。6
主よ、あなたの道を教えてください。
一筋の心をわたしにお与えください。11
主よ、わたしの神よ、心を尽くしてあなたに感謝をささげます。12
主よ、あなたは必ずわたしを助け、力づけてくださいます。17
いつ読んでも、これは私の詩!と胸に迫る詩編86編。だが、この詩を詠んだダビデも、主なる神を、「お父さま」と呼んでいいのだとは、知らされていなかった。
「多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」ルカ10:24
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と、「わたしたちの天のお父様」と祈るようにと「主の祈り」を教えてくださったイエスさま。
「われはみなをよぶばかりのものにてあり」
「天のお父さまと 声をだして お呼びしたい」
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ロマ書10:13・ヨエル3:5と、
今も御言葉は、全地に響きわたっている。