福音 №408 20225

 

「祈り」

 

「イエスはある所で祈っておられた」、とルカ福音書11章は始まる。イエス様が祈り終わった時、「わたしたちにも祈りを教えてください」と言った弟子の一人に、「祈るときには、こう言いなさい」と教えられたのが「主の祈り」であった。(ルカではそうなっている)

 

父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。

   わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

   わたしたちの罪を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。

 

「祈りを教えてください」という時の「祈り」とは、単に私たちが叶えてほしい願いとかではなく、「祈るべきこと」という意味だろう。願い事としての祈りならクリスチャンに限らず、誰にでもあり、それを形にすれば七夕の短冊のようにひらひらと舞っている。

祈りが人間の側からの一方的な願いであり、神様はその願いを叶えるためにおられるとしたら、そんな神様いなくていいかなって思ってしまう。いや、いない方がいい。人間のその時々の勝手な願いが全部叶ったら、今よりひどい世の中になってしまうだろうから。

悪いことをされて、仕返ししたくてたまらない時に、「悪人に手向かってはならない」と言われるイエス様。

この世での安定した生活、有意義な人生のために、まずお金!と思っていると「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい」と言われるイエス様。

イエス様のお言葉に耳を傾けるとは、私たちが日々何を願い、何を祈って生きるべきなのかを知ることであり、神様に造られた人間のあるべき姿を示されることなのだ。

 

「人は、彼が祈るように生き、また歩み、また生活するものである」という。だとすると、その人が「何を祈るか」は、その人の日々の生活を、ひいてはその人の人生を決める最重要事項となる。

そうか、キリスト教と名のつく限り、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、プロテスタント教会と、すべてがこの「主の祈り」だけは共通しているというから、イエス・キリストを信じるすべての人が、真実に心を合わせて「主の祈り」を祈り、「主の祈り」を生きるなら(それは、すべての人が悔い改めて、主の御心に生きることだから)、その時こそ、世にキリストの平和は満ちるだろう。イエス様の最後の祈り「父よ、信じる人々・・・すべての人を一つにしてください」ヨハネ17:21は実現すだろう。

「主の祈り」は、すらすらと唱えるだけでなく、真に祈るべき祈りなのだと改めて思う。

 

「主の祈り」を教えられたイエス様は、続いて次のように話された。

「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達(A)がわたし(B)のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人(C)は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたし(C)のそばで寝ています。起きてあなた(B)に何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人(C)は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。・・・

まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 

真夜中にやってきたお腹を空かせた人(A)、その人のために友達の家にパンを借りに行く人(B)、普段は仲良くしていても、こんな夜中にパンをあげるわけにはいかないと断る人(C)。この3人の姿に「天の父への祈りによって形成される生活の姿が、具体的に書かれている。」という、鈴木正久牧師の説き明かしは、新鮮だった。

 

天の父に祈ることをしないなら、(C)ように、自分と自分の家族のことだけは心配するが、友人のことでもいざというときには手をかさない小市民的な人間になってしまう。

私がこれまで聞いてきたのは、この人(C)はごく普通の人で、当時の家はドアを開けばワンルーム、(B)にパンをあげようとすると子供たちや、家の隅で眠っている家畜まで起きてしまうので、夜はドアを閉めれば開けないのが当たり前だったとのこと。

その当たり前の人が、天の父に祈りつつ生きるとき、自分の貧しさをも忘れて、隣人が生きるために努力する(B)のような人間に変わっていくのだという。

だがこの世は、(C)のような小市民的な人間にとり囲まれているので、(B)のように生きようとすると、真夜中に閉じた戸をたたきつつ、開かれない戸の前にたたずむような苦しみを経験する。これは信仰の戦いなのだ、とある。

 

この世にあって戦いながら(B)のように生きること、それが

「真の人生であり、人が隣人と共に生きる道を求めてゆく正しい歴史形成でもあります。これこそ祈りが造り出す人生であり、祈りが造り出す真実の歴史形成でもあります。そしてこの祈り求めは必ず聞かれます。」

「天の父は、このように祈る人に対して聖霊をまず与えられます。(聖霊によって)祈りつつ生きるとき、わたしたちは、この世の人間の自分勝手の罪や、その夜の暗さの中にあって、しかし隣人を助け、ともに手をくんで世の問題の戸に直面し、これを打開し前進する人間になります。」

「だからわたしたちはますます真剣に祈り求めて生きねばならないのです」

と結ばれている。

 

この他にも、イエス様のお話の深さに気づかされることが多くありましたが、今月は何よりも、天の父に祈らなければ、私たちの人生も(C)のままで終わってしまうこと。聖霊を与えてくださる父なる神に「祈り、求めることが、この世における真実の生活を造り出すこと」を深く心を留めたいと思います。

引用は、鈴木正久著「主よ、御国を」からでした。