福音 №411 20228

「来るべき方は、あなたでしょうか」

 

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。イザヤ53:8

 

聖書と言うのはおもしろいもので、読む度になにかしら新しいものが見えてくる。いつも必ずと言うのではないが、真剣に向き合うならハッとする言葉に出合い、よく分かっていると思っていた言葉の背後に広がる世界が見えてきたりする。

今朝も、イザヤ54章の学びのために53章を読み返していて、イエス様はこの世では「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」のだと、それがこの世なのだ!とハッとした。

私たちは皆、この世に生きている。この世がどんなところであるか、聖書の中にはさまざまな記述があるが、すぐ思い出すのは、イエス様が荒野で誘惑を受けられた時のこと。

悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々と繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。マタイ4:8-9

これもあっと驚くことだけれど、この世は悪魔にひれ伏さなければ、手に入れることができないとある。ルカ福音書では、

悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。ルカ5:5-7

そうか、この世の権威と繁栄は悪魔に任されていて、「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言われたのに、その悪魔の誘いに乗らなかったイエス様は、

「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」という訳なのだ。

 

だが一方、イエス様は神様のことを「天地の主である父よ」マタイ11:25と呼ばれる。そして、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」27と言っておられる。

ヨハネ福音書では「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」ヨハネ3:35とあり、「あなた()は子(イエス)にすべての人を支配する権能をお与えになりました。」ヨハネ17:2とある。

この世の権威と繁栄は悪魔に任せられ、すべての人を支配する権能はイエスに与えられているという。これはどういうことだろう・・・と思いめぐらしていると、先日学んだマタイ福音書11章「洗礼者ヨハネとイエス」を思い出した。

 

この世の権威や繁栄がうずまく中で、イエス様をメシア(キリスト)だと信じるのは至難の業であり、洗礼者ヨハネでさえ、「来るべき方は、あなたでしょうか。」と弟子たちに問わせたとある。

洗礼者ヨハネはイエス様に洗礼を授けた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞き、人々にこのイエス様こそ「神の小羊だ」と証もした。にもかかわらず、イエス様のなさることを伝え聞くと、その働きはあまりに控えめであり、どこまでも低くあって、世の中は何ひとつ変わらない。ヘロデやローマの悪政が揺らぐ気配もなく、ヨハネの所に押しかけて来た民衆も真の悔い改めには至らない。待ち望んだメシア(キリスト)が来られても世の中は何も変わらない。本当にこの方がキリストだろうかとヨハネは動揺した。

この個所を学びながら、この時の洗礼者ヨハネの動揺は、今の時代も同じなのだと思う。キリストを信じる者は ♪主は今生きておられる、わが内におられる と高らかに歌う。

「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」というキリストの言葉は、今日を生きるキリスト者の力である。

それなのに、キリストは今も生きておられ、既に世に勝っておられるのに、この世で一度始まった戦争は終わりそうもない。おそらく、あらゆる国で「平和が来ますように」との祈りが捧げられているのに、この世に戦争の絶えた日は一日もない。キリストはどこにおられるのか、なぜ、こんな悲惨と破壊を放置されているのか、そんな動揺を浅はかだと笑う訳にはいかない。

 

しかし!「来るべき方は、あなたでしょうか」とのヨハネの問いに、イエス様のお答えの何とシンプルなこと!真理は真理であれば足りる。付け足しの理屈や言い訳など全くいらない。

イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」マタイ114-6

これが福音ではないか。これが救いではないか。救いの御業は今日も、前進しているではないか。

「目の見えない人は見え」、肉の目だけではない。神様が見えなかったのに、おられると分かるようになる。

「足の不自由な人は歩き」、肉の足だけではない。人に寄りかからず、しっかりと自分の人生を生きることができるようになる。

「ライ病を患っている人は清くなり」、どうしようもなく汚れ果てていたわが心が、不思議と清められ明るくなった。

「耳の聞こえない人は聞こえ」、肉の耳だけではない。聖書の言葉に、神様の御声を聞くようになる。

「死人は生き返り」、そうだ、イエス様に出会うまでは死んだように惰性で生きていたのに、生きることが喜びとなった。

「貧しい人は福音を告げ知らされている」

♪夕べ雲焼くる 空を見れば、主の来たり給う 日のしのばる♪ 

夕焼けを見ても天の国を見るようで、このままで引き上げてくださいと手を上げる。

この世に何の生きがいもなかったのに、神の国の喜び、永遠の命をいただき、この世での状況は何一つ変わらないのに、信仰と希望と神様の愛にこうして感謝にあふれている。

これが福音ではないか。イエス様の与えてくださる恵みとまことではないか。

 

たとえ悪魔が人々を滅ぼそうとやっきになっても、

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とある。大丈夫、この世は神様に見捨てられたのではない。信じる者が一人も滅びないようにと、イエス様が与えられている。

福音書に書かれたイエス様の言葉、イエス様の愛の業、それを聞き、それを見て「小さすぎる、低すぎる、世の中は変わらない」などと思ってはいけない。

そこには命がある。

「わたしにつまずかない者は幸である」と、主イエスが言われるから。