福音 №439  202412

「御子の支配下」

 

  彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。マタイ福音書2:10

星の光をたよりに、はるか遠くから(きっと)ラクダで旅する3人の占星術の学者たち。当時、広くアジア中に広がっていたユダヤ人の群れから、ユダヤ人の王(救世主)について聞いていたのだろう。驚くべきことにその星が昇ったのを見て、3人はユダヤの国へと旅立った。エルサレムに着いた占星術士たちは、ヘロデ王から「救世主はベツレヘムでお生まれになる」という預言の言葉を教えられ、ベツレヘムへと向かう。

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。」 マタイ2911

 

クリスマスが近づくと、やはり「イエス・キリストの誕生」物語が読みたくなる。

今年の子供クリスマスは、賛美歌21268番、ああベツレヘムよ♪から、

イエスさまは「光」、イエスさまは「喜び」、イエスさまは「賜物・贈り物」、イエスさまは「内に住んでくださる」を、子供たちがそれぞれ自分でイメージして、絵に描いて発表してくれることになっている。

楽しみにしつつ、私も自分のクリスマスを見つけたいと読み進め、マタイ2:11「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」という言葉に心ひかれた。

 

はるか遠くの地で、救世主(メシア)の星が昇るのを見た3人の占星術士。

さいわいなのは心の清い人々、彼らは神を見ようから。マタイ5:8

異邦人でありながら、星の現われに、ユダヤの王としてお生まれになる救世主を信じ、どこまでも続く荒野を旅した人たち。すべてをおいて、たった一つの真理を求める心、これこそ清い心なのだと示される。占星術士たちを導き続け、ついに、幼児のいる場所の上で止まった星、「彼らはその星を見たとき、大喜びに喜んだ」

日々の生活で一番大きな喜びは、主日礼拝、水曜集会、桐ヶ丘集会、共に賛美し、共に祈り、共に聖書の言葉に聴き入るとき。どうしてこんなにうれしいのだろうと思う。

それは、占星術士たちがイエスさまの星を見て喜んだ喜び。聖書を読みたい、分かりたい一心で、ラクダならぬ車や電車で集った者たちが、生けるイエスさまに出会う喜び、ここに主がおられると、心に満ちてくる喜び。「家に入って、幼子が母マリアと共にいるのを」見る喜び。

 

この喜びをくり返し読むうちに、ふと思う。ユダヤの人たち、特に律法学者たちは旧約聖書を読んで、どこの誰よりも「メシア」を待ち望んでいたはずではないか。そして預言書を調べて、ベツレヘムでお生まれになると分かったではないか。なのに、なぜ、誰一人ベツレヘムに行こうとしなかったのか。

 「聖書」を一生けん命読んで、学んで、理解しても、そこから一歩踏み出すことをしなければ、エルサレムに留まったまま、生けるイエスさまに出会えない律法学者のようだ。

 新しい一日一日、荒野を旅する占星術士にならって、勇気をだして、星の光の導く「家に入って」みよう。そこにはきっと、小さくされたイエスさまがおられる。黄金、乳香、没薬はなくても、その家に平安と喜びが満ちるように、祈りをささげよう。

 これらの小さき者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

(マタイ福音書18:14)と、イエスさまが言われるから。

 

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、

その愛する御子の支配下へと移してくださいました。 コロサイ書113

 

御子の支配下ということばが、塚本訳では「御子の世界」、前田護郎訳では「いとし子の国」となっており、御子の支配下とは、キリストの世界、キリストの国なのだと思うとワーッと喜びが広がっていく。この世は実は、もうすでに、キリストの世界であり、私たちはキリストの国に住んでいるのだ。

そうだった。イエスさまがこの地上を歩まれたとき、イエスさまのご支配、キリストの国がどのようなところであるか、私たちに見せてくださったではないか。

洗礼者ヨハネが、神からの救い主(メシア)はあなたでしょうか、と弟子たちを送って問わせたとき、イエスはお答えになった。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」 マタイ福音書11:2‐6

そうか、イエスさまが地上を歩まれたとき、イエスさまのおられる所、そこは「キリストの国」だった。病は癒され、悪霊は出ていき、罪は赦され、5つのパンと2匹の魚で5000人が満腹した。イエスさまの愛の大きさに涙を流し足を洗う女性、イエスさまのお心が分からない弟子たちを愛し抜かれるイエスさま。外側だけを見ると、この世と変わらない貧しい集まりであっても、そこには確かにキリストの国が実現していた。

 神の独り子、イエスさまは2000年前にこの地に来て下さった。そして、私の罪の為に、私に代わって十字架についてくださった。

  私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。コロサイ1:14

私たちは赦されて、神の賜物「キリストの世界」へと移し入れられている。目に見える所はいかようであれ、私たちは、キリストの世界に生きている。

信じよう。幼子のように信じよう。日々新たに信じよう。

信じる度に喜びが満ちてくる。ここはキリストの国なのだから。