福音 №437 2024年10月
「悪からお救いください」
朝毎にメールで届く「御言葉と祈り」、ここ3年間、届かない日は一日もなかった。10月1日の御言葉には、内村鑑三の短文が添えられていた。
秋は来た。私は聖書に帰ろう。地の書ではなくて天の書である聖書に帰ろう。肉の書ではなくて霊の書である聖書に帰ろう。教会の書ではなく人類の書であいある聖書に帰ろう。しかも自由の精神をもってこれに帰ろう。学者の態度をもってこれに帰ろう。そして神と永生(かぎりなきいのち)についてさらに少し知るところがあろう。(一日一生から)
それに続いて、「10月になりました。秋の虫、爽やかな風に一息つきながら、衣類、寝具、部屋の模様替えなどを進めています。昨年の祈りと御言葉のノートを見返してみると、”一日一日イエスさまが一緒に歩んでくださった”ことが分かります。聞かれた祈り、祈り続けている祈り、全ては御心の中にあるのだなあと今一度感謝しました。」とあり、その後にはいつも、多くの人の名を挙げて執り成しの祈りが記されている。
主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
あなたの真実はそれほど深い。哀歌3:22‐23
朝ごとに、集会ごとに、主の真実を味わい知らされるこの喜びが、どうか届きますように。
昨夜、「デッドマンウオーキング」という映画(録画)を夫が見ているのを、家事をしながらチラチラ見ていて、後半は座って真剣に見た。死刑囚と修道女との交流。実話らしい。前半はほとんど見ていないから分からないが、画面に死刑囚の過去の犯行のシーンがくり返し出てきて、怒りが込み上げてくるというか、こんなに簡単に人を殺しておいて、自分が死ぬとなると、やれ裁判だ、人権無視だと大騒ぎする人間の身勝手さに腹が立って・・・。
だが最後には、修道女に犯行の事実をありのまま告白する死刑囚。殺した二人のために祈り、処刑台では被害者遺族に心からの謝罪をするに至って、ここまで向き合い導き続けた修道女の祈りと、導かれたいと望んだ死刑囚の切なる思いと、二人の真実に圧倒される思いだった。
ところがその後、死刑囚の最後の言葉、「人を殺すのは間違っている」は、何を意味していたのだろう、自分が殺したのも間違っていたが、こうして国家権力で殺されるのも間違っている、と言いたかったのだろうか。それでは、自分が殺したという罪をどこまで悔いていたのかと、複雑な思いになって、自分のこととして考えてみた。
この人が死刑になったのは、ある日のある出来事のためであり、それがこの人の人生のすべてだと決せられた。これは恐いと思った。私の人生のある部分を切り取って、それがあなたのすべてだと言われたら、どうなるのだろう。
この間、イエスさまに会いたいと、マルコ福音書を読んで、そうか、イエスさまは悪霊と戦われたのだと改めて驚嘆した。宣教を始められる前、まず、「サタンから誘惑を受けられた」。マルコ福音書でのイエスさまの最初の働きは、汚れた霊に取りつかれた男から汚れた霊を追い出し、その後も「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」とある。12弟子を選ばれたのも、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」。ゲラサの地では、墓場に住む狂人に「汚れた霊、この人から出て行け」と言って救い出し、悪霊に息子を殺されそうな父親の「信じます。信仰のないわたしをお助けください」との言葉に、「わたしの命令だ。この子から出て行け。」と悪霊を追い出された。
目には見えなくても、天の父なる神様がおられるように、悪魔も実在する。人間が、どんなに清く、正しく生きようとしても、悪魔は人を堕落の中に引っ張り込もうとする手をやすやすと離しはしない。自分の罪に気づかせてくださるのが神様なら、嘘偽りで覆い、悪を悪とも思わせないのが悪魔の働き。
人の悪をどんなに責めても、憎んでも、たとえその人を死刑にしても、その人に働いた悪霊に人は太刀打ちできない。悪魔の置き土産である、憎しみは増すばかり。
イエスさまの教えてくださった祈りを真剣に祈ろう、
「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。」マタイ6‐13
パウロの呼びかけを本気で聞こう、
「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」エフェソ6:10‐12
そして、悪霊が入る余地がないように、自分のために、隣人のために、絶えず祈ろう。
「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」ルカ11:13
日毎に聖霊で満たしていただこう。一度イエスさまを信じて生活を正しても、心は日々刷新されなければ、すぐに濁ってしまう。
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」マタイ12:43‐45
この悪い時代へのイエスさまの警告をおろそかにはすまい。