福音 №438 2024年11月
「十字架の愛」
「今日の御言葉」メールから。
(11月3日)教会の聖徒の日礼拝(ヘブル11:13‐16口語訳)
「地上では旅人であり、寄留者である。」
「実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にある故郷であった。」
「事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」
私たちに残っている一大仕事は死ぬこと。その日がいつ来てもいいように準備する。
終活、心と魂の終活。魂が神によって救われること。
1年に一度お会いする方々も大勢おられ、あちこちで会話がはずみました。いつもは3人掛けで座る長椅子、4人掛けで座りました。集われたすべての方と天国での再会を果たしたいと祈りました。
前日の御言葉と祈りのメールに、「明日は聖徒の日礼拝です。ご遺族様も来られます。主の霊が満ちますように。」とあったので、聖徒の日礼拝とは、教会に集われていて天に召された方を記念しての礼拝であり、だから遺族の方々も参加されるのだと納得した。御言葉と祈りの会、たった3人で、それぞれ全く違うタイプのキリスト教会、集会で礼拝を守っており、だから教えられることも非常に多い。もう一人の方からは、前週「明日は墓前礼拝があります、お祈りください」とあり、確かに秋は天に召された人を偲ぶのにふさわしいと思う。
今日の祈りには、「一人で祈るお恵み、二人、三人で祈る幸い、御名によって集うところで祈る祝福、イエスさまが共にいてくださるなら感謝があふれます。」とあり、これが祈りを愛する人の実感なのだろうと、身に沁みる。この小さな狭山の集まりのためにも、子供集会がある日には一人一人名をあげて祈ってくださり、その成長を共に喜んでくださる。
〇私たちは「キリストによって神に献げられる良い香り」であり続けられますように。
「命から命に至らせる香り」として、十字架の愛を伝えていきます。
イエスさまの十字架の御業がこの身に成った幸いを。信じる者は誰でも救われることを。
永遠の希望を。
〇十字架の上でイエスさまは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです。」と執り成しの祈りをしてくださり、血を流し死んでくださいました。私のために!
主と共に生きる者とされた今、私たちにもお祈りの特権が与えられていることを感謝します。御言が与えられていることを感謝します。「生ける水の源である主」を喜びつつ、共に今日の一歩を歩みます。
〇主イエスさまの十字架の愛により、罪の深みから救い出された者です。
ただ御心の内を歩む者として生かしてください。
〇イエスさま、今、新しい霊で満たしてください。30年前の喜びではなく、きのうの恵みでもなく、今日あなたからいただく新しい霊によって生かしてください。
いつもあなたからの御言と聖霊により、御前にへりくだり歩めますように。
〇主イエスさま!あなたの愛、あなたの十字架の愛によって罪赦され新しくされた者です。感謝します!しかし、肉の思い、習慣、常識、思い込み等、御心を妨げるものが我が内にあります。イエスさまの思いが私の思いになりますように。いつも御心が行えますように。御声を聴き逃すことのありませんように、お助けください。イエスさまを非難したファリサイ派の律法学者、取税人、罪人、すべての性質を持ち合わせているこの者を憐れんでください。
今日の御言葉と祈りをいただくようになって3年が過ぎ、キリストの十字架によって罪赦されたこと、新しい命に生かされていることを、これほど日々喜び、感謝し、祈りつつ歩んでいる方がいるのだと、正直驚いている。決してその人をほめたたえているのではない。
「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神に力だからです。」ロマ書1:16
信じる者に与えられる「神の力」を、ほめたたえているのだ。
私も机の前には、山で見つけた木の枝で作った十字架を、その下にはルオーのキリストの聖顔を、横には、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」ガラテヤ書2章19,20節と書いて、立派に貼ってある。
しかし、私はどれだけ、「私のために、私に代わって、十字架の上で罪を背負って死んでくださったイエスさま」を日々刻々感謝しているだろうか。
もちろん、「福音は御子においてわれらの心の外に立てられたわれらの救いである」。
私が感謝しようが、感謝すまいが、十字架の救いは微動だにしない。すべての人に開かれた御救いの力に変わりはない。しかし、イエスさまは言われた。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」マタイ5:43‐44
キリストの十字架を離れて、どうして敵を愛することができるだろう。イエスさまの柔和と謙遜の軛につながれずして、どうして天の父の子になることができるだろう。
「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」1コリント2:1‐2 今一度、パウロの宣教の原点を思う。