福音 №428  20241


山上の説教から」

 

今朝の聖書通読の時、夫がパッと開いた賛美は、新聖歌342番。伴奏なしで歌うから、はじめての曲は無理だけれど、これなら歌えそうだと一緒に歌った。歌いながらドキッとした。

1)神の子なるイエス わが心に

住まわせ給う 妙なるかな

わが内に主はいます くすしくも妙なり

わが内にいます主は 来るべき王なり

なぜドキッとしたかというと、昨夜遅くまで読んでいた「講演要旨」の感動的な文を思い出したからだ。

昨年のクリスマス講演会で、千葉恵氏の「山上の説教」を聞き、その後お送りいただいた「講演の要旨と語り残したこと」をくり返し読んで、山上の説教をはじめて聞く思いがして、いくつかの文が心を巡っていたが、その内の一つ、


 命に至る狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。この方は永遠の生命のうちに神の右の座にいて、あるいは各人の心魂の根底において聖霊として(ロマ827)執成していたまう。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる。

パウロはガラテヤ書220節で

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

と書いているが、このパウロのように「キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる。」と聞いて、ドキドキしないでいられるだろうか。新聖歌342番は次のように続く。

  2)かくも主は悩み かくも愛し

    主の花嫁と われをなしぬ

3)されど幾たびも 主を苦しめ

  かしこき御旨 われは裂きぬ

4)すべて主は赦し 前のごとく

  御胸に抱き 愛したもう

かくも主は悩み、かくも愛し、キリストは十字架についてまでわが罪を贖いご自身のものとしてくださった。その愛を知りながら、幾たび主を苦しめ、そのお心を痛めてきたことか。にもかかわらず今再び、すべて主は赦し、御胸に抱き愛してくださる。

ああ、これもあったと「信仰の循環」についての文を思った。

講演要旨の最初の部分なので、少し長くなりますがここに書き写します。

 

この夏の異常な暑さ、そしてアドヴェントの冬のひきしまった寒さの日々。歳月の移ろいのなかで四季は巡りゆく。この確かな自然法則のもとにあることの恩恵、自然の循環の恩恵を思う。それと同様に、神のキリストを介した憐み、神にはわれら一人一人が独子をたまうほどに値高き者と認識されていることの憐み、これが人を動かし、そこに信仰生活の循環を引き起こす。神の憐みへの信仰、そして信仰に基づく正義・義、さらに義の果実としての愛へ、さらにはその愛の不十全性の自覚のもとに悔い改め、神の憐みに立ち戻る。この信仰生活の循環も、確かなものが明確に中心にあるからこそ、望むらくは中心をめぐり螺旋的に深化しつつ、繰り返すことができる。神の憐みの先行性こそ、恩恵に他ならない。 


 私たちの信仰生活は確かに循環する。神さまの憐みによって憐みに気づき、神さまを信じて義とされ、少しなりとも愛するものに変えられていく。ところがある時その愛の不完全さに気づいて悔い改め、義とされ、義の実である愛に生きるが、再び愛の欠けを自覚し、悔い改め・・・と繰り返す。しかし、その中心が神の憐みであるがゆえに、私たちの信仰生活は螺旋的に(螺旋階段を上るように)、深化しつつ繰り返すことができるのだと読んで、深い喜びに包まれる思いがした。


山上の説教は心貧しきものへの祝福から始まる。

 〇心の貧しい人々は、幸いである。

 天の国はその人たちのものである。マタイ53

〇祝福されている、その霊によって貧しい者たち、

天の国は彼らのものだからである。 千葉恵訳

「霊によって貧しい」とは、(人の心の根底を霊といい)その霊が「この世のいかなるものによっても満たされ得ない」ことであり、その者は祝福されている(神がとても喜ぶ)とイエスは言われる。

 そうだった、この世の何によっても満たされない心を抱えて、虚無の淵をさ迷っていた時、神に至る真実な道がある、「求めよ、さらば与えられん」との御声を聞いて信じたのだった。そして、この世のいかなるものによって満たされなかった心に、イエスさまが来てくださった。イエスさまが「わが持てる全て」となってくださった。

そうか、これが祝福なのだ、これが天の国の喜びなのだ。

 

イエスはその霊による渇きと飢えのなかで(十字架上で)罪なき身による全人類一切の罪を身代わりとして担い、誰よりも低い所で死を遂げた。乞食であれ国王であれ、この世のいかなるものによっても満たされない者はイエスのもとに行くことができる。罪の赦しのセーフティネットが人類未踏の最も低い恩恵の場所に張られている。


イエスさまのもとに行くよりほかにない貧しさ、飢え渇き、それは神の祝福であり、私たちがイエスさまに行くことを神が喜んでおられる。

その時イエスさまはその人の全てとなってくださる。

 5)イエスはわが持てる 全てなれば

乏しきことも 弱きもなし

わが内に主はいます くすしきも妙なり

わが内にいます主は、来るべき王なり

神なしに生きられないすべての人は祝福されている。

すべての人は神なしには生きられない。

天にも地にも神の祝福は満ちている。

これが福音、これが神の憐み、ハレルヤ!