福音 №429 2024年2月
「求めなさい」
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
叩きなさい。そうすれば、開かれる。
誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。
マタイ福音書7:7‐11
山上の説教でイエスさまが教えられた、この「求めなさい」の箇所をくり返し読む。
求めなさい。そうすれば、与えられる。新共同訳
求めよ、そうすれば(神から)君たちに与えられるであろう。岩隈訳
ほしいものはなんでも天の父上に求めよ、きっと与えられる。塚本訳
はじめて聖書を読む人が、「求めなさい。そうすれば、与えられる」とあるのを見て、ここでの求める相手は神さまだと、すぐに分かるのだろうか。相手はだれでもいい、「求めよ、さらば与えられん」と、人生の処世術(格言)のように受け取る人もいるだろう。私もずっと、求めなければ何も始まらない、さあ勇気を出して求めなさいと、背中を押してくれる言葉のように思っていた。もちろん、その先を注意深く読んでいくと、
悪い(自己中心な)あなたがたでも、自分の子供には良い物を与えるのだから、まして、天におられるあなたがたの父は「求める者に良い物をくださる」とあり、だから、
子どもが親に願うように、天のお父さんである神さまを信じて、信頼して、「お父さん、ください」と求めなさい、と言われているのだ。
「この『求めよ』は良いものをくださる方に信頼し、『信じなさい』の平易な言い換えである」との解説を読んで、なるほどと思う。
イエスさまは、マタイ21章で「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と言われている。そうか、この「信じて祈る」も、ごく幼い子どもが親を無条件で信じるように、神さまを信頼することであり、その全き信頼によって、「何でも得られる」、「満ち足りる」ということなのだ。
うぅ~ん、だから、
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」マタイ18:3「子供たちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである。」マタイ19:14と言われているのだと、腑に落ちる。
ところが、この「求めなさい」をくり返し読んでいると、「求めるなら、求めるているものが与えられる」、「あなたの願いが叶う」というより、「あなたを愛して、あなたが求めるのを待っておられる方がいる。そのお方を知りなさい。そのお方を求めなさい」と言われているように思えてきた。
神さまはあなたがたのお父さんだから、あなたがたに良いものを与えたいと今も待っておられる。なのに、あなたがたは「お父さん、ください」とは祈らない。何があっても、自助、共助、公助と、頼りない人間だけを当てにして思い悩んでいる。それは、あなたがたが、父なる神さまを知らないからだ。因果応報というこの世の現実を超える神さまの憐み、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」神さまの憐みを知らないからだ。
「求めなさい、まず、神さまを求めなさい。神さまとの正しい関係を求めなさい。そうすれば、すべての必要は与えられる。」そう言われているように思えてきた。
うんうん、そんな言葉があったと気づく。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。マタイ6:33
「神の国と神の義を求めなさい」とは、「神との正しい関係を求めなさい」ということだろう。人が神さまと正しい関係になりさえすれば、「これらのもの(衣、食、住)はみな加えて与えられる」とイエスさまは言われる。
神さまと正しい関係になるためには、まず神さまを知ること。なるほど、それで「空の鳥を見よ」、「野の花を見よ」なのだ。
空の鳥をじっと見ていると、鳥を養っておられる神さまの憐みが見えてくる。「あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか」とあるが、なるほど、私たちに注がれる神さまの憐みは、日々養ってくださるばかりでなく、霊魂を救うため、イエス・キリストさまをお与えくださった。
野の花を見ていると、これほどまでに美しく装ってくださる神さまの愛が見えてくるが、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」とあるように、神さまがご自身に似せて造られた私たち一人一人に込められたその愛は計り知れない。
神さまの憐みを証するのは、光や雨、空の鳥、野の花だけではない。イエスさまのご生涯が、何よりも、何よりも証している。
山上の説教で、人の心の正しいあり方を教えられたイエスさまは、人々に教えたとおり、悪に手向かわず、「父よ彼らを赦したまえ」と敵のために祈りつつ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで父なる神への従順をつらぬかれた。
イエスさまは、その全き従順(律法の完成)によって、神さまから、「すべての人の罪の赦し」というご褒美をいただいた。善い行いには祝福を、悪い行いには呪いをという、律法による因果応報の世界を超えて、イエスさまによる「罪の赦し」という贈り物(福音)をいただいて、私たちもまた、神の国に入れていただける。
求めなさい。神さまはあなたに最高の贈り物を与えようと、待っておられる。