福音 №431 2024年4月
「見えないものを」
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 2コリント4:18(新共同訳)
「目を注ぎます」とは、じっと見るということだろうか、他ではどのように訳されているのだろうと、いくつか調べてみた。
われわれが目ざすのは見えるものではなく、見えぬものです。見えるものはしばし、見えぬものは永遠だからです。(前田護郎訳)
このわたし達は見えるものに目を向けているのではなく、見えないものに目を向けているのである。見えるものは一時的、見えないものが永遠だからである。(塚本虎二訳)
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(新改訳)
我らの顧みる所は見ゆる者にあらで見えぬ者なればなり、見ゆる者は暫時にして、視えぬ者は永遠に至るなり。(文語訳)
見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ
見えるものに目を向けているのではなく、見えないものに目を向けている
・・・・
翻訳するというのは、大変な仕事だなあと思う。原語は同じはずなのに、心にぐっと入ってくる言葉に訳されていたり、なるほどと軽く思うだけで過ぎてしまう言葉もある。聖書の場合特に、神とキリストへの信仰なしに訳すことはできないだろうと思うし、「原典に最も近い『聖書』」とあると、訳者の信仰に頼らず、やはり原典のままを日本語で読みたいとも思う。語学にもきっと才能というのがあって、原語で読めなくてもそれはそれでいいけれど、ふと「喜三ちゃん」を思い出す。(ちょっと脱線します)
信愛園という小さな療養所、そこで18歳で天に召された喜三ちゃん。
「一息一息ヒューヒューと木枯らしの笛のようなのどで、蚊のなくような細い声でする聖句の暗唱は、彼女にとってたまらない楽しみだった。彼女はまた、毎日一枚だけ友にハガキを書いた。手紙は必ず二日をかけて書いた。ギリシャ語の文法もいつしかマスターし、『喜三と一緒に勉強していると、聖書の言葉がまるで生きて体操しているように感じる。彼女がギリシャ語の聖書を訳すのを聞くと、いつでも神様の新しい心を学ぶことができる』と、藤小母を感嘆させるほどだった。」
喜三ちゃんなら、この2コリント4章18節をどのように訳しただろうと、考える。
元に戻って、「わたしたちは見えるものではなく・・・」は、その先の節との関連から訳してあるのもあるのを知って、ますます翻訳に敬意を表したくなった。
「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」
とあるのを、シュラッター講解では
「なぜなら、わたしたちが見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ時、このしばらくの軽い患難は、永遠の重い栄光をあふれるばかりに豊かに私たちに得させるからである。」とある。
この世で人ができるだけ避けたい患難をパウロは「軽い患難」という。そのためには、
「私たちが患難を小さいと思い、与えられる栄光のゆえに患難を喜んで負うためには、私たちが、自分の目標を今眼前にしている現在の現実性のうちに求めないことが、もちろん必要である。・・・キリストを仰ぐ者は、今すでに目にあらわになったものとは違うものに、自分の目標を置く。・・・」講解8p59
このように部分的な引用は、分かりにくいと思うけれど、要するに、キリスト者は見えるもの(この世)に目標を置くのではなく、見えないもの(神の国)に目標を置くのだということ。そう思うと、「われわれが目ざすのは見えるものではなく、見えぬものです。」という訳が分かりやすいかもしれない。
内村鑑三のこの箇所(2コリント4:17―5:10)の講演、演題は「来世獲得の必要」となっている。その中から、「宗教の本領は来世である」という部分を、少しわかりやすくここに書きます。正確には、本文をお読みください。内村鑑三全集20巻、P88、89
最近はますますこのようなキリスト教は流行らないかも知れないが、流行ろうが流行るまいが、やはり「目ざすのは見えるものではなく、見えぬものです」
今の人は宗教の来世的であることを恐れる、だから彼らは現世的宗教を唱えて、宗教を現世で実益あるものとしようとする。もちろん希望を来世にだけおくことの害は少なくない。しかし、宗教を現世的にすることに比べるなら、その害など数えるに足りない。人は生まれながらにして現世的である。彼は来世のことを思わないことを好む。彼に現世的であることを勧める必要は少しもない。水が低さに就くように人は地につくものである。そして宗教は、人を地より天に向かって引上げるために必要である。宗教が明白に来世的でなければ、この世に来世を示すものは他に何もないのである。言うまでもなく宗教の本領は来世である。政治、経済の本領が現世であるように、宗教の本領は来世である。来世を明白に示さず、これに入る途をはっきりと教えない宗教は宗教というに足りない。仏教もそうだ、イスラム教も、キリスト教もその通りだ。イエスの福音、パウロの福音、ペテロの福音、ヨハネの福音はみな、明らかに来世と来世を受ける途を示す。来世を明らかにせずして、宗教は現世を救うことはできない。宗教は政治経済とは違い現世をもって現世を救わない。宗教は人を現世の外に導き、彼に来世獲得の途を与えて、間接にしかも確実に現世を救うのである。