福音 №432  20245

「天の父の御心」

 

キリスト信仰に生きていても、無教会以外の集まりに参加したことはほとんどない。そんな私が、なぜ、沖縄の「サマリア人病院」デイケアを訪問する6人ほどのツアーに参加しようと思ったのか、分からない。ただ、6年近くたっても思い出すのは、サマリア人病院のデイケア「文芸教室」に参加していた時、涙が止まらなくなったこと、ここに神の国があると心魂で感じたこと。

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。ルカ12:32

いま思えば、そんなイエスさまのお言葉を目の当たりにして感極まったのだろう。

 

「私に似た花 それはきっと いい花だろう」という詩集を手にとって、これは私の宝物だと思う。そこには、サマリア人病院デイケアに咲いた「神の国」が描かれているから。

その後に出た「風が光る」という詩集の中の一篇を思い出すと、今も涙があふれる。

 

偏見とあいさつ

あいさつしても

無視して通り過ぎる人。

知らんふりしてる人。

「偏見があるのかな。」

あいさつしたら

あいさつが返ってきた。

僕は、

その人の住んでいる棟や、

名前まで覚えていく。

そのうちに、話しかけてくれた。

僕には、

そんなことが

たまらなく 嬉しいのだ。

「わたしは心がやさしく、高ぶらないから、わたしの軛を負ってわたしの弟子になりなさい。」(マタイ11:29塚本訳)とイエスさまは言われる。

イエスさまの弟子のように、心やさしく高ぶらない、この人の心こそ、地の塩、世の光なのだと思う。この低さとやさしさによって、この世は堕落の淵から守られているのだと。

 

わたしが福音書を読んでいつも思うのは、イエスさまは、人を見る目が違うということ。

 

イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。マタイ828

こんな人がいたら、私たちは言うだろう。「危険だ、近づいてはいけない。その人は悪だ。善良な私たちこそ守られなくてはならない。」と。だが、その聖書の前後を読むと、イエスさまは、その人に出会うためにだけ、ガリラヤ湖を舟で渡って行かれたのが分かる。私たちにとって邪魔な存在が、イエスさまには特愛の対象。イエスさまは、人々から「罪びと」と呼ばれつまはじきされている者を慈しまれ、「先生」と呼ばれ敬われることを好む人々を「偽善者」と呼んで、唯一厳しく戒められた。

 

自分の心がどんなに偽っているか、自分では分からない。自分はそれほど白くもないけれど、真っ黒というほどでもない。でも、白くありたいと願っているのだから、最悪ではないはずだ。主よ、主よ、と御名を呼びながらイエスさまにすがっているのだから大丈夫、そう思っていても、イエスさまは言われる。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。マタイ721

 

天の父の御心を行う者、とはどのような人だろう。そうだ、この世の中で、イエスさま以上に父なる神さまの御心を行った人はいない。

イエスさまが見るように人を見、イエスさまが赦されたように人を赦し、イエスさまが憐れまれたように人を憐み、イエスさまが祈られたように祈る者としてください。

山上の説教には、イエスさまがどのような心で、どのように祈り、どのように歩まれたかがやさしい言葉で語られている。

 「主の祈り」それは、イエスさまの祈り、イエスさまが生きられた祈り、その祈りを実現させるために、イエスさまは十字架につき私たちの罪を赦された。私たちが,この祈りを「わたしの祈り」として祈ることができるために。

 イエスさまの語られた8つの幸い、それは覚えているけれど、心偽る者として言われた7つの災いはあいまいだ。終わりの日に「あなたたちのことは全然知らない」ときっぱり言われないために、心して読んでおこう。

まず、「言うだけで実行しない」人、人々に天国を閉ざす人、人々を喜びに導かず苦しみに導く人、真実が見えず理屈を教える人、重要なことと些細なことを取り違える人、見かけは気にするのに心の中は強欲と放縦でいっぱいの人、外側だけ美しく見せて、心は偽善と不法で満ちている人、なるほど、「正義と不法、光と闇、キリストとベリエル(悪魔)」につながりや調和は決してない。狭き門と広き門、その間に歩きやすい中の門などないのである。

神様の御心に従うか、背くか、その中間などありはしない。主よ、どんなときにも、あなたの備えてくださった「狭き門」祝福の道を歩む者であらせてください。

 

心貧しく、すなわちこの世のいかなる物によっても満たされない渇きをもち

悲しみ、イエスさまにとって失われた(神に背く)人や、町(エルサレム)の悲しみは涙となってあふれた。

柔和であり、イエスさまはご自身を「柔和で謙遜な者」と言われる

義に飢え渇き、イエスさまは業(律法)による義を超える、信(信仰)による義の道を開かれ、

憐み深く、神のものである人が、飼う者のない羊のようにさまよう姿を、イエスさまは、内臓がよじれるほどに憐れまれた。

心清く、偽りのないひとすじの心には、聖霊と光がさして神を見る歓びがあり、

平和を造る人、柔和で義に飢え渇き、憐れみ深い人たちだけが平和を造る者となる

義のために迫害される人、イエスさまの十字架のみ姿を一心に思う。