福音 №435 20248

「イザヤ書53章」

 


先週、遅ればせながらコロナになって、今日(4日)の主日礼拝はオンラインでと思っていたのに、声が出にくくなって、仕方がないので、(ほんの数人だけれど)各自、自宅で礼拝しましょう、と早朝にラインした。

 

 おはようございます。今日の礼拝、イザヤ書53章をそれぞれの場で読みたいと思います。私たちの救いとは罪からの救いです。イエスさまがお生まれになる700年も前に、救い主イエスさまの十字架が預言されている箇所を読んで、神さまに感謝と賛美をささげることができますように。その後の54章、55章も、すばらしい御約束に胸躍ります。それぞれに礼拝の後、心に残った聖句を分かち合いたいです。では、良き聖日を。

 

 すぐに、一人の方から「おはようございます。はい、わかりました」と返信をいただき、たとえ共に集えなくても、み言葉に聴き入り、それぞれに霊と真理をもって礼拝することのできる恵みに、さすが神さまのなさることは素晴らしい!と感謝があふれた。

 聖書を読んでいると、さっそくラインが届いた。

 

今、イザヤ書535455章、読み終えました。新聖歌を3曲歌い、すごく心がはれやかで、良い時間を共にもてて感謝でした。ありがとうございました。

心に残った聖句はノートに書き留めています。イエスさまの十字架が預言されてて、53章を読みながら涙が出ました。・・・私たちは、こんなにも愛され赦されていて、みんな平等なんだ。この感謝の思いと、それがイエス様の十字架によって与えられた御恵みに、感謝します。

 

 私もイザヤ53章を改めて読んで、今回も目から鱗、天が突き抜けた感がして神さまの導きってすごい!と感動している。

イザヤ53章はクリスチャンなら暗唱している人も少なくないだろうが、私も18年前には全部暗唱して、記憶力の超悪い私にこんなことができるなんてと自分でも驚いていた。でもその後、なるほど、覚えたより速い速度で忘れていき自分の記憶力の悪さに自信を取り戻したものだった。それはともかく、そんなに読んでも53章がどこかボンヤリしていたのは、2節、3節がまっすぐにつながらなかったせいだと今回気づいた。

2節:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

3節:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 

私たちは福音書を読んで、イエスさまがどんなに麗しいお方であったか、人々を引きつけ、どれほど多くの人がイエスさまに群がって行ったか、良く知っている。どこを読んでも「町中の人が、戸口に集まった」「ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まってきた」とある。どこまでもついてくる群衆に食事を与えた「5000人のパン」は有名な話だ。

なのに、埋もれた根から生え出た若枝のように主の前に育ったこのお方を、即座に「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と続けているのだから、わたしの内に違和感が残り・・・ここはそのままにしておき、4節から

4節:彼が担ったのはわたしたちの病

   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

   わたしたちは思っていた

   神の手にかかり、打たれたから

   彼は苦しんでいるのだ、と。

5節:彼が刺し貫かれたのは

   わたしたちの背きのためであり

   彼が打ち砕かれたのは

   わたしたちの咎のためであった。

に十字架のイエスさまを見、ああ、この53章は私のためにあるのだと暗唱していたのだった。

 それが、今回53章は、イエスさまの生涯を描いたものではなく、「十字架」に集中しているのであって、見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない、十字架上のイエスさま。軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている、十字架上のイエスさま、それがすべてなのだと分かった。

 その時、昨年大塚国際美術館で見た、実物大のイーゼルハイムの祭壇画、グリューネバルト「キリストの磔刑」が甦ってきて、すべての謎がとけたおもいがした。

 6節:わたしたちは羊の群れ

    道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

    そのわたしたちの罪をすべて

      主は彼に負わせられた。

 10節:病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

    彼は自らを償いの献げ物とした。

    彼は、子孫が末永く続くのを見る。

    主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

(この頃心ひかれている『われらの罪の贖いは父と子の協同作業であった』という説が胸を打つ。)

 聖書を読むとき、どこかベールがかかっているとしたら、十字架のキリストに覆いがかかっているのであって、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示され」ていないからなのだと納得。(ガラテヤ31

良き聖日に感謝!

万事を益としてくださる主に感謝!