福音 №436 20249

ルカ福音書「さいわいな人」

 

ルカ福音書6章、イエスの平地での説教を読む。(内容がす~っと心に入ってきたので、ここは前田護郎訳で)

彼は目をあげ、弟子たちを見ながら言われた、

「さいわいなのは貧しい人々、神の国はあなた方のものだから。

さいわいなのは今飢える人々、あなた方は満たされようから。

さいわいなのは今泣く人々、あなた方は笑おうから。

さいわいなのはあなた方、人々が憎み、人の子ゆえに除名し、ののりし、汚名を着せるときに。 その日にはよろこび躍りなさい、天での褒美が多いから。同じように彼らの先祖も預言者たちにしたのである。

しかし、わざわいなのは富んでいる人々、あなたがたはもう慰めを受けたから。

わざわいなのは今食べ飽きている人々、あなた方は飢えようから。

わざわいなのは今笑う人々、あなたがたは悲しみ泣こうから。

わざわいなのは、あなた方をすべての人がよいというとき。同じように彼らの先祖も偽預言者たちにしたのである。

 

 ここを読んでいると、ルカ1章「マリアの讃歌」が思われた。

そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。・・・

主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。・・・」

 

ルカ16章「金持ちとラザロ」も思われる。

しかし、アブラハムは言った。

「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」

 

なぜこのような逆転が起こるのか。これが、この世で苦労している人たちに、「来世では良くなるよ」という単なる慰めや励ましにすぎないなら、そんなこと当てにしたくもない。この世では勝てないから、キリストにすがって来世では勝利者になど、あろうはずもない。

この逆転は、死んでからのことではない。この逆転を「回心」、「悔い改め」という。分かりやすく言うと、神様を知らなかった時と、知ってからの生き方の違い。

 

榎本保郎さんが(さん、なんて呼ぶのは失礼なようにも思うけれど、逆転の世界では、さん、がうれしい。愛とは等しさだと知ったから。その保郎さんが、たぶん「一日一章」の中で)、「キリストを信じるとは、180度の方向転換をするのですから、今まで右にあったものが左に、左にあったものが右に見えるようになります」と言われていて、なるほどと思った。

神を信じないこの世は何といっても弱肉強食の世界、強くあろう、上に立とうとあくせくして、自分なりの幸いを手に入れる。強いこと、上に立つことが悪いのではない、神様が憐れみ深いお方であるということを知らないから間違ってしまうのだ。神様がどのようなお方であるか、聖書はそのことを語り、何よりも人となってこの世に生まれてくださったイエスさまは、神様の愛と憐れみの結晶である。そのことに目が開かれるなら、弱肉強食のこの世と、神の国は正反対であり、目に見えるこの世の向こうには、永遠の神の国があるのだと分かってくる。このイエスさまの説教、マリヤの讃歌、金持ちとラザロの話は、その御国への招きなのだと分かってくる。

 

逆転の極めつけが、「敵を愛しなさい。」である。

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。」

 

何度読んでも、それは無理、私にはできないと思ってしまう。しかし、こう言われるのはイエスさまである。敵を愛せよと教え、ご自身の生涯を通して、敵を愛することを実現されたイエスさまである。イエスさまは十字架の上で、敵であった(神様に背いていた)私を愛して、私の罪を背負って死んでくださった。敵を愛する者への報いとは、敵が友となることだと聞いた。なるほど、イエスさまは敵であった私を愛して、私を友としてくださった。敵を愛する力によって、私は敵から友へと変えられた。

 

「敵を愛せよ」これがイエスさまの言葉でないなら、だれか他の人の言葉なら、私は信じないし、従おうとも思わない。しかし、イエスさまが人にできないことを「せよ」と命じられるはずがない。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われるイエスさまの軛を負い、共に歩むなら、ご自身に似た者に造り変えてくださると信じる。

「信じる」の反対は「信じない」ではなく、「裏切る」なのだと教えられた。

友としてくださったイエスさまを、裏切るわけにはいかない。