福音 №434 20247

「イエスは愛で満たす」

 

イエスは愛で満たす 聖霊で満たす 

わたしの心の中を

イエスに今すべてを ゆだねて生きよ

主はわたしを満たされる 新聖歌208

 

あ~ぁ、どうしてこうなんだろう、なぜ思うようにならないんだろう・・・。

そんな満たされない思いがいつ心に入ってきたのか、分からないまま散歩に出て、

神さまなぜですか、私のどこが間違っているのですか・・・と、悲観的な気分でつぶやきながら歩いていると、バラの木で囲っているお家があって、ピンクのバラや白いバラの香りにうっとりして、どんどん歩いて行くと、夕暮れの青い空にオレンジ色の雲が広がって、ふと気が付くと、♪イエスは愛で満たす 聖霊で満たす わたしの心の中を♪と歌っていた。

わぁ~、私はどうしてこんなに満たされているのだろう・・・。

 

散歩に出た時と、帰り道と、私を取り巻く問題が何一つ変わったわけではない。なぜですか、どこが悪いのですか・・・と、不満げに祈っているうちに、問題が問題でなくなって、一つ分かったことは、私が悲観的になるのは、あの問題、この問題のせいではないということ。なるほど、「思い悩むな。」とイエスさまは言われる。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。」

マタイ福音書625

神様に心を向けるなら、あんなに大きく見えた問題が、石ころの一つのようなものだと気づいて、そればかり見つめているから、その石がだんだん大きくなって、人生が暗~くなるけれど、まず神さまに心を向けて、神さまを求めるとき、それだけで、イエスさまの愛が心に満ちて、すべては感謝と喜びに変えられる。

 

これがキリスト信仰の定石、「福音=救いをもたらす神の力」であり、だから私たちは「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と、日々証しして生きるのです。

 

問題が問題でなくなる不思議を思っていると、ロマ書512節から21節を思い出した。

「このようなわけで、一人の人によって、罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。・・・

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません

裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」

うんうん、律法のもとでは一つの罪でも有罪となるとは、なるほど、私にとって一つの問題でもあれば、生かされている喜びも感謝も消えて、有罪(神様と正しい関係を持たない者)となる。ところが、恵み(イエスさまの十字架と復活による救いの力)が働くときには、いかに多くの罪(問題)があっても無罪の判決が下される(神様の前に正しいと認められ、問題が問題でなくなり喜びで満たされる)

なるほど、神の独り子・イエスさまが来てくださり、私の問題(その原因である罪)も、世界中の憎しみも怒りも、十字架の上ですべての罪をあがない、私の、世界中の、すべてのすべてとなってくださった。このイエスさまがいてくださるから、日々喜んで生きている。にもかかわらず、ふと、この世のことが大きく見えて、「その問題があるかぎり、あなたは満たされないのだ」と、とサタンのささやきに引き込まれ、人生が空しく見えてくる。

だが、そんな時こそ、

あなたは喜んでいいのだ。

わたしはあなたを贖った。

あなたはわたしのものだ。

と宣言してくださる主イエスさまの御声に聴き入ろう。そして、このイエスさまの愛の宣言を、あの人にもこの人にもお伝えしよう。

 

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昨日、「閉鎖病棟」という映画の録画を見て、以前見て深く心に残ったはずなのに、驚いたことにほとんどの場面を覚えてなくて、初めて見るようで、そうか、この映画はこういうことだったのかと目を覚まされた。

 

最後の場面、刑務所の庭で、おそらく何十年も、車椅子から決して立たなかった(かつての)死刑囚が、歯を食いしばって、自分の足で歩こうとする。その姿は、

「信じるとは、生きようとするということである。」バルト説教集6:39

という言葉を、証しているようであった。 

 

「信じるとは、神をして語らしめるということである。」

この映画の中に、神は出てこない。しかし、信じるとは「聞くこと」から始まる。何を?真実な言葉を。自分の足で歩こうとするこの人は、二人の友人の命がけの「真実な言葉」を聞いた。たとえそれが人の言葉であっても、信じたというより、信じることによってしか答えられない言葉によって、この人は「生きようとする」。

二人の友人は、新しい一歩を踏み出した。

「信じるとは、単純なことを行うということである。」

 

もちろん、ここでの人はみな、帚木蓬生氏の創作であり、このような「信じる人との出会い」も稀有なことに違いない。それでも、「信じられなくなったとき人は死に、信じるときに生きようとする、人の心の法則」が見事に描かれていて、それが、どうしようもない暗い現実の世に、朝焼けのような清々しさ与えているのだと感じた。

 

そのとき、イエスはこう言われた。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

マタイ11:2830

このイエスさまが、友なき者の、まことの友となってくださる。