福音 №442 2025年3月
「主の憐れみ」
インフルエンザもコロナも下火になり、やっと面会が自由になって、コロナ入院を機に近くの病院で入院生活となった近所のIさん夫妻を訪ねた。病状の違いから二人は別の病棟で、まず奥さんを訪ね、その後、一緒にご主人を訪ねる。週に一度、そのパターンのくり返しだが、今日はお二人の表情も少し明るく、ご主人の病室の他の3人も優しい笑顔で(と言っても、お一人はいつも声をかけるだけで涙ぐむので、小さな声で「神さまのお恵みがありますように」と一方的に言うだけだけれど)、帰ってきて今パソコンに向かっている私の心も明るくうれしい。
ご主人はもう歩くこともできないようで、二人が顔を合わせても「おおっ」「うん」と言葉少なく、楽しい話題など何一つないのだけれど、別れ際に二人に握手をしてもらい、今日は私も同室の方々と握手をして「ではまた」と言うと、いつもは不機嫌な向いの方までが「また来てね」と、うれしそうに言ってくれた。
親しい親族もなく年老いた二人には、「毎日寝てるだけ」というこの療養病棟での生活がこれからもずっと続くことを思えば、励ましようもないのだけれど、ご主人の病棟からIさんの病棟へ帰る途中、今日は少し離れた待合室に行って、「神さまは憐れみ深いお方」という話をした。
実は今朝、詩編103編を読んだ私の胸は「神さまの憐れみ」に高鳴っており、話さずにはおられなかったのだ。
主は憐れみ深く、恵みに富み
忍耐強く、慈しみは大きい。
・・・・・・・
天が地を超えて高いように
慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
東が西から遠い程
わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
父がその子を憐れむように
主は主を畏れる人を憐れんでくださる。詩編103:8‐13
「神様は憐れみ深いお方だから、私たちはただ、その神様を信頼していようねェ。神様はどんなささげものより、信頼することを喜んでくださる。・・・」
こんなことを思いのままに話せるのは、Iさんが以前言ってくれた一言を、私は忘れないからだ。引きこもって何もしない(できない)Iさんに、私の心の内を話したとき、「救われてるんやなあ」と、まっすぐに答えてくれた。Iさんにとって、「救われる」と「平安」はひとつだったのだろう。その一言で、Iさんが求めているのは神様だとわかった。
少しずつ散歩もできるようになり、これからと思っていると、お二人ともコロナがきっかけで入院生活に。初めの頃は、無理と分かっていながら「早く家に帰れたらいいね」と言ったけれど、詩編103編を読みながら、家であっても病院であっても、神様の憐れみはどこにでも惜しみなく注がれている、どこにいようと、置かれたその場が天に向かって開かれた祈りの座だと、気づかされた。
だれもいないこの待合室だって、グレゴリオ聖歌の響く大聖堂だって(行ったことはないけれど)、目には見えない神の憐れみに包まれていることに違いはないと、境のない空を飛ぶ鳥のような自由な思いでいっぱいになった。
2日の礼拝で学んだ、サムエル記下7章の御言葉を思い出す。全イスラエルの王となり、エルサレムを都とし、レバノン杉の王宮に住むダビデが、神のための家(神殿)を建てようとしたとき、預言者ナタンに臨んだ言葉。
「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間・・・なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。」
そうだった、エジプトを出たイスラエルの民が約束の地に入るまで、荒野での40年、「わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできた」と言われるように、同一場所に定住される神ではなく、共に移動してくださる神だった。
そうだった。イエスさまは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」マタイ8:20と。そうか、イエスさまはこうして、安らぐ場さえない者の友となり、ご自身が、行き場のない人の「安らぎ」となってくださったのだ。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。マタイ11:28‐30
イエスさまが「人の子には枕するところもない」と言われ箇所のタイトルは「弟子の覚悟」となっており、イエスさまに従う真剣さが問われているに違いないが、でも、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われるイエスさまのお言葉を疑うことはできない。イエスさまのお言葉、神様の憐れみを、Iさんと共に子どものように信じていよう。
マタイ福音書25章にある「『タラントン』のたとえ」で、役に立たない僕として追い出されのは、主人(神様)のことを、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと」ただただ恐れて、神様を信頼しない人だった。
イエスさまが、「すべてを捨ててわたしに従いなさい」と言われるなら、それは「わたしがあなたのすべてになろう」という、究極の愛の言葉に違いない。
「わたしの愛にとどまりなさい」「わたしの恵はあなたに十分である」
イエスさまのお言葉に偽りのあろうはずがない。