福音 №440 2025年1月
「神様の愛は変わらない」
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。 詩編130:3‐4
新しい年、主は、まず私の(自分では気づかなかった)過ち、愛のなさ、ゆるんだ信仰を見せてくださった。そして、御言葉をもって悔い改めへと導き、
「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ、
あなたはわたしのものだ。」イザヤ43:1
と、十字架のイエスを示してくださった。
与えられた御言葉の一つ
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない(人の悪を思わず・文語訳)。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える1コリント13:4‐7
暗くなった道を歩きながら、もう愛することは止めよう、私の中途半端な思い(信仰)など何の役にも立たないのだから・・・と思った時、突然転んで手から血が流れていた。見上げると大きな星の光が、「見ているよ」と言わんばかりに、「神さまの愛は変わらない」とたたえ歌っていた。私も水野源三さんの詩を思い出し、一緒に歌った。
花の季節過ぎ行き 人の心も移り
約束を忘れ去るとも 神様の真実は変わらない
その夜、エミー・カーマイケルの「カルバリの愛を知っていますか」を開いた。
=愛の道は決してたやすい道ではない。その道を歩こうともし思いを定めたならば、苦しみに会うことを覚悟しなければならないだろう。「この道を主は行かれた。しもべもまた同じ道をたどるべきではないか。」もしかすると、人間的な愛を注いで注ぎつくし、へとへとに疲れ切るという状況の中に閉じ込められることがあるかもしれない。そして燃える太陽に照りつけられるインドの丘辺の草のように、力なくしおれてしまうかもしれない。
わたしたちにとってかけがえのない人のために労苦して、それを労苦とは思わなかった。肉体の力を使い果たし、健康を回復できないくらいそこねたが、その働きのせいとは気づかなかった。いや、たとえ気づいたとしても、少しも気にとめることはなかった。ただひたすら愛を注いだ。そしてわたしたちの望んだことはただひとつ、そのように慈しまれた魂が、他の人に仕える者となることであった。だがそれは、実現しない夢だった。
そしてやがて、どんな犠牲をもいとわず育んだその人から、奇妙な冷たさが返ってくることに気がつくようになった。そのいのちを破壊から救おうとしてぼろぼろに傷ついたわたしたちの心を、冷ややかに眺める目がそこにあった。わたしたちの心を押しのけようとするかたくなな手があった。
そんな時(これは愛する者にそむかれる苦しみを味わった人にしか、とうてい理解されないだろう)、どんな苦痛よりも恐ろしいひとつの疑いがわたしたちをつかむ。もしかして、これまで何年も築いてきた愛が今、わたしたちから離れ去ろうとしているのか。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは,何をしているのか自分でわからないのです」という主のおことばが、わたしたちの記憶から消え去ろうとしているのか。愛のない心に、愛のない心で応えようとしているのか。
そのような時、今はすでに年老いたひとりの聖徒が、絶望の果てに祈ったことばが、わたしたちの心を刺す。
心の深みから、おお主よ、
あなたに向かって声をあげます。
勇気をふりしぼって、主よ、
あなたのみもとに近づきます。
わたしのためにむち打たれた
カルバリのイエスよ。
何であれ、わたしから求めてください。
すべてささげます。
ただ愛は、愛だけはわたしにください。
・・・おお愛の主、苦難の主よ。あなたの愛を溢れさせてください。わたしを通して愛が流れますように、神の愛が。=
星の光に導かれるように、ふと手に取った本の最後の部分を書き写しながら、1コリント13章に記された「愛」を何と軽々しく、何と当たり前に、何と浅はかに、分かったような気になっていたことか思い知った。私はいまだカルバリの愛を知らないのだ。
でも、大丈夫。知らないと分かったところがスタート地点。愛の何たるかをいまだ知らない者に、ほんの小さな傷を与えて、あきらめなくていいと言ってくださる主がおられる。
「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」ロマ3:28
悔い改めて神の憐れみを信じ、信じる者は義(正しい)とされ、義の道には愛が実る。その愛がないと気づいたら、悔い改めて神を信じ、義とされたが故に愛する。その愛が不十分だと気づけば、再び悔い改めて信じ、義とされ、愛に生きる。四季の循環が神の恵であるように、信、義、愛、この信仰生活の循環も、私たちに与えられた恵みの歩みであると知ったから、さあ今年も、喜んで信じることから始めよう。