2014年

福  音

福音 №319 2014年12月

 

「出エジプトの旅」

 

 朝ごとのメール集会で「出エジプト記」を読み始めた。

 この世にどっぷり浸かって生活していた人が、イエス・キリストを信じ「神の国」を目ざして歩む道は、イスラエルの民が、奴隷の地エジプトを出て約束の地カナンに向かう旅路に似ていると聞く。今回「出エジプト記」(まだ17章だが)を読みながら、なるほど出エジプトとは、この罪の世から天の御国を目ざして歩む歩みそのもの、いや私たちの人生そのものだと思わされている。

 何よりも出エジプトは、イスラエルの民の考えや、努力によってなされたものではなかった。イスラエルの民はただ、耐え難い労働のゆえに助けを求めて叫んだに過ぎない。しかし、その嘆き声から出エジプトは始まった。

 主はモーセに言われた。

「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 

 人間の一番真実な祈りは、ただ「助けてください」と、嘆き叫ぶ声であると聞いたことがある。ふと、義父の最期を思い出す。老いて病み食事も喉を通らなくなって、食べることにもテレビのニュースにも意味を見いだせなくなり、何よりも何のために生きてきたのか、これで良かったのかと、苦悶する日々だった。その苦悩の中から発せられた「助けてくれや」と、しぼり出すような声を私は忘れない。キリスト教に決して好意的でなかった義父が、手をとって祈る祈りに心を合わせ、いつしかその顔には、晴れやかな喜びがみなぎっていた。

 神様は生きておられる。だから私たちには希望がある。どんな状態になっても、絶望のただ中でも、人は叫ぶことができる。「助けください」とひれ伏すことができる。

 

 出エジプト記7章から12章までは、エジプト王ファラオがイスラエルの民を去らせるまで、エジプトの国に下された10の災いが記されている。血の災い、蛙の災い、ぶよの災い、あぶの災い・・・と続くのだが、そこには「知るようになる」という言葉がくり返されている。

「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」

「あなたは、我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります」

「あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる」

「あなたはこうして、大地が主のものであることを知るでしょう」

「わたしがどのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」

 神様は、私たちの人生に起こるすべてのことを通して、私たちが神様を知るようになることを願っておられるのだ。たとえ災いと見えることでも、そのことを通して神様を知ることができるなら、それこそ真の幸いとなる。人間にとって、造り主なる神様を知るに勝る幸いはないのだから。知ること、それは命に至る道である。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」ヨハネ17:3

 

 エジプトを出たイスラエルの民の行く手には、岩石と砂しかない荒野がどこまでも続く。その40年の荒野の旅は、天からのパン「マナ」によって養われた。そのことが詳しく書かれた出エジプト記16章を読んだときには、続けてヨハネ福音書6章も読んでみた。すると、その二つの章がどんなに重なり合っているか、それでいて旧約と新約の違いが、光りがさすように明らかになる思いがした。

 ヨハネ福音書6章の1~15節、イエスの周りに集まった5千人の群衆にパンを与える記事、それは「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」と、天からマナを降らせられた奇跡物語の新約版ではないか。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に欲しいだけ分け与えられた。・・・人々は満腹した」とあるが、しかしイエスの奇跡は、5千人が満腹しただけでは終わらなかった。パンを食べて満腹した人たちに、イエスは言われた。


 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と。

 天からのマナによって、イスラエルの民は約束の地カナンに着くまで養われた。イエスという命のパンによって私たちは、神が人と共に住む永遠の都に着くまで養われ、その喜びの日は終わることがない。

 「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

 出エジプト記は、まだまだ続きます。朝毎に聖書を読み、命のパンを食べる喜びが広がっていきますように。


福音 №318 2014年11月

「止揚学園を訪ねて」

 よく食べ、よく寝て、よく笑う人。

 *知能に重い障害をもつ人たちの生命を、自分の生命のように大切にし、真剣に向き合ってくださる方。

 *素晴らしい技術や強い人間の力をもたなくても、豊かな温かい心をもった方がおられ ましたら、おいで下さい。

 止揚学園ホームページの「求人票」には処遇内容、採用条件などの他に、「その他」として上のように書いてあった。「知能に重い障害をもつ人たちの生命を、自分の生命のように大切にし、真剣に向き合う」とはどういうことか。秋晴れの美しい日、水曜集会の仲間4人で止揚学園を訪ねた。

 その時聞いた一つ一つの言葉、見た一つ一つの場面、不思議なほど私の心に鮮明に刻まれたものを、いくつか、そのまま書いてみたい。(メモ一つとっていないので、話してくださった言葉のままではないかも知れません。違っていたらごめんなさい)

 「私たちは美しく優しい場所を用意して、祈りながら、待つのです。」

 楽しい絵いっぱいのトイレは、いつでもそこに自分のお布団をひいて寝てもいいように、机をおいて本を読んでもいいように、学園で一番美しい場所であるようにお掃除をするという。そんなトイレを想像することは難しいけれど、その言葉が決して大げさでないことは、すぐに分かる。普通、トイレにはいると、荷物をどこに置こうか、どこに引っかけようかとキョロキョロするが、学園のトイレでは、何の迷いもなく足下に置いた。畳の上に置くように。ソファーの上に置くように。

 学園に入園して、始めはトイレを使えない人が多いという。オムツのまま来る人もいるという。その人たちがトイレで用を足せるようになるまで、暖かな下着、真っ白な気持ちの良いお布団、その人その人にふさわしい食べ物、適切な声かけを続けながら、そして何よりも祈りながら、ひたすら待つのだという。「ほら、この頃はトイレに消音器とかいうのがあるでしょう。何てもったいないって思うんです。私たちにとっては、この子たちのおしっこの音は、わぁ、うれしいって、喜びなんですから」「うんちだって、いやなにおいなんかじゃない、私たち、いい香りっていうんです。これはにおいなんかじゃないね、香りだよねって。ほら、お母さんが自分の赤ちゃんのうんちを、汚いなんて決して思わないように。」そう話してくださる方の喜びに満ちた表情が、人間にとって真の喜びとはこういうものだと、優しく物語っているようだった。

 なるほどこれが、知能に重い障害をもつ人たちの生命を、自分の命のように大切にし、真剣に向き合うということなのか。言葉とは行いを伴なってはじめて真実となる。福井達雨さんが講演の中で話されていたことを思い出す。

 「あやまるということは、ごめんなさい、すみませんと、この頃はやっているように頭を下げることではないと思いました。あやまるということは、あやまったことを次にどのように行動に示していくか。行動の伴わない、祈りや聖書、あやまりなんて、とても虚しいと思いました。やさしい愛、やさしい心は、きれいな言葉ではなくて、聖書や祈りを通して生まれた行動から生まれるんじゃないかと。」

 若き日に、天井裏や土間の穴に押し込められた知能に重い障害をもつ子どもたちに出会い、そうさせているのは周囲の冷たい日本人なのだと、その中に自分もいたと気づいた時、その人たちにあやまらないといけないと思ったという。福井さんにとってあやまるとは、ことばではなく行動だった。「差別してきた私たちが差別をされた人たちに謝ろうと止揚学園が生まれました」。その日から、止揚学園は、この子どもたちを1人の人間として存在を認めるだけでなく、社会の中で、全ての人間の輪の中で、共に生きる世界が生まれることを願い、祈り、行動し、信じて待ち続けているのだ。

  愛 それは言葉ではなく 汗を流すこと 

  愛 それは言葉ではなく 支え合うこと

  すべての喜びを 共に分け合い 

  悲しみ苦しみを 共に歩むこと

 白いマーガレットの花束のような洗濯物。その洗濯物に囲まれて、ニコニコと、うれしそうにたたんでいる女性がいた。下着も上着も、くつしたもハンカチも、一つ一つに名前が刺繍されている。淡いピンク色で「まりこ」と刺繍された肌着。水色で、黄色で、その人の好きな色で、その人のために選んだ、すべてのものに。

「この人たちは、シャツがほつれたりすると、『シャツが病気』って言うのです。だから、丁寧に繕って『治ったよ』と手渡すと、新しいものを買うより喜ぶんです。衣類は肌につけるものだから、私たちの温かい心が伝わるように、一枚一枚刺繍をしたり繕ったり、洗濯をしたり、この仕事は必ず職員がします。他の誰にもお願いすることはありません。

 あの美しく整えられた衣類のお部屋、40人近くの洗濯物を丁寧に重ねた一人一人の棚、引き出しの中で整列して出番を待っているようなくつ下たち。(心に焼き付いたあの情景が今も私に、怠惰は愛の正反対だと教えてくれます)

 運動場の隣は野菜畑、青々とした葉っぱをつけた大根の前でのお話しも忘れられない。「畑の草をとったり苗を植えたり、私たち職員がすれば一時間でできてしまうけれど、もし一時間でやってしまうと、ここでは『さぼった』って言われるんです。仕事が片づくことより、みんなで一緒にすること、何時間かかっても、汗を流すのも、収穫の喜びも、みんな一緒に。それが共に生きると言うことですから。

 貼り絵をする時も、絵をはっている人、その枠を支えている人、まわりを歩いている人、みんなで絵を描いているんです。お菓子をつくるのも、手で丸める人、うれしそうに見てる人、みんなでクッキーを作ってるんです。みんながいるから、やわらかな美味しいクッキーが焼けるのですから。」

 

 この世には、体力のある人、ひ弱な人、知能がたくさんある人、お年寄り、障がいのある人、子どもたちといろいろな人がいて、一人として同じ人がいないのは、その人たちが、みんなで力を合わせて、共に生きるため。「それが愛だ!」と天からの光りのように心に届いた。 


 園内を見学する間、何人の方が、あふれる笑顔で「こんにちは」と声をかけてくださったことだろう。儀礼でなく、習慣的にでもない。「今、あなたに出会えてうれしい」と語りかける笑顔。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」との御言葉は、美しい標語ではなく、弱い人を中心にして祈りを合わせ、みんなで共に生きる時、人はそのように生きることが許されるのだと、今、清い喜びが満ちてくる。


福音 №317 2014年10月

「聖書の言葉」

 わたしの魂は塵に着いています。

 御言葉によって、命を得させてください。 詩編119:25

 現実の心重くなるような問題に、あ~あ、何もうまくいかないなあ、「流れのほとりに植えられた木は実を結ぶ」ってあるのに、何の実も結ばない私って、いったい何なんだろう。どこが間違っているのか、何が足りないのか・・・。そう思いながら、それでもとりあえず「神様、感謝します」と短く祈って眠りについた。ひと眠りしてふと目覚める と、歌っていた。「立て、立て、永遠に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て」

ずっと以前、狭山集会のみんなで特別賛美をした曲、新聖歌361番。その時は、ソプラノとアルトの早さがちぐはぐになって、おかしな特別讃美になったけれど、その頃くり返し練習した曲は頭にしみついていたものとみえる。

 栄の王にます主の 御言葉に堅く立ちて

 「神には御栄あれ」と 高く歌い叫ばん

 ああそうか、そうだった。現実を見て、なるほどすべてうまくいっている、何もかも思い通りに事が運んでいる、神様を信じているとこんなにうまくいくんだなあ・・・というのが、必ずしもキリスト信仰ではない。キリスト信仰とは、現実の状況がいかようであれ、どんなにへこんでしまうようなことが重なっても、御言葉に堅く立つことなんだ。そう気づくと次々と御言葉が思い浮かぶ。


 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」ロマ書8:32とあるではないか。神様は私たちを救うためにイエス様を与えてくださった。イエス様こそ神様から人への最高最大のプレゼントであると、クリスマスの度に喜び祝うではないか。最高最大の恵みを与えてくださった神様が、私たちのささやかな願いを拒まれるはずがない。「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」との聖書の言葉が真実であるなら、現実がいかようであれ、人の目にも自分の目にも何の実りのない貧しい日々であっても、そんなこと何と言うことはない。神様が与えてくださるのだ。私たちが願い求めるよりはるかに素晴らしいことを、必ず実現してくださるのだ。

 「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」エペソ3:20とあるではないか。神様は、私たちが求めたり思ったりするすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方ではないか、私たちはこんなお方をわが神と信じて生きているのだ、何を落胆する必要があろう。  

♪立て立て 永遠に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て

 本当にそうだった。神様を信じるとは、その御言葉を信じることではないか。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とイエス様は言われた。

「この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と、イエス様がこの世にお生まれになる前から言われている。いやいや、天地創造そのものが、「神は言われた」と神の言葉をもって始まったのだ。すごい!と、真夜中であるのも忘れて、一人喜び、感極まって歌っている自分が可笑しくなった。

 前日の主日礼拝の聖書箇所はエゼキエル書2章~3章15節だった。1章で、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくる、その主の栄光の姿の有様を見てひれ伏したエゼキエルが、「人の子よ、自分の足で立て」と神の声を聞くところである。はじめは何を書いてあるのかおぼろであったが、くり返し素読していると、同じことが何度も言われているのだと糸のもつれが解けるように分かってきた。神に逆らう反逆の民、恥知らずで強情な人々に遣わされ、神の言葉を語るために、エゼキエルはまず「人の子よ、自分の足で立て」命じられたのだ。

 そう命じられた時、「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた」とある。そうだ、これだと思った。神の言葉は空手形ではない。「立て」と言われる時には、立つ力を与えて立たせてくださる。

 「自分の足で立て」と言われて立ち上がる様は、イエス様の御業として福音書に、聖霊の働きとして使徒言行録に、いくつも記されている。福音書と使徒言行録だけではない。イエス様に出会って、「自分の足で立ちなさい」と言われ、自分の人生を自分の足で歩み始めた人は数限りない。たとえ、肉体のとげとして不自由な体が与えられていても、イエス様の「立ちなさい」との言葉に、その人にしかできない、素晴らしい歩みを始められた方も数限りない。樫葉史美子さんの詩を思う。

  神の前に二人なき  私の使命

  起たねばならぬ召命を感じたら  その時こそ

  十年の病床を蹴って  起とう。

 現実のどうにもならないありさまに見入って、所詮人間は罪人だと悟ったり、そんな自分や回りの人をダメだダメだと嘆くのが信仰ではないはず。そんなダメな人間のただ中にキリストが来てくださって、「自分の足で立て」と言ってくださる。そして、どんなに小さな者であっても、その人にふさわしい働きを与えてくださり、今日を喜び、感謝と勇気と何よりも永遠の希望をもって、真に生きる者としてくださる。神様ってすごい。

 神を信じず平安を失った人間が、様々な戦いに明け暮れるのは世の常である。こんな世にあって、私たちがなおも神を神とし、信仰と希望と愛に生きようとするなら、「この巻物を食べなさい」と言われたエゼキエルが食べたように、私たちもまた、聖書に記された神の言葉を魂の糧とし、朝に夕に食事をするように、御言葉によって養われなければならない。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との御言葉は、旧約の時代からイエス様の時代も、そして今もこれからも、永遠に真実なのだと深く思う。


「神さまは愛:確かな希望」

福音 №316 20149


「どんなにちいさい ことりでも かみさまは そだててくださるって」

イエスさまの おことば

「なまえもしらない 野のはなも かみさまは さかせてくださるって」

イエスさまの おことば

「よいこになれない わたしでも かみさまは あいしてくださるって」

イエスさまの おことば。             讃美歌21 60

 

 子供の歌を歌っていると、なぜこんなに優しい気持ちになるのだろう。こんなに素直になれるのだろう。小鳥も花も、善い子になれない私だって大丈夫。神様の愛に包まれてるんだって、神様にこんなにも愛されてるんだって、清い喜びが心の奥からあふれてくる。

 私たちはこの神様の愛を知るために生れてきたのだと、今静かに思う。

 この神様の愛を知るようにと、神様は歴史を導き、一人一人の人生を導き、喜びも苦しみも、悲しみも痛みも与えられるのだと。この世に意味のないことは何ひとつなく、すべてはまことの神様に出会うために備えられた道筋なのだと。

 神様の愛の結晶、イエスさまが今日も共にいてくださるから、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるから、たとえ弱ることがあっても、黙って信じて、どこまでもイエスさまについて進んで行こう。

 「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」1コリント10:13

と、愛なる神様のお約束だから。

 


主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

主はわたしを青草の原にやすませ

憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。

 詩編23編。クリスチャンなら誰でも知っている素晴らしい詩。年と共にこの詩の実感は倍増していくけれど、ある時、これが私だけの告白であり、私だけの喜びであるなら、ことさらに歌わなくてもいいと思った。

 確かに、私には「何も欠けることがない」し、本当に満たされている。若き日から、神様を信じイエス様に導かれて歩んできた。だからいつだって、人の思いをはるかに超える恵みを味わい、どうしてこんなに善くしてくださるのだろうといぶかるほどだ。でも、それだけなら、この恵みが回りの人に伝わって行かないなら、「本当だね、うれしいね」と、みんなと共に喜べないなら、黙っていた方がいい。自分一人「わたしには何も欠けることがない」とうれしそうに歌うより、静かに祈っている方がいい。自分だけの喜びなんて、分かち合えない喜びなんて、寂しすぎる。悲しすぎる。

 そう思って、この詩の朗読を止めようとした時、「それは違う」とささやく御声。「この詩の『わたし』はあなた一人の『わたし』じゃない。生まれたばかりの赤ちゃんも、年老いて歩けなくなった人たちも、日本人も、遠い外国の人たちも、世界中の一人一人がこの詩の『わたし』。すべての人が告白するために、この詩はあるのだ」と。

     そうか、と深く納得して、「わたし」の所に、一人一人の名前を入れて読んでみる。涙が出そうな痛みの中にある子の名。心配で不安でたまらない思いをしている人の名。辛いことが多すぎるようにみえる友人の名。その一人一人の名が「わたし」になるためにイエス様は来てくださったのだ。この詩の「わたし」に誰かの名を入れて喜ぶ喜びをありがとう。

 


 今年の近畿集会、福井達雨さんのお話しを聞きました。最後の所が忘れられません。テープ起こしをしてみました。

 「この(知能に重い障害を持つ仲間と共に生きて)62年間を振り返ってみて、ゆっくりゆっくり歩いて来ました。なんでか、スピード早く歩けません。ゆっくりと、立ち止まりながら一歩一歩、歩いて来ました。聖書の御言葉、大きな力でした。弱くなった時、悲しくなった時、病気になった時、幸せになった時、いつも大きな力でした。これからもゆっくりゆっくり歩いて行こうなぁ、と思っています。

 実は私は、62年前に、そして止揚学園をつくる時に、この知能に重い障害をもった仲間に約束したことがあるんです。それはいつか結婚できる日がある、就職できる日がある、町の学校にみなと手をつないで、町の子供たちと一緒に通える、その日かいつか来るよ、と。でも、その日は来ませんでした。求めても求めても、祈っても祈ってもその日は来ませんでした。時にはイエス様を呪う時もありました。呪っても呪っても来ませんでした。来ないことがイエス様の恵みやと思っても、やっぱり来ませんでした。まだ来ないと思います。僕の友だちは、そんなことできるはずがない、来るなんてことは不可能だって言います。私も不可能と思っています。だけども、可能なことなら、誰がやってもできるんです、不可能なことは、いつかその日が来るという確信を持たなければ、できないと思うんです。いつかその日が必ず来る。その確信はやはり、人間の思いでは持てません。イエス様の信仰を通してしか持てない確信と思います。その確信を持てば、多くの人から非難を受けるし、誤解もされるし、いろいろと苦しいものがぶつかってきます。だけども、できないからこそ、その日が必ず来るという確信を持ち続ける。言い続ける。語り続ける。行動し続ける。イエス様に与えられた信仰を通して持ち続ける。来ないことなら人間は挫折してしまって、もうダメだと諦めて、もうやぁめた、もっと違うことした方が楽しいよ。もっと違うことした方が道が開けるよ、と思うと思うんです。でも、どうしてもそんな思いがもてません。いつか必ずその日が来るという確信、どうしても捨てられません。見えないものを見ながら、聞こえないものを聞きながら、その確信をイエスさまの傍に行くまでもち続けて行きたい。イエスさまの傍に行っても、持ち続けたいと思っています。

 私は死ぬ時、イエスさまの傍に行くとき、この知能に重い障害をもった仲間の人たちにに囲まれて、手を握られてイエスさまの所に行きたいと思っています。止揚学園は、入園している仲間の人も職員の仲間もみんな全員クリスチャンです。全員受洗しています。そして不思議なことですけれども、止揚学園に来てからクリスチャンに変わった人がほとんどなんです。止揚学園に来ると、不思議にみんなクリスチャン変わるんです。それは、できないことにぶつかっていくからやと思うんです。不可能なことにみんなでぶつかっているからやと思うんです。そして、知能に重い障害をもった仲間の人たちが、私たちに深いものをぶつけてくれているからやと思うんです。


福音 №315 20148

「キリスト者の自由

 

 久しぶりに、マルチン・ルター著「キリスト者の自由」を読んだ。ずいぶん以前、日曜礼拝の後、みんなで少しずつでも読んでいこうと、それぞれに購入し、何回かは読んだ覚えがあるが、いつか立ち消えになってしまったのだろう。家の書棚に5冊も残っており、ふと手にとって読み始めたわけである。

 この小さな小さな本には、他にもう一つの思い出がある。それこそ20年も前になるだろうか、四国集会でTさんが「私はこの頃、ルターの小さな本を読んでいて、いつもポケットに入れており、ほら今日もここに持っております。」と、手を高く上げて見せてくださった。そして、その内容の一部を紹介してくださり、「信仰は、たましいとキリストとを一つに結合させるので、キリストの持っておられるものは、信仰あるたましいのものとなり、たましいの持っているものはキリストのものとなる・・・ここに喜ばしい交換と、取り合いが始まる・・・とあるのですよ。信仰によって、キリストの善きものが私たちのものとなり、私たちの罪はキリストが取ってくださるのです」と、それはそれは嬉しそうに、ニコニコしながら話されたのだった。その時、本の題名は聞きのがしたのだが、その後、本屋で「キリスト者の自由」を見つけて、Tさんの話された内容がそのままあったので、ああ、あの時の本はこれだったのかと分かったのであった。

 この本との出会いについて長々と書いたが、今回読み返して、「信仰」と「行い」について、良く良く分かった思いがする。「救い」と「聖化」、キリストは「贖い主」であり「模範」であるということなど、何となくぼんやりしていたことが、霧が晴れるようにはっきと見えて、Tさんではないけれど「ほら、これですよ」と手を高く上げてみんなに見てもらいたい気分である。訳者が「序にかえて」に書いていることは、本当に本当だった。 

 ルターの「キリスト者の自由」は、彼が理解し体験した救いの真理を、当時の一般民衆に理解せしめるために書かれたものであります。従って本書は、一般の民衆が理解できるような平明な文章で書かれております。

 キリスト教はもともと万民の福音であり、民衆の宗教であります。従ってその性質上分かり易いものであり、またそうでなければなりません。・・・もちろん分かるということと、信ずると言うことはちがいますが・・・しかし、今日、キリスト教が一部少数の、いわゆるインテリと称せられる人々の宗教となり、一般の民衆には縁遠い宗教となってしまったことは、その本来の目的にそわないものであると言わなければなりません。

 それには、いろいろの理由があげられましょうが、第一に考えられることは、その表現・・・言葉においても、文章においても・・・がむずかしいことであります。むずかしいことをむずかしく語ることは、あるいはやさしいことであるかもわかりませんが、むずかしい真理をやさしく、分かり易く語ることは、中々むずかしいことであります。そしてルターは、その著「キリスト者の自由」において、このこと、すなわち福音の真理を一般民衆にわからせることに成功したということができます。当時のドイツ民衆は、本書によって救いの真理をさとり、律法の束縛から解放され、救われた者の自由と光栄を心から謳歌し喜ぶようになりました。ルターの点火した宗教改革運動は、りょう原の火のように急速に、ドイツのみならず全欧州に、ひろまるに至ったのであります。」 

 文庫本の大きさで、内容だけなら62p。声に出して読んでみるとちょうど70分。第一部「内なる人について」(1~18章)と第2部「外なる人について」(19~30章)の2部に分かれ、訳者がそれぞれの章にタイトルをつけてくれてあり、なお分かりやすい。

 第1章は「キリスト者とはどういう人か」。

1、キリスト者は万物を支配する自由な君主であって、誰にも従属しない。

1、キリスト者は万物に奉仕する僕であって、すべての人に従属する。

 なるほど、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」1コリント9:19とパウロも言う。この自由と奉仕という矛盾を解き明かしつつ、「外的な行為は人間を自由にしない」、「神の言のみが真に人間を自由にする」そして「神の言とは何であるか」と続いて行く。

 こんな概要を書いてみても実感にもならないので、この小さな本の中で、「なるほど!」と目を覚まされた箇所を書き写して、今月の「福音」とします。ともかく「信仰」なしに一切は虚しいのだと、思い知らされました。信仰に生きて、いつの日か「私はキリストによってこんなに満ち足りているのだから、もう自分のためではなく、隣人のために精いっぱい生きよう」との熱い思いを日々実践できるようになれば、最高です! 

11章から わたしたちが他人を信じるのは、その人を正直で真実な人であると考えるからであって、それはわたしたちが他人にあたえることのできる最も大きなほまれです。その反対に、人をだらしのない、うそつきの、軽はくな人間と考えるのは、最も大きな侮辱です。それと同様に、たましいが神の言をかたく信じる場合には、たましいは神を真実な、正しい、そして義なるお方である、とするのであって、そのことによって、たましいは神に帰することのできる最大のほまれを帰します。・・・その反対に、たましいが神を信じないこと以上に、神に侮辱をあたえることはありません。神を信じないことによって、たましいは神を無能な者、偽り者、頼りにならぬ者とみなし、このような不信仰をもって、できる限り神を否定し、あたかも自分の方が神よりも利口であろうとするかのように、心のうちに自分の意にかなう偶像を神に対立してこしらえあげるのです。・・・ 

27章から 「ほんとうにわたしの神は、何のねうちもない罪せられるべき人間であるこのわたしに、何のいさおしなくして、全く価なしに、純粋なあわれみから、キリストを通じて、またキリストにおいて、すべての義と救いの満ちあふれる富を与えて下さった。だからわたしは、この後その通りであると信じることのほかは何も必要としない。ああ、このようにありあまる富を、わたしにあふれんばかりにあたえて下さったこのような父に対して、わたしもまた自由に、喜んで、何の報いも求めないで、神のおよろこびになることをしよう。そして、キリストがわたしに対してなって下さったように、わたしも隣人に対して、一人のキリストになろう。そして、隣人に必要であり、その救いに役立つと思うこと以外は何もしないことにしよう。実際、わたしは信仰により、キリストにおいて、一切のものをじゅうぶんに持っているのだから」。


福音№314  20147

「進化の教訓」

 

 先日、「造化の教訓 創世記第一章の精神」という内村鑑三の文を読んで、あっと驚いた。数年前から「内村鑑三全集」を数人で少しずつ読み続けていて、今年になって、内村が今から100年前に書いたものを読んでみようと1914年の文章を読み始め、その中で「造化の教訓」に出会ったのである。(*造化とは天地万物の造物主。天地、宇宙、自然のこと)

 
 キリスト教はキリストによる救い、すなわち「十字架による罪の贖い、復活の命、再臨待望」であり、いつも共にいてくださるキリストこそ福音の喜びなのだと信じている。それはそうで、それこそ信じる者の今日を生きる力、変わらぬ平安に違いないが、「造化の教訓」の中に、「わが救いは宇宙の創造をもって始まったのである。」「福音は福音書をもって始まるのではない、創世記1章をもって始まるのである」とあるのに出会って、この私の救いも、キリスト降誕を待たず、天地創造をもって始められたのだと知って、衝撃を受けた。それは「私はこの父と母の子供だ」と思っていたのが、実はキリストによって「私は神の子とされたのだ」と知った時と同じような深い感動であり、自分では人生二度目の「目から鱗」だと思っている。

 この感動を書きたいのだけれど、やはり内村の文章をそのまま載せるのが一番良いと思うので、そのまま書き写します。しかし100年前の文章なので、読みにくい漢字や分かりにくい言葉は、私なりに少し分かりやすくします。多少ニュアンスが変わるかもしれませんが、お許しください。(全集をお持ちの方は、格調高い原文でどうぞ)

 造化の教訓 創世記第一章の精神    (1914)聖書の研究163号  内村鑑三

1、はじめに神、天地を造りたまえり。

 聖書は人類救済の歴史である、神が人を造り、これを完成し、人を自分の子と成されるまでの順序過程を記した書である。聖書は人を離れて天地を論じない、天然のために為す天然研究(自然の研究)は聖書の関与するところでない、人の完成である、人の救済である、天使たちも知りたいと願っているのはこのことである。(1ペテロ1:12)ゆえに、聖書の初巻である創世記の示そうとするのも、このことにほかならない。創世記第1章はユダヤ人の宇宙創造説を載せてあるのではない、これが万物の起源に関する科学的事実を述べたものでないことは言うまでもない、これは人類救済の立場より見た宇宙観である、創世記第一章が伝えようとする事はこの事である、だからあえてこの章を科学的に研究する必要はないのである、天文学または地質学または考古学を引証してこれを説明する必要はないのである。創世記は聖書の一部分であれば、これもまた聖書的に解釈すべきものである。すなわち人類救済の立場より解釈すべきものである。

 ゆえに「はじめ」とは万物のはじめを言うのではない。人類救済のはじめである。神の聖業(みわざ)にすべて始めがあり、終わりがある。「われは始めなり、また終わりなり」と神は言われた。(黙示録1:8)そして神の聖業の終わりは人類の完成である、新しきエルサレムが用意を整えて天より降り、また死もなく悲しみも嘆きも痛みも無くなるに至って、神の聖業は終わりを告げるのである。こうして、この祝すべき終わりに対する始めなのである。人類の救済は天地の創造をもって始まったということである。山いまだなく、神、いまだ地と世界とをお造りにならない時より、人類救済の聖図(ご計画)は神の聖意(お考え)の中にあり、その実行の第一として天と地とを創造されたということである。

 人類が救われるためには、そう、われらがキリストの救いに預かるためには、日月星座は天空に懸けられ、山は高く地の上に挙げられ、海は深くその下に掘り下げられる必要があったのである、わが救いは容易なことではなかった、これはわが短き一生をもって成し遂げられることではなかった。わが救いは宇宙の創造をもって始まったのである、このことを思うて、*朝日昇り東の空が明るくなる時、夕陽西の山に入ろうとして夕雲が地を覆う時、又は夜空一面、星々が蛍の光のようにきらめく時に、われはわが救いの神をほめ、彼に感謝の賛美をささげるべきである。

*の原文は「朝噋水を離れて東天漸く明かなる時、又は夕陽西山に春きて暮雲地を覆ふ時、又は星光万点螢火の如蒼穹に燦爛く時に」となっていて、内村の詩的高揚をうまく表現できないのが残念ですが、その情景を思い浮かべつつ。

「造化の教訓」はまだまだ続きますが、今月はここまで、11節の部分だけを書き写しました。

 人の救いのために天地万物を造られ、人の救いのためにご自身がキリストとして世に降られ、自ら十字架を負うて全人類の罪を贖い、すべての人に全き救いの道を開かれた神様。

 そんな神様の御思いが、万分の一、いや億分の一も分かるはずもないけれど、それでも、それでも、

 「あなたは、どこにいるのか」創世記3:9

との問いかけから、逃げないでいよう。

 「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」イザヤ44:22

と、今も呼んでおられる主の御声に聴き入っていよう。

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイ9:13と言われる、優しき主の御声に耳を澄まそう。

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」マタイ18:14と言われる、真実なる細き御声が聞こえるまで、

 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」ルカ15:10

と、今も待っていてくださる主の御声を聞きとるまで、いつまでも、どんな時も、主の御声に耳を傾けていよう。

 「主は約束の実現(再臨)を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」2ヘ°トロ3:9との御言葉を信じて、主のご忍耐を思い、終わりの日まで「一人も滅びないで」と念じ続けよう。


福音№313 2014年6月

「喜びの歌」

 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」 1ペテロ1-8

 本当にそうだなあ、と思う。神様もイエス様も、この目で見たわけではないけれど、でも慕わしくてしようがないし、今見なくても信じている。そして、「かみさま」「いえすさま」と心に思い、呼びかけるとき、この世にはない喜びが満ちてきて、私たちはみんな、こんな神様の愛に包まれてるんだってわかってくる。

 この気持ちを詩人が歌うと「胸は開きたり 花のごとくに」って、美しい表現になるんだなあと、新聖歌22番の歌詞を思った。
 
  御神の愛をば 歌うわれらの

  胸は開きたり 花のごとくに

  御顔の光に  迷いの霧も

  疑いの雲も   消えて跡なし

 
この曲は、ベートーベンの第九4楽章「歓喜の歌」のメロディーだからすぐに歌える。くり返し歌っていると、こんな喜びに満たされる秘訣はただ一つ、福音書に記されたイエス様を思うこと。

 「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」 2テモテ2:8

 福音の喜びって、決して難しいことではない。何とも複雑で入り組んだ自分の心をどうにかすることでもなければ、移ろいやすい人の心をあれこれ詮索することでもない。全人類の中でただお一人、罪なきイエス様を思うこと。心は見つめているものに似てくるから、イエス様をじっと見つめていると、心を暗くしている迷いや疑いもいつしか消えて、喜びが満ちてくるのはごく自然なこと。

    み使い聖徒ら 歌え*みいつを (*威厳のこと)

    月 星 太陽 たたえよ神を

    雪降る高嶺も 花咲く谷も

    林も野原も  砂漠も海も
 
 月も星も太陽も、山も谷も砂漠も海も、春も夏も朝も夕も、みんな神様をたたえている。神様の愛を歌っている。この6月、たんぼ道を歩けばカエルの声、清流を訪ねれば飛び交うホタルの光、庭先にはホタルブクロの白い花、緑の風に、耳を澄ませば可愛らしい小鳥の声。みんなみんな神様をたたえ、その愛を歌っている。人の罪ゆえに地は汚染され、やがて破壊と悲惨に至るとしても、それらを超えて導いて行かれる神様を信じるかのごとく、神様をたたえ、その愛を歌い続けている。

 私たちも現実の暗い問題を知らぬ訳ではない。どの問題も、どうしようもないと放り出すのではなく、できることは精いっぱいなさねばならない。でも、だからといって神様をたたえ、その愛を歌うことを止めることはできない。神様はもっと大きく素晴らしいことを、滅び行く私たちのためになしてくださったのだから。
 
  御神は罪ある者をも愛し

  み子なるイエスをば 遣わしませり

  赦しの御恵み きよむる力

  筆にも声にも のべ尽くしえず

そして、最後の4番を歌うと、その喜びは絶好調になった。


 
  御神はわれらの 父親なれば

  御子なるイエスをば 「兄上」と呼ばん

    世人よ親しみ 互いに助け

    御旨の成る日を 忍び待てかし
 
イエス様は「あなたがたをみなしごにはしておかない」ヨハネ14:18と言われた。

ご自身のお話に聞き入る人たちを見回し、

「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」マルコ3:34-35と言われた。                                          

 イエス様を慕い求め集まる人は、みんなみんな神の家族。親のない子も、子のない人も、この世では天涯孤独のさみしい人も、みんなみんな神の家族の一員で、父なる神様の家に住み、イエス様が私たち弟や妹のために身を粉にして守ってくださるお兄様。そんな御国の完成を待ち望みつつ、今すでに、この世にあって神様を「お父さま」と呼べる幸いを思えば、寂しさなんて吹っ飛んで、不思議なほど温かい思いがあふれてくるのだから、神様の御力ってやっぱり素晴らしい。

*********************************************

  主の慈しみは決して絶えない。

  主の憐れみは決して尽きない。

  それは朝ごとに新たになる。

  あなたの真実はそれほど深い。 哀歌3:2223
 
 第一日曜の礼拝で読み続けた「エレミヤ書」を終えて、6月から「哀歌」に入った。2011年7月から3年間、エレミヤ書を読む度に、イスラエルの罪にわが罪を見せられる思いがして、だからこそ読み続けねばと、感話の度にみんなで話し合った。

 しかし、それにしてもと思う。この小さな取るに足りない集会で、こうして聖書を読むことを中心に置いて礼拝が続くのは、主の慈しみと憐れみによるとしか考えられない。そうだった。私たちは力のなさや、危うさを嘆かなくてもいいのだ。私たちは強さや立派さゆえに神様を求めるのではない。弱いからこそ、すぐにもかき消されてしまいそうな危うい者だからこそ、神様を求める。神様のもとに立ち帰るより他に生きるすべのない者たちだからこそ、小さな者に御目を留めてくださる主の慈しみと憐れみによって、毎週の礼拝が与えられるのだと、今心底思う。

 「哀歌」を読みはじめて、「エレミヤ書」を読んできたからこそ、少しでも身にしみて分かると話し合った。エレミヤ書を読む時にも、先に「列王記上下」を学んで少しでも歴史が分かったからこそ、エレミヤ書を身近に思えると話し合った。このように、少しずつ、少しずつ聖書の世界が開かれていく喜びははかり知れない。


 「主の御前に出て 水のようにあなたの心を注ぎ出せ。」哀歌2:19

ああ、日々このように悔い改めて、どこまでもあなたの道を歩ませてください、主よ。


                                                          福音 №312 2014年5月

生かされて 低くされて


 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。フィリピ2:6.7.8


  主から あわれみと ゆるしを

  いただき 今を生かされて

  いることを 感謝いたします。

  共に祈りあって

  主のために 残る人生の

  一日一日を 御名を呼びつつ

  生かされてまいりたいです。 CM


 こんな小さなメモのようなお便りをいただいて、キリストに生きるとは、そうか、このような低さに生きることなのかと、心に花が咲いたように喜びが広がった。

 今こうして生かされている、これは、決して当たり前のことではないのだ。今日生かされていることを喜び、感謝する者だけが、死ぬ日にも(それがたとえ思いがけない災害や、事故、病気であろうと)、素直に「ありがとう」と言って死んでいけるのだろう。なぜなら、私たちの命は神のものであり、私たちは神によって生かされ、すべては神の御手の中にあるのだから。

 キリスト者をこのような低さに導くのは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」あられたキリストの御姿であり、何よりも、全人類の罪を贖われた‘十字架の力’そのものであろう。

 

 キリストの十字架によって赦された喜びが、

   どうか 今日を生きる力であるように。

 今も共にいてくださる聖霊が、

   今日も神と人とに仕える 低き道へと導いてくださるように。

 「天の雲に囲まれて来る」と言われたキリスト再臨の日が、復活の朝が、

   何よりの、唯一の、真の希望であるように。   

「低くされて」

 今日は善い日だった。こんないい日は、人生にそう多くはないだろうと思うほどいい日だった。今日をこんなに善い日にしてくれたのは、何とも素敵な組み合わせの二人だった。 その一人は、愛おしい義母。4月に入って、いつ行っても眠っていて、それでも起こして食事介助をしようとしても飲み込みが難しい。少し目を開けてもすぐ閉じる。これではこの穏やかな生活も長くは続かないだろうし、往診医からの説明を待つばかりだと思っていた。

 ところが今日、母のスケジュール表では「リハビリPM1時から」となっているが、まさか、眠ったままの母がリハビリを受けられるとは思えず、もし来てくださっても「眠っておられますね」と言って、帰って行くのだろうと思っていた。ところが1時きっかりに現れた好青年、理学療法士のNさん。「いえいえ大丈夫ですよ。リハビリを始められて、この頃では歩いておられますよ。眠りが深い時はあぶないので歩きませんが、時々目を開けられるようなら大丈夫」と言われたかと思うと、優しく声をかけながら、血圧測定、検温と手際よく進め、まず足の先から膝、太股とマッサージしながら、関節を曲げ、その度に「宮田さん、いいですよ。素晴らしい」とほめてくださる。母は時折目を開け、それでもNさんにすっかり信頼しているのだろう、何か言われる度に頷いている。そしてついに、「では歩きましょう」ということになり車椅子で移動、廊下を本当に歩き始めたのである。Nさんが体を支えてくださり母は腕を預けて、うれしそうにNさんを見上げ、一歩一歩と真っ直ぐに立って。

 こんなことがあるだろうか、私は「老いるって何て悲しいことか、自分で何もできなくなって、終いには食べ物を飲み込むことさえできなくなって・・・」と、母が可哀想でしようがなかったのに、Nさんは、今日母が生きていることを喜んでくださり、関節が固まってしまわないように、今出来ることをしていてくださる。何の機械も器具も使わず、ただ自分の手と体全体を使って腫れ上がった母の足をもんだり、抱えたりしていてくださる。「これからどうなるのだろう・・いつまでこんな日が続くのだろう・・」と思い煩えば、母はただ可哀想で惨めな存在にすぎないけれど、「いいですよ。そう、素晴らしい。さあ、もう一度」と優しく声をかけ続けるNさんの姿は、決して惨めな人を哀れんでいるのでも、長く生きるための治療をしているのでもない。今できることを精いっぱいしながら、ありのままの母と、母という一人の人間と向き合っていてくださるのだ。

 これだと思った。人が人を愛するとはこういうことだと思った。


 眠っていても、ふと目を開けて、目と目が合うと花のような笑みがこぼれる母。私だけではない、介護をしてくださるある方(その方も青年)が、「目が合って、微笑んでくださると、もう、最高です。その笑顔にいやされるんです。」と言ってくださった。その笑顔を失いたくないとせつに願うけれど、でも、母がまったく食べられなくなっても、胃ろうや高カロリーの点滴を望みはしない。一人での生活が難しくなって、住宅型老人ホームで暮らすようになって6年。一言の愚痴も言わず、いつ行っても穏やかに迎えてくれる母だが、「食べたくないの?」との質問にさえ「わからない」と辛そうに答えるようになって、おそらく、私の想像などはるかに超える忍耐を重ねてきたのだろう。その忍耐によって、母のこの笑顔は守られるのだと思うと、思わず「ありがとう」と涙ぐんでしまう。

 私はこの母をとおして、人は愛してこそ真に価値ある者となるのだと教えられた。存在そのものに意味を与えるのは、愛なのだと。そして、人は生きている限り、老いることも、病むことも、低くされるという意味での絶えざる成長を続けているのだと。

 

 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

                                    1ヨハネ4:12


                                                            福音 №311 2014年4月

パウロの言葉によって


 聖書の言葉の解説は聖書の中にある、と聞いたことがあるけれど、福音書に記されたイエス様の言葉を、そのまま具体的に生きたのがパウロであって、だからこそパウロの言葉はイエス様の言葉の何よりの解説となっている。


☆「悔い改めよ。天の国は近づいた」マタイ4:17

 とは、イエス様宣教の最初の言葉であるが、「悔い改め」とはいかなるものか、パウロの体験がその本質を教えてくれる。

 

★さて、サウロ(パウロ)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。


  悔い改めとは、復活のイエス様に出会って方向転換させられること。自分の信念を木っ端みじんに砕かれて、イエス様に従う者とされること。自分中心(人間中心)からキリスト中心(神中心)の人生に変えられること。

 


☆「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」マタイ5:3


ここでイエス様の言われる「心の貧しさ」とは何なのか、次のパウロの告白が深く語っている。


 


★わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。


・・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。ロマ書7:1424


 自分はどうしても正しく生きられない者である、にもかかわらず、自分の正しさを主張せずにはおられない者である、という自分の罪に打ちのめされて、「だれがわたしを救ってくださるでしょう」と叫ぶ人、救いを求めずにはおられない人。

 


☆だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。マタイ6:24

とイエス様は言われた。

 パウロは自分のことを「キリストの奴隷」と言っている。手紙を書く時、自分はキリストに仕える者であると、まず宣言する。神と富(この世の力)が決して相容おれないものであると、パウロの生き生きした言葉は、今も私たちに語りかける。

 


★わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それを塵あくたと見なしています。フィリピ3:78


 この世のものが輝いて見える時、私たちはまだキリストのものではない。キリストに仕えることだけが、わが刻々の喜びとなるようにと願わずにはおられない。


 

☆だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。マタイ6:3133

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」というイエスさまの御言葉を実践すると、こうなるのだなぁと、パウロの言葉が見事なまでに教えてくれる。

 


★わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。フィリピ4:1113

 このパウロのように「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言えないから、日々、さてどうしよう、私が生きていくには、あれもこれも必要ではないかと思い煩いフーフー言っている。でも、でも、現実の自分がいかようであれ、御言葉を信じ、神を神として生きるなら、必ず勝利の道は開かれる。 先日ある歌集をみていて「境遇に和解し 生活に勝利しよう 舗装された道に タンポポ」という歌を見つけた。このパウロの言葉を思って詠んだ歌のような気がして、なつかしかった。

 

☆イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。ヨハネ11:25

 この御言葉が真に力を発揮するのは、死に直面した時だとパウロは告げる。

 

★わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。2コリント1:89


 この神なき世にあって、神様を信じて生きること。それ自体が戦いであって、戦わずしてキリスト者であり続けることなどできないのだと、パウロの言葉を読みながらつくづく思う。だからこそ、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」というパウロの忠告を良く聞いて、さあ、今日も命の御言葉を抱きしめて生きていよう。  


福音 310  20143


新しく造られた者


  人は女から生まれ、人生は短く

  苦しみは絶えない。         ヨブ記14:1


 このヨブの嘆きを読みながら、ふ~んと考え込んでしまった。「人は女から生まれ」とあるが、私を生んでくれた母を思って再びう~んと考え込んでしまう。母は90才を超え、圧迫骨折で入院中。先日も、こんな私でも側にいれば少しはうれしいかも知れないと病院で数日付き添ったばかりだ。

 「人は女から生まれ」と思おうとしても、いや違う!と強いものが込み上げてくる。人は女から生まれたものに違いはないが、どこか違う。確かに母は私を生んでくれたが、母は「わたしという人間」を生もうとは思わなかったはずだ。私もまた3人の子供の母であるが、その一人一人はそれぞれの人格を持ち、それぞれの人生を歩んでいることを思うと、その一人一人を造られ、その一人一人に期待しておられるのは、創造主なるお方なのだと心から思う。もし人が、ただ女から生まれただけの者であるなら、それがすべてなら、確かに最後に残るのは「人生は短く、苦しみは絶えない」という嘆きだけだろう。

 


  神はご自分にかたどって人を創造された。 創世記1:27

  主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入  れられた。人はこうして生きる者となった。 創世記2:7

 


 そうか、なるほどそうだ、と胸の奥までズドーンと響く御言葉に喜びが込み上げてくる。この私は神に造られたのだ。人は皆、ただ女から生まれただけではない、すべての人は、神の御手によって、神の御意志によって、神のものとして造られた。

 にもかかわらず人は死ぬという現実。神に背き、「どこにいるのか」と問われても、神の前に出ることができず隠れるようになった人に神は言われた。

 


  塵にすぎないお前は塵に返る。 創世記3:19


  木には希望がある、というように

  木は切られても、また新芽を吹き

  若枝の絶えることはない。

  ・・・・・・・・・・・・・・

  だが、人間は死んで横たわる。

  息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。  ヨブ記14:7,10

 


とヨブは嘆くが、本当に、本当に、木でさえ千年も永らえるのに、神にかたどって造られた人間が高々百年ほどで死んで無になってしまうなど、そんなはずはない。

 


  神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。

                      創世記1:31

とある。ご自身の造られた極めて良いものを、それもご自身に似せて造られたおそらく最高傑作である人間を、神がそんなに簡単に捨てられるはずがない。

 


 そうか、そうだったのかと、ここまで書いて目が開かれる思いがした。

 神に背き、神を離れ、神を知らぬ者となり、おごり高ぶり滅びに向かう人間を神様は決して見捨てず、再創造するために、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのだ。

 


   言(キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。          ヨハネ福音書1:12.13

 


 人は自分の生まれにこだわりたがる。何処の誰であるとか、どんな血筋でどのように育てられたとか。こだわりたくないのに、親子や家族、親族のしがらみから逃れられない人も多い。そのような人々に、キリストは、血によってでもなく、肉の欲によってではなく、・・・神によって生まれるという、新しい人生を与えてくださるのだ。

 


  キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

  古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。  2コリント5:17

 


 新しい創造である。「お前は、こんなことをしてきたではないか。お前はいつまでたってもお前のままだ。その罪だけは背負って生きろ。」などというのは人の言葉である。やがて死ぬべき人の言葉である。永遠に愛なる神は、こんなどうしようもない者をキリストによって新しくすると言ってくださる。


 


  わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。   エヘ°ソ2:10


 キリストによって新たに造られた者は神の作品であって、善い業を行うために造られた。しかも、自力で励むのではない、神様がその善行を前もって準備してくださっているというのだ。


 先日いただいた「祈の友近畿通信」を読んでいて、ある方の近況報告には驚いた。


 「私は昨年11月に89才になりました。心房細動や骨粗しょうもありますが、毎朝生かされていることを感謝しています。自分で出来る事でボランティアもしています。養護老人ホームへ行って歌を一緒に歌っています。お顔が明るくなるのが嬉しいです。」M


 Mさんだけでなく、ご高齢の方々の通信を読んでいると、人は死ぬまで神様が準備してくださった「善い業」に、励むことができるのだと、何ともうれしくなる。


 キリストによって新しくされる時、この世のしがらみから解放されて、明日のことを思い煩うこともなく、神様が備えてくださった善い業に励みつつ、与えられた今日という日を生きる。キリストと共に永遠に生きる。やがて来るべきキリスト再臨の日、宇宙完成の日を待ちつつ生きる。こんな驚くべき喜びと平安を与えられ、この恵みをどうして黙っておられよう。


福音 №309 20142
小鳥の歌 この方こそ

小鳥の歌 村に町に告げ知らせる

  良い知らせを

「この世の罪 その身に負うために

  生まれ給うた

この方こそ 世の救い主」と  (新聖歌94・鳥の歌)

 バスの中で本を読んでいて、物言わぬ子供とその子を受け持った心優しい先生の話だと思って読んでいると、急に戦時中の拷問の話が出てきて、虫けら以下に扱われた朝鮮人が赤い絵の具のついたジャガイモみたいになって黙って死んでいった場面に胸が凍りついて、その時、イエス様が十字架について死なれた意味が少しだけ分かったような気がした。

 「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と罵る人々の声を聞きながら、イエス様は、決して十字架から降りなかった。嵐を静め、悪霊を追い出し、死人を生き返らせるイエス様にとって十字架から飛び降りるなどいともたやすいことだった。でも降りなかった。飛び降りる姿をみて拍手喝采、「信じます、信じます」と騒ぎ立つ多くの人の救い主ではなく、苦しみ抜いて死んでいくたった一人の救い主になるために、イエス様は十字架の上に放置されることを選ばれた。

 私の救い主とはこのようなお方なのだと胸が熱くなって、イエス様というお方が何とも誇らしくなって、ああ私も小鳥になって村に町に告げ知らせたいと思った。

 「この方こそ 世の救い主」と。 
 
 「この方こそ 世の救い主」と、イエス・キリストを喜び祝うために、私たちは毎週毎週集まって、共に聖書を読み、賛美歌を歌い、心を合わせて祈る。

 集会の度に、私たちはこのお方によって救われたのだと、この世にあってすでに永遠の世界に生かされているのだという平安と喜びに包まれる。集う私たち一人一人がどんなに欠けの多い未熟な者であっても、神様の恵みはそんなことによって制限されたりはしない。主の名によって集まる所には、主ご自身が共にいてくださって、人間の側の善し悪しを問うことなく、惜しみなく恵みを注いでくださる。そこに集う一人一人は、ただ低くなって、その恵みを全身に浴びれば良いのである。

 「この方こそ 世の救い主」と、味わい知る御言葉は、聖書の中にあふれている。

 今日の主日礼拝では、ヘブライ人への手紙7章11節から28節までを学んだ。こんな難しそうなところも、これが聖霊の助けというのだろう、ギリシャ語もへブル語も読めない私たちでも、聖書を繰り返し読み、担当者の説明を聞き「オオッ」と感動するほどよくわかる思いがした。

 「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク」詩編1104

 へブライ人への手紙では、イエスこそ神と人との間にあってとりなしをする(メルキゼデクに等しい)真の祭司であると論証する。イエス様が来られるまでの旧約時代、祭司の務めはレビ族であるアロンの家系によって継承されたが、その人たちも死ぬのであるから、次々と多くの祭司が任命された。そしてその祭司たちはまず自分の罪、次に民の罪のために、毎日動物をいけにえとしてささげねばならなかった。しかしイエス様はただ一度、民の罪を償う供え物として御自身を献げてくださった。その時から、罪のために動物を献げるという律法から解放されて、キリストによる完全な救いの道が開かれたのである。復活されて天におられるイエス様は今も「常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」とある。

 そして、この手紙の筆者は「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」と続けている。

 ここが、旧約聖書を持たない日本人には分かりにくいのではないかと思う。神様がおられるというのはわかる。しかし、人は神に赦されねばならず、その赦しのために、神と人との間に立って執り成しをしてくださるお方が必要なのだと、いくら説明されてもすぐに納得できるものではないだろう。


 ある人が「聖書を読んで、自分が贖われなければならない(罪のつぐないの必要な)存在だと知って、衝撃を受けた」と言っておられたが、神様との交流を持つためには、私たちは贖われなければならないのだと聖書は告げる。人間は神様によって造られているので、神様との生きた交流なしには、真の平安も喜びも与えられない。そんな当然なことに気づき、自分の空虚に気づき、悪しき思いに気づき、こんな自分をどうにかしていただきたいと嘆き呻くときはじめて、人は、罪を償ってくださるお方を切望するようになるのだろう。

 そのような者のために、イエス様は今も「常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」とある。

 この恵の御言葉を何の疑う必要があろう。私たちが何かを為して救われるのではない。救われる値打ちがあるから救われるのでもない。清くも正しくもない、愛と真実の片鱗もない、このままでは滅びる他ない者を救うためにこの世に生まれてくださり、ご自身の命を献げて神様に執り成してくださるイエス様、「この方こそ 世の救い主」と信じすがって、人はみな救われるのである。


 


 道に迷った人には「羊飼い」となり、渇く人には「いのちの水」となり、暗闇に泣く人には「光」となり、孤独な人の「友」となり、愛なき人の「愛」となり、希望なき者の「希望」となってくださるイエス様。

 雪の舞う日も、芽吹く木々がもうすぐ春だと告げる日も、「この方こそ 世の救い主」と、さあみな共に、小鳥のように歌い続けよう。



福音 №308 20141 

イエスの名によって:御言葉によって

 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。ヨハネ14:1314

 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 ヨハネ15:7

 

 あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 ヨハネ15:16

 はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。ヨハネ16:2324

 

 イエス様が逮捕され十字架につけられる前日、弟子たちに語られた「ヨハネ福音書141516章」を読んで、「わたしの名によって願いなさい。そうすれば与えられる」と、こんなにもくり返し言われていたのだと改めて驚いている。

 

 信仰の友が電話で、この御言葉がいかに真実であるかを話してくださった。それはそうだと心から思った。その友のように静まって、真実な、深い祈りができたら、これらの御言葉の確かさを味わい知ることもできるだろう。でも私はそのように祈ってはいない。「私は動き回る方が多くて、あまり祈りの時間もとらないし、もっと深い祈りができるようになりたい」と言うと「そんなことではなく、キリストの名によって祈るということです」と言われた。そうなのだ、たとえ数分の祈りであれ、一瞬の祈りであれ、キリストの名によって、信じて祈ることなのだ。祈りとは信仰なのだ。キリストと共にあるなら、願いはかなえられ、喜びで満たされる。信じる者に用意された御国が見えるようだ。

 

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 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ヨハネ13:7

 

 そうなのか、今この世で生かされているのは、今は分からないことが、後で、分かるようになるためなのか。なるほど、こうして今日まで生かされてきたのは、その時には分からなかったことが、今は分かるようになった、そのためだったのか。

 キリスト教の中心は何と言っても、キリストの十字架による人類の罪の赦しと救いである。若き日からずっとずっと聞き続けて、その度にそれなりに感動して、いつしか、そうでなければ生きられない、そこにしか救われる道はないと本気で思うようになって。ここ数日、周りの出来事から、またまたどうしようもない人の罪の凄さに、なるほど絶望とは人の罪のことなのだと分からされた。すると、闇が深ければ深いほど光は強く輝くように、キリストの十字架が全世界を、全宇宙を照らしているのが分かって「主よ」と思わず叫んでいる。

 「汝いまは知らず、後に悟るべし」と、そのためにこの人生が与えられ、今日も生かされているのだと思えば、私たちの日々は、死にではなく命に向かっているのだと分かってくる。何を今は知らないのか、そう、キリストというお方を。何を後に悟るのか、そう、キリストというお方を。

 永遠の命とは、唯。一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。ヨハネ17:3

 

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 今朝は携帯メールの着信音で目が覚めた。飛び起きて今朝のメール集会の箇所を読む。

1コリントの信徒への手紙3章。遅くなったとあわてて読んでも、朝一番の御言葉は朝日にを受けた流れのようにキラキラ輝いている。さっと通読し「・・・かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」という御言葉が特に心に残ったので、その御言葉を書き「再臨の日には、すべてが明らかにされるのですね」と書き添えた。Tさんからのメールは「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」という御言葉に「キリスト様に結ばれていないと崩れてしまいますね」と添えられており、その後に「こちらは昨日の午後から雪が降りだし、今朝も20センチくらい降っています」とあった。

 御言葉によってつながっている友。なんと有難いことかと思う。それこそ私たちのつながりの土台は御言葉であり、Tさんだけではない、集会で共に学ぶ人たちともみな、御言葉によってつながっているのだ。私たちが日々御言葉を求めて歩む限り、このつながりはどこまでも続くだろう。

 聖書を読む人と読まない人の間には、深い淵があるようにさえ思えてくる。聖書にはありとあらゆる真理が秘められており、読み続けているともつれた糸が解けてくるように、少しずつわかってくる。

 先週の主日礼拝で「現実から神を見る」のではなく「神の言葉から現実を見る」ということを学んだが、本当にこの世の現実だけを見ていると、人生いろいろあっても、このような日がいつまでも続くように思うし、神の裁きも神の愛もあるようでないようで、ただ自分もいつか死ぬのだから、後の人に迷惑かけないように片付けだけはしておこう・・・というくらいのことかも知れない。

 ところが、聖書には「神は愛だ」と書いてある。人間は、死んだ後「裁きを受けることが定まっている」と書いてある。キリストに従うなら「暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と書いてある。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と書いてある。世の終わりの日には「人の子(イエス様)が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来るのを見る」と書いてある。聖書の言葉を素直な心で信じる時、今を生きることがとても大切なことだとわかってくる。生きる力が与えられる。

 この新しい年も、ひとりでも多くの人と共に聖書を読み、御言葉によってつながりたい。