福音№322 2015年3月
なつかしい母
義母が逝った。94才3ヶ月半、日数にすると34417日間、母はこの世に生きた。その母と私が共に歩み始めたのは、義父の看病と看取りの頃からだった。それから、14年あまり、母の遺してくれたものを書いておきたいと思う。どんな感動も感謝も、時と共に薄れてしまう。だからせめて書き留めて、なつかしい母を思い、何よりも
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 詩編103:2
との御言葉に応えたい。
義母の最期の夜、その苦しみがどれほどのものであったかは分からない。手足はだんだん冷たくなっていくのに胸は燃えるように熱く、側にいて手を握っていても、その苦しみには触れることもできない。母は負うべき死の苦しみを一人負い通した。母のことだ、何故とも問わず、嫌ですとも言わず、たとえどんなに苦しくても当たり前のように耐えたのだろう。それが母の人生だった。
義父の最期の時を思い出す。80才の母が88才を迎えようとしている父を、家で一人で看取った。子どもたちが父の世話に帰ることはなかったし、母自身そのようなことを願いもしなかった。血圧が200近くになっても母は何事もないかのように父の世話をし続けて、父は母に手を握られて死んでいった。斎場に行くバスの中、遺影を抱いた母は眠り込んでいた。それほど自分が疲れていることさえ知らなかったに違いない。
嫁として父には何もできなかったけれど、でもやっと父に報告できる。「お父さん、お父さんが最後まで気にかけていたお母さんを、お母さんがお父さんを看取ったように看取ることができました」。キリスト教に決して好意的でなかった父が、最後に「全部あんたらに任せたらいいんやな」と輝く笑顔で言ってくれた、その父の期待を裏切らずにすんだことは、ただただ神様の深い憐れみだった。
飲み込みが難しくなってから召されるまでの25日間、施設の方々の懸命なお世話を受けながら、眠り続ける日もあれば、目が覚めるとニッコリ笑った母。そんな母の言葉を思わず携帯のメモ帳に書き込んだが、これも母が遺してくれたものだ。
「ある時、天を見上げるようなまなざしで、あれこれ見てるので、『何を見てるの』と問うと『何か善いことあるかなあって見てるのよ』とうれしそうに答えた。」
これも母ならではの言葉だと思った。母はほとんど思い煩うことをしなかった。どんな状況になっても「きっと善くなる」と何の根拠もないのに信じていた。死が近づいても、何か善いことがあると信じて疑わない母は、やはり神様のみ腕に抱かれていたとしか思えない。そんな母の姿を、次のように書き込んでいる。
「母がキリストの救い、十字架と復活の恵みを正しく理解していたかどうかは分からないけれど、救いの平安をいただき、その平安の内に住んでいることだけは確かだ。太陽の光がなぜ私たちを暖めるのか知らなくても、その暖かさを喜んで受け、感謝いっぱいに生きることはできように。」
義母と私は、もともと気が合うほうではなかった。ものごとの考え方や好みも、理解し合えないことの方が多く、隣に住むようになって「お母さん、私は、シンプルライフというか、物はなるべく少ない方がいいと思う」というと、即座に母は「私は、物は多いほどいいと思うわ」という具合であった。おしゃれが好きで色々なカツラを楽しむ母、おしゃれなんてトンと縁のない私。二人共通の楽しみは、外に出た時一緒におうどんを食べることくらいだったかも知れない。
でも隣に住むようになって、母は驚くべき素直さで、日曜日には必ず聖書と讃美歌を抱えていそいそとやって来た。順番のお祈りも、何のこだわりもなく素直に祈った。日曜日毎に共に礼拝を守る、その一点でいつしか二人の間にお互いへの信頼が生まれていったように思う。
それでも5年、7年と過ぎるうちに、だんだんと一人暮らしが難しくなり、88才で「晴れる家」という住居型老人ホームでお世話になったが、晴れる家でも日曜毎に礼拝があり、天に召されるまで礼拝を守ることができたのは、母にとって何よりの恵みだった。
私は週に1~2回、母の部屋で一緒に歌を歌ったり、すぐ側の池の周りを散歩したりして過ごしたが、車椅子の母と二人、♪主われを愛す 主は強ければ♪など、大声で歌いながら池を回っていると、「私もその歌が好きです」と声をかけてくださる方、「お幸せそうですね」と話しかけてくださる方もいて、今思い出しても涙がにじむほどうれしい時だった。別れる時は共に祈ったが、母の祈りはいつも神様への感謝と自分の愛の無さを赦してくださいという祈りだった。母の祈りを聞いて、聖霊に導かれているとしか思えないこともあった。そして、母は年と共に、ますます素直になっていった。
お互いに、お世辞にも好きなタイプだとは言えなかった二人が、時と共に愛おしい存在になっていったのは、よく一緒に祈ったからだろう。でもそれ以上に確かなことは、母が弱くなるにつれて、その弱さが私の心を母に向かわせたこと。弱さって人の心から愛を引き出す力なのだとつくづく思う。もし、母が弱くならないで、一人で何でもできていたら、母と私の距離はそれほど縮まることはなかっただろう。だが、幸いなことに母は弱っていった。晴れる家でも最初は歩いていたのに、いつしか車椅子になり、いつしか食事介助が必要になり、いつしかその食事ものどを通らなくなり、ついに呼吸もできなくなって死んでいった。できなくなった分だけ母と私のつながりは強くなり、愛おしさは倍増していった。
そして気づいた。イエス様が「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われた愛とは、お互いの弱さを愛することなのだと。私たちは、愛し合うためには互いに愛されるにふさわしい者であらねばと考える。しかしイエス様が私たちを愛してくださるのは、私たちがイエス様に愛されるにふさわしい善い人間だからではない。正しくありたいと願いながら正しくあり得ない、愛の人でありたいと願いながら愛することのできない、そんなどうしようもない弱く愚かな者を、イエス様は命をかけて愛してくださるのである。ただ「主よ、憐れんでください」とひれ伏す低さのゆえに、神様にすがるより他ない貧しさのゆえに、愛し慈しんでくださるのである。
「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちのものである」マタイ5:3
母は、人の助け無しに生きられない辛い日々をとおして、私にこの御言葉の真の意味を教えてくれたのだ。
「主を畏れる人は、幸せな晩年を送り、臨終の日にも、主から祝福を受ける」シラ1:13
お母さん、聖書の言葉って本当ですね。うれしいですね。また会う日まで。